コザの散歩(2) コザ十字路絵巻(その1)

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    一昨年、コザ十字路に完成した壁画「コザ十字路絵巻」。その全長は160mもあります。



    国道330号線の拡張工事により、銀天街最前列の店舗が剥ぎ取られ、その奥の建物の壁面が剥き出しになりました。しかし、無茶苦茶しますねぇ。そんなことしたら、銀天街が商店街に見えなくなってしまいます。


    ところが、そこを逆手にとったデザイナーが現れ、国道の拡張でツラが揃った壁に絵を描こうと思いついたんですよ。そのデザイナーの呼びかけに、東京の壁絵職人(ウォールアーティスト?)が応えました。

    素晴らしい。これは素晴らしいとしか言いようがありません。

    壁画プランは沖縄市に提案され、事業化が決まりました。デザイナーと壁絵職人の指揮の下、銀天街の若手から通りがかりの学生まで、多くの人達がこのアートプロジェクトに参画しました。


    それではさっそく、壁画を拝見しましょう。



    ガストの看板がオシャレです。「これはちょっと外しましょうね」などと言わないのがいいところ。

    左手には万国津梁の鐘。

    「琉球国は南海の勝地にして、三韓の秀を鍾め、大明を以て輔車となし、日域を以て唇歯となす。此の二の中間に在りて湧出する蓬莱島なり。舟楫を以て万国の津梁となす」

    鐘に刻まれた銘文が海洋国家「レキオ・グランデ(大琉球国)」の気概を示しています。沖縄県知事ならびに県庁幹部職員は、県庁応接室の屏風の前に立ち、毎朝これを唱和いただきたい。

    何でコザで万国津梁なのかについては、鐘の製作を命じた尚泰久王が、即位前に越来王子として越来グスクで暮らしていたことによります。まあ、ちょっとアレな気もしますが、若き日の泰久王は越来の地で、誇り高き琉球国王としての素養を醸成し、後に立派な鐘を作りましたということか?。


    このコザ十字路絵巻は琉球王朝の時代から現在に至るコザの歴史が学べるようになっています。尚泰久王は百十踏揚のお父さんですから、160mある壁画の右半分には護佐丸や阿麻和利、踏揚を背負った大城賢勇などが登場します。

    ある程度、沖縄の歴史を知っている人は壁画鑑賞の楽しみが倍増し、何のことやら分からない人には、歴史の勉強を促す仕掛け。一つ一つに解説はありませんから、そこは自分で調べなさいってことよね。パチパチパチ。


    おっ、危うく次に行くところでしたが、右手には鳥に乗る飛び安里。人類で初めて空を飛んだ男です。南風原の偉人として、常々、南風原町役場が自慢してますが、どうして彼がコザに?

    飛び安里の伝承にはいくつかあり、その一つは飛び安里が花火師であったとするもの。その花火師は越来に住み、そこから泡瀬の岩壁や南風原の高津嘉山に出向いてフライトしたんですね。あれまあ、それじゃあ南風原の偉人はウルトラマンだけになってしまいますが、どうするんだ南風原町役場。

    (続く)


    コザの散歩(1) コザ十字路

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      ここはコザ十字路。ここを起点に那覇まで続く国道330号線と、那覇から沖縄本島の東海岸を名護まで北上する国道229号線が交わる十字路で、昔も今も交通の要所です。



      この十字路をコザ十字路と呼ぶ理由は「ここがコザだから」と言うほかありません。

      1957年の米軍作成地図を見ましょう。



      軍道24号線と軍道13号線は現在の国道330号線と国道329号線。両者が交差するコザ十字路の北西にkozaの表記があります。

      終戦時期、嘉間良を中心に、室川、越来、安慶田に広がっていた収容所を米軍はキャンプ・コザと呼びました。そして、1956年に誕生したコザ市にその名前が継承されたのです。


      コザ十字路にあった本町通りと、



      十字路市場。



      両者が合併し、1978年に誕生した銀天街は、米軍向けの飲食店や衣料品店、また、地元住民の台所として最盛期を迎えました。

      主として白人が集まる胡屋十字路に対して、コザ十字路は黒人の街でした。胡屋のロックとコザのソウル。二つの十字路は共に賑わいましたが、当時「十字路」と言えばコザ十字路を意味したようです。すなわち、ここがコザの中のコザ。


      ところが、最盛期に120店を超えていた銀天街振興組合の加盟店は40店足らずにまで減少し、2014年に組合は解散してしまいました。

      組合の解散は加盟店が減少したことだけが理由ではなく、加盟店が組合費を払えなくなったことによります。銀天街の名前は今も残っていますが、その実態(つまり組合)は既にありません。


      銀天街繁栄の象徴だったアーケード。



      劣化が進み、部材が地面に落下するようになりました。アーケードを撤去するには約2千万円かかるそうで、住民が沖縄市に撤去を要請しています。

      沖縄市はアーケードを撤去する責任はそれを建設した組合にあると主張しているようですが、その組合は既に無いのですから、責任の所在を明らかにしたところで何の解決にもなりません。住民の安全を誰が守るかと言えば、それは行政でしょう。て言うか、商業的に衰退していくコザに対して、常に無策だった責任を行政は取らないと。

      私の印象としては、銀天街を復活させるとか、活性化するとか、そのような議論をする時期は既に過ぎていると思えました。

      (続く)


      農連市場の猫小(マヤーグヮ)

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        与那国ぬ猫小(与那国民謡)

        与那国ぬ猫小(マヤーグヮ)
        鼠(ウヤンチュ)騙しぬ猫小
        ハリ二才(ニーセー)騙しぬ
        やから崎浜よー主ぬ前ハリ
        ヨーヌヨーシュヌマイハリ
        シターリヨーヌ
        ヨーヌヨーシュヌマイハリ
        (ニャオ〜〜ン)


        与那国の猫ちゃんは、鼠を騙せば若い男も騙す。猫の唄かと思えば、これは若いネェネェの唄。軽快でテンポが良く、人気沖縄民謡の一つです。

        ところがねぇ。新良幸人のこれを聞いてしまうと、いくら上手でも、他の人の唄は聴けなくなるのよね。困ったことです。

        他の人の唄が私の耳に届いても、私の脳内では幸人が唄ってまして、そこで両者を比較してしまうのよね。そしたら、私の耳は本能的に外からの音を遮断しようとします。

        う〜む。これまでちゃんと聴けたのは、与那国出身の宮良康正さんか、喜納昌吉さんくらいですかねぇ。異論もあろうかと思いますが。


        話は変わりまして、こちらは樋川の猫小。



        しばらく見えなかったので、誰かが貰ってくれたかと思ってたら、三匹とも生き延びていました(扉の奥にもう一匹)。それなりに身体も大きくなって、母猫はちゃんと育児をしてるようです。

        でもやっぱり、毛並みが悪いし、身体にハリがありません。そして、常に怯えた様子だし、眼つきも弱々しい気がします。いやぁ、野良はつらいな。


        こちらは取り壊しを待つだけとなった、農連市場の建物。



        いかにも猫が喜びそうな、筋力強化にはもってこいの建物です。屋上から隣の屋上にジャンプし、次の建物の屋上に駆け上がる猫の姿が見えるようです。三匹の猫小はそんなことができるまで成長できるのか。


        それに引き換え、家猫の幸せなこと。概ねメタボでゴロゴロしている印象があります。同じようにメタボのオヤジがゴロゴロしてると粗大ゴミ扱いされる一方、メタボ猫はその家の嫁やら娘やらに「あらぁ、何してるんでちゅかぁ、ニャン」などと声をかけてもらえるし。それではオヤジの立場が無いやないの。

        「おい、そこのメタボ家猫。お前もしばらく農連市場で暮らしてみるか?。そしたら、これまでの自分の人生がいかに幸せであったか、身にしみて分かるやろ。世間知らずのまま年老いたら『まずまずの人生やったな』とか、生意気なことを言い出すに決まっとる。同じ猫としてそれではあかんやろ」と言いたい。


        ところで、与那国の猫小と樋川の猫小は何の関係があるのかという問題については、投稿を書き始めた時には、いつの間にかうま〜く繋がる予感がしたものの、そうはなりませんでした。

        よくあることなので、それはそれ、これはこれで、どうかよろしゅうに。


        南風原町宮平の善縄御嶽

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          いつもの午後の配達。私は南城市大里にある山羊のいる保育園に向かってました。

          そしたら、南風原の丸大スーパーの前を走行中に、右手に何かの赤瓦がチラッと見えたんです。「ほんなら帰りに寄ってみましょうか」ってなりますね。当然。

          おお〜!!



          何か知りませんが、立派な拝所が完成していました。

          善縄大屋子之墓。



          あっ、そうなんや。ここは善縄(ヨクツナ)御嶽があった場所かぁ。

          2、3度来てるはずですが、雑草が多くて蚊に刺される雰囲気と言うか、アシバーがたむろする雰囲気と言うか、語るべき事も無かったのか、投稿もしてませんね。

          それがまあ、立派になっちゃって。拝所の前は広場(ウガンヌ前公園)になり、ジョギングレーンあり、ステージあり、バスケのゴールやトイレまで完備。



          南風原町はいつの間にかエーキンチュなったんやぁ(笑)。


          善縄大屋子は(現在の)南風原町宮平に住んでいた漁師で、使者の亀とともにニライカナイ(天国)へ行ったとされています。ナイチの天国は空の上にありますが、沖縄の天国は海の彼方にあり、使者はたいていの場合、美女と亀。

          このあたりは(沖縄版)浦島太郎が住んでいたり、空から天女が舞い降りたりする民話の里です。


          宮平は南風原間切の番所があった集落で、今も番所のフクギが健在です。古くから交通の要所であり、最近(?)では軽便鉄道の駅がありました。

          繁栄した集落だから民話が生まれる土壌(豊かさ)があったのか、辛く厳しい生活の中で、現実逃避の手段として民話が生まれたのか。それはおそらく後者。

          善縄大屋子はかけがえの無い人物で、集落の人達は彼の死を認めるわけにいかず、ニライカナイで生きていることにしたのではないでしょうか。例えばね。


          立派な拝所とお墓を建ててもらった大屋子は、(昔と比べれば)豊かになった集落の様子に満足していることでしょう。

          それにしても、南風原町はどうやって予算を工面したんでしょ。カボチャを大増産したのかな(笑)


          沖縄1935(4) 古謝集落の美栄泉(ミーガー)

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            沖縄1935のこの写真は、現在の沖縄市字古謝にある美栄泉です。



            右側に立つ人物は、(当時の)古謝集落区長の知念賢榮さん。古謝集落の農業近代化に尽くされた方です。

            そして、美栄泉の今。





            ちょと、忘れ去られた感がありますね。まあ、どこの集落でも役目を終えた井戸は、概ねこんな雰囲気です。

            この日私はたまたま近くを通ったので、とりあえず、美栄泉だけを訪ねてみました。ここを起点に、近々、古謝集落をじっくり歩くつもりです。


            古謝公民館では、8月23日までの期間、沖縄1935の写真展を開催中です。

            地元で写真展を開催することには大きな意味があります。例えば、古謝のサトウキビ畑の男の子。



            この写真を見た女性が「この子は私の父です」と。

            昨年、88歳でお亡くなりになったとのこと。いやぁ、残念です。もう少しだけ長生きされていれば、写真を見れたのに。


            写真展の開催により、地元ならではの情報が掘り起こされ、それぞれの写真の付加価値がどんどん上りそうです。


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            念願の沖縄生活を始めて7年になりました。
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