ビン(瓶)コーヤー

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    隣の八百屋のコーちゃんとこんな話になりました。

     

    C「おい、コーちゃん。ビンコーヤーをビンコーヤーって呼んだら叱られるなぁ」

     

    コ「そりゃあ叱られますよ。ちゃんと『瓶を買う人』と呼んで下さい(笑)」

     

     

    空瓶回収業は空瓶を買い取って、酒造メーカーなどに売る商売。本土復帰の頃、ある婆さんがこの商売をやっていて、近所の人達からビンコーヤーと呼ばれていました。

     

    ビンコーヤーがあるんだから、カン(缶)コーヤーもあったんでしょう。また、ガラグヮー(フニグヮー)コーヤーという商売もあって、豚や山羊の骨を買い取って、それを砕いて肥料として売ったそうです。

     

    いずれにせよ、こうしたコーヤー商売は下に見られる傾向があり、ビンコーヤーの婆さんはそう呼ばれることを嫌っていました。婆さんが嫌えば嫌うほど、そう呼びたくてウズウズしてくるのが近所のワラバー達。こいつらは何事にも遠慮容赦がありませんからね(^^)

     

    引退したカマボコ屋のトモコオバぁが「オレは売れるモンなら石でも仕入れる」と言ってました。それは終戦から復帰まで、激動の時代を生き抜いた女性の心意気みたいなもの。ビンコーヤーの婆さんも、きっと同じことを考えていたんでしょう。

     

    ウチの青果物仕入担当のA部長は、お母さんに「ヤナーコーヤー」と呼ばれてます(笑)。そう呼ばれるたびに苦笑いするA部長。その顔には「ヤーがやってみれ」と書いてありました(^^)


    マチヤグヮの思い出

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      私の実家は呉市の主峰「灰ヶ峰(737m)」の麓、急な坂道の途中にあります。「この世界の片隅に」を観た方には、すずさんの嫁ぎ先みたいな所と言えば分かりやすいでしょう。

       

      商店は坂の下にあり、自家用車が普及していない時代、買物に出かけるにはちょっとした決心が必要だったと思います。

       

      長い坂道の途中に駄菓子屋が離れて2軒ありました。沖縄ではマチヤグヮですが、呉では駄菓子屋とも呼ばず、店主の苗字で呼んでました。私の実家の隣にあった駄菓子屋は「新田」。

       

      新田には駄菓子の他に風船だとか、当たるかどうかもわからないようなクジだとか、つまり子供が喜びそうなものが置いてあり、近所の奥様方のニーズに応えて、調味料などもあったと思います。私の母に「ちょっと、新田でお醤油を買ってきて」などと、よく言いつけられたものでした。

       

       

      新田の婆さんは、私を実の孫と同様に可愛がってくれたと思います。私が入社した某鉄鋼メーカーは私に内定を出すにあたり、人事部の職員を新田に向わせたようです。

       

      「Cさんの近所の評判はどうですか?」と。

       

      新田の婆さんは直ちに、

       

      「あんなええ子は滅多におらんけぇね。心配なようなら誰にでも聞いてみんさいや。このへんであの子を悪う言うようなモンは一人もおりゃあしません。そりゃあ私が保証するけん、絶対大丈夫じゃ」

       

      と(笑)

       

      新田の婆さんは、今思い出しても泣けてくるようなことを言ってくれて、そのおかげで私はその会社に採用され、社会人としてスタートを切れたのでした。

       

       

      さて、ここからが本題です。

       

      城岳近辺でかつての悪ガキの一人だった読者のうちなーんちゅさんにとって、思い出深いマチヤグヮは楚辺の比嘉商店だそうです。

       

      それを聞いて、今日、行ってきました。

       

      お昼に下見に行ったところ、シャッターが閉まってました。これは、最重要顧客である悪ガキ達の下校時間に合わせて開店するんだろうなと(^^)

       

      で、仕事が終わった帰りにもう一度。今度は開いてました。そこで問題になるのはガタピシと扉を開けた時の入射角です。かつて、古波蔵の居酒屋「エール」にスーツ姿で入り、マスターに「何のご用ですか?」と言わせた私です。

       

      そこは慎重に、

       

      「こんにちは〜。ずっと前にこの辺にM.O君って子が住んでましてね。もう40年くらい前です。今はナイチにいるそのO君に、比嘉商店がどうなってるか見てこいと言われまして」

       

      比嘉商店のオバさんが安心した顔になったので、

       

      「O君はここへタコ焼きを買いに来る時にね。あのあたりの塀の陰から、店にいるのがシーブンをくれる婆さんか、くれないオバさんかを見極めていたそうです」

       

      そしたら「そのケチなオバさんが私です(笑)」と。タコ焼きは10年前までやってたそうです。

       

       

      婆さんは一昨年、98歳でこの世を去り、生きていれば今年で100歳だったとのこと。オバさんが店の奥から遺影を持ってきてくれました。

       

       

      盛大なカジマヤーができて良かったと。

       

      「O君はナイチでお医者さんをやってます」と伝えると、「お利口だねぇ。そんな話を聞くのは嬉しいさぁ」と。

       

       

      「せっかくだから、何か私が買えるようなものがありますかね。ガムとか」

       

      そこで勧められたのが乾燥梅干し。1個10円。

       

      「マチヤグヮと呼ばれてたお店がどんどん減っているようだから、頑張って下さいね」

       

      比嘉商店は創業54年だそうです。つまり、婆さんが46歳で始めたと。若いなぁ。もちろん復帰前。

       

      「私が元気な間は続ける」そうです。

       

       

      乾燥梅干し一つで客となった私は、

       

      「お店の写真を撮らせて下さいね」

       

      「あっ、もし良かったら写ってくれませんか?」

       

      「あっ、それじゃあ暗いので、もう一歩前へ。はい、オッケー!!」

       

      パチリ

       

       

      どう?、うちなーんちゅさん。


      喜んだ?(笑)



      (追伸)


      うちなーんちゅさんから写真が届いたのて掲載します。矢印の場所にタコ焼き器があったそうです(^^)



      その後のタコ焼き、糸コンニャク

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        (1)タコ焼き(→過去の投稿はこちら)

         

        保育園の調理師が作った紙製のタコ焼き。

         

         

        この日、園児達は甚平(昼寝用のパジャマ?)を着て、調理師はハッピ姿。ビニール製のプールで(おもちゃの)金魚をすくったり、屋台でタコ焼きを買ったりして、縁日の雰囲気を楽しみました。

         

         

        写真右手のハッピの女性はN料理長。お遊戯会では護得久栄昇に扮するなど、このテの企画には乗るタイプ。私が「ウーッス」と厨房に入ったら、「あっ、お帰りなさい」と寝ぼけてたのもこの人でした(笑)

         

        例年、タコ焼きを焼くのが追いつかないそうで、今年から職員は冷凍のタコ焼きで我慢することに。よって、お裾分けはありませんでした(^^)

         

         

        (2)糸コンニャク(→過去の投稿はこちら)

         

        糸コンニャク計16キロを配達する日が来ました。実際の重さは30キロ以上あります。

         

        ただいま、コンニャク屋のオバハンはご機嫌でレジ打ち中。

         

         

        コ「ウフフ。糸コン240円が12キロ」

         

        C「ウフフはええから」

         

        コ「そんなこと言わないよ。ウフッ。次が6キロ」

         

        C「も〜、早よせぇよ」

         

        コ「たいへんだね。頑張りなさいよ。切りコン2キロ」

         

        C「・・・」

         

         

        (3)鳳凰木(→過去の投稿はこちら)

         

        鳳凰木が開花の季節を迎えています。こちらは田原(小禄)の教会近くの歩道で撮ったもの。

         

         

        私は10年前の9月20日に古波蔵のレオパレスに入居し、沖縄県民となりました。部屋のベランダに出ると道路の向かいの大木に赤い綺麗な花が咲いていて、「はぁ、あれが鳳凰木か」と。私にとって、思い出深い花になりました。


        意味が分からんな(^^)

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          「放っておきなさい」と言われることが分かっていながら、グズグズ言います。

           

           

          (1)靴紐を結ばない女

           

          那覇空港の搭乗口通路で靴紐がほどけた若い女性がいたので、「ほどけてるよ」と言ったら「いいんです」と。

           

          「いいんです」(笑)

           

          きっと、それが彼女のスタイルなんでしょう。

           

          空港だから、ムービングウォークやら、エスカレーターやら、エレベーターがあり、そこへ靴紐が巻き込まれたら地獄絵になりそうです。

           

          あ?、ちょっと待てよ。ひょとして、彼女は靴紐をきちんと結べないのかな(^^)

           

          靴紐を結ぶのは簡単だから、こんな風に練習してみればいいのに(笑)

           

           

           

          (2)買物かごを使わないオバハン

           

          スーパーの買物かごを使わずに、カートに直接、商品を乗せるオバハンがいるのよね。

           

          今日、レジで私の前にいたオバハンは、20個ほどの商品をカートに乗せてました。前の客の計算中にオバハンはレジの台にせっせと商品を乗せます。

           

          オバハンの順番になりましたが、商品が離れた位置にあるので、レジ担当者がレジの近くに一つ一つ移動させます。

           

          考えてみて下さい。買物かごに入っていれば、オバハンもレジ担当者も一回で済む動作を、それぞれが20回。

           

          「待ってる客に迷惑をかけんなよ」と言いたい。

           

          て言うか、手間がかかると分かっていながら、何でそんなことをするのかな。

           

          寝てんのか?

           


          ペリー提督日本遠征記(3)西原〜旗立岩

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            西原町のキャンプペリーで野営を終えた調査隊は東海岸を北上しました。

             

            西原町から中城グスクまでの行程はハンタ道を歩くことになります。一昨年の今頃、私はハンタ道を首里から中城まで歩いているので、調査隊がどのあたりを歩いているのか、おおよその見当がつきました。以下の抜粋は、中城村新垣付近の描写と思います。

             

             

            (遠征記の抜粋)

             

            まもなくわれわれはまた湾をのぞむ分水嶺に達し、壮観な景色を堪能した。

             

            分水嶺は、すでに見たように東海岸にごく近く、そちらへ下る道は西海岸へ下る道よりもはるかに険しい。こちら側の土地はさらによく耕されていて、穀物もずっと豊かである。

             

            下方の山裾は美しい琉球松におおわれ、ところどころに穀物や野菜の段畑があり、麓の平地は約15マイルにわたって稲穂で黄金色になっている。散在する村落を数えてみると12ほどあり、なかにはかなり大きな集落もあった。

             

            北のほうには長い半島があって、われわれが湾の端だと思っていたところよりはるかに先までのび、島の南東に向かって突き出している。

             

            (抜粋終わり)

             

             

            新垣集落の東端にボージャーグヮ(坊主小)と呼ばれてる眺めが良い場所があります。新垣集落の子供達は、そこから崖下に降りるボージャーグヮミチを転がるようにして学校へ通いました。石段さえ無い、草を刈っただけの道でした。

             

            調査隊が気づいたように、このあたりの地形は、東海岸から急激に高度が上がり、西海岸に向かってなだらかに下っています。そのため、新垣集落は東海岸の崖上にありながら、そこを流れているアラカチガーラは普天間川となり、北谷で東シナ海に出ます。

             

            島の南東に突き出している半島は、もちろん、与勝半島です。

             

             

            (遠征記の抜粋)

             

            そこから、やや西に曲がっている道を2マイルほど進むと松林の中にそびえ立つ、奇妙な形の岩に出くわした。

             

             

            その頂は鋭いのこぎりの歯のようで、峰より70から80フィートも高くそびえていた。第二期石灰岩でできたその奇岩は、風化してハチの巣のようになっており、目をみはるようなおもしろい眺めを呈していた。

             

            私はそのてっぺんに登ってみたが、頂が尖っていて、足元は極めて不安定だった。

             

            そこは島のこの地区の最高峰だと分かり、両方の海岸をかなり遠くまで見わたすことができたので、私は旗を持ってくるように命じ、岩のてっぺんでそれを翻した。

             

            その間部下達は下で礼砲を撃ち、三度、歓喜の声をあげた。

             

             

            (抜粋終わり)

             

             

            この日、調査隊は中城グスクを経て具志川まで進みますが、私の投稿は、ここで一旦終わります。

             

            中城グスク以北は、私の訪問密度がガタッと低下するので、遠征記を読んでもその場の風景がリアルに思い浮かびません。いつになるかは分かりませんが、訪問密度が上がった時に、投稿を再開することにします。

             

             

            過去の投稿はこちらから。

             

            ハンタ道を歩く(1)首里城〜弁ヶ岳 

            ハンタ道を歩く(2)首里石嶺〜泉小 

            ハンタ道を歩く(3)幸地〜オキコ製パン工場 

            ハンタ道を歩く(4)坂田交差点〜南上原糸蒲公園 

            ハンタ道を歩く(5)東太陽橋〜安里村壱里山 

            ハンタ道を歩く(6)若南原〜新垣集落 

            ハンタ道を歩く(7)ツンマース、根屋、殿 

            ハンタ道を歩く(8)ペリーの旗立岩〜中城グスク 

            ハンタ道を歩く(9)Keep Going


            ペリー提督日本遠征記(2)那覇〜西原

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              ペリーが派遣した調査隊の行程図です。「ペリーの歩いた」とありますが、ペリーは同行しておらず、調査隊は士官4名と水兵4名に中国人クーリー数名を加えた編成でした。

               

               

              調査隊は那覇から東海岸に出て、宜野座村漢那まで北上しています。そこから山越えして恩納村名嘉真に出て、西海岸を南下する6日間の行程でした。

               

              私は石川で折り返したと過去に投稿していますが、私の記憶違いか、間違った情報によるものでした(^^)

               

               

              さて、那覇を出発して東へ向かった調査隊は首里城の横を抜け、弁ヶ岳を通り過ぎた先の丘にいます。


               

              (遠征記の抜粋)

               

              (弁ヶ岳から)半マイルも進むか進まないかのうちに島の分水嶺に達すると、眼下に、東に向かって壮大なパノラマが開けた。

               

              太平洋が水平線をなし、島から突き出している二本の岬の間には広々とした水面が望まれたが、それはバロウ湾らしかった。

               

              われわれのいるところと海との間には、丘が連なって円形闘技場のような形をなし、それぞれの丘は頂の部分まで耕地になっているため、まるで鮮やかな青緑の衣をまとっているように見えた。

               

              斜面には丁寧に段がつけられ、土地の傾斜を利用して灌漑用の雨を集めるようになっている。これらの絵のような丘は、風景の輪郭に多彩な変化を与えながら、約20マイルにわたって広がっている。

               

              西方には、これまで通ってきた郊外の区域がすべて見渡せ、はるか北西にはブロートン岬と思われる半島も見える。

               

              (抜粋終わり)

               


              当時の沖縄はすべての丘の頂まで、棚田(または段々畑)が整備されていました。農民は自分の土地でもない田畑で労働を強いられ、作物を物納していました。不便な場所でも農地にせざるを得なかったのですね。そして、皮肉なことに、そのような農地こそ美しい。

               

              私はこの場所に覚えがあります。弁ヶ岳を抜けて開邦高校の横を過ぎた先にある丘。火立毛です。

               

              私も「お〜、いい眺めだぁ」とは思いましたが、遠征記のように細部まで見ていませんでした。これは見習わないと。

               

               

              抜粋にある「二本の岬」は知念と与勝。バロウ湾は金武湾なので著者の勘違いでしょう。正しくは、もちろん中城湾。ブロートン岬は残波岬です。

               

              それから、冒頭の行程図で1日目の行程が中城までとなっていますが、正しくは西原町小橋川まで。野営の描写を見れば、背後に知念半島が見えてますね。

               

               

              調査隊はこの野営地を「キャンプペリー」と名付けました。この頃から米国では「キャンプ+人名」の命名法だったようです。探検旅行一泊目の高揚感なんでしょうが、「一泊しただけで名前を付けんなよ」と言いたい。

               

              この夜、調査隊の一行はガジャンの大群に襲われて、ほとんど眠れなかったようです。お気の毒ですね(笑)

               

               

              過去の投稿はこちらから。

               

              青い目が見た「大琉球」 

              ペリーの野営地


              ペリー提督日本遠征記(1)那覇港

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                「ペリー提督日本遠征記」を読んでます。

                 

                 

                合衆国政府がペリー監修の下、ペリーの日記やノート、公文書などを基に編集した遠征記です。

                 

                ペリーは那覇を拠点に、浦賀へ2度、香港と小笠原諸島へ各1度の航海をしているので、那覇への寄港回数は計5回になります。

                 

                この遠征記には美しい沖縄の風景が随所に描かれています。それを読むと大変気分が良いので、その一部を抜粋しました。コピペができないので時間がかかるのよ、これが(^^)

                 

                 

                (遠征記の抜粋)


                (1)那覇入港前

                 

                海上から眺めると、この島の海岸は緑が美しく、鮮やかな緑の森や耕地があって彩り豊かである。雨のためにその風景の色彩はなおいっそう輝きを増し、豊かなイギリスの風景を思い起こさせた。

                 

                水際からすぐに隆起している丘は島の中心に向かってしだいに高くなっており、ところどころ唐突におもしろい形の岩山が突出していて、かつて火山活動があったことが分かる。

                 

                丘陵の頂きに沿って杉か松らしい森が広がり、傾斜地は菜園や穀物畑でおおわれている。丘の北側はさらに高くなっており、また海岸は岬が二ヶ所突き出し、その間が深い湾か入江になっていることを示している。 

                 

                 

                (2)那覇入港後

                 

                艦が島にかなり近づいたので、湾の奥の那覇の町がはっきりと見えた。

                 

                その正面にアベイ岬と呼ばれる岬が突き出していた。その岬は樹葉でおおわれ、突端のところに岩山がかたまっていたが、そこにある苔むした小塔と扶壁とがこの岬の名の由来であることは明らかだった。

                 

                丘にはところどころ白い斑点が点在していて、はじめは住居かと思われたが、やがて石灰岩の墳墓であることが分かった。

                 

                 

                (3)那覇上陸後

                 

                われわれはしばらく珊瑚礁の岸にもたれ、不思議な海中植物の美しい色や形状に見とれていた。

                 

                珊瑚礁は円形の堤のような形を成し、まるで秋の森におおわれた小さな丘の連なりのようで、その中に澄んだ深い水をたたえていた。

                 

                青、紫、薄緑、黄、白が華麗なぼかし模様になって波間にひらめき、崖の緑にはさまざまな形状の植物が群生し、海面下を流れる潮流によってできた谷に垂れ下がっていた。

                 

                そのような珊瑚の森の間を、まじりけのないラピスラズリの矢のように、青い魚があちらこちらと行き交い、目のくらむようなエメラルド色をし、尾と鰭の間が金色をした魚がアラビアの物語にでてくる緑の鳥のように手をすりぬけていった。

                 

                水はその深さを見誤るほどに澄みきっていて、まるで蔓植物の天蓋に腰をおろしているような気がしたり、また、向き合う二つの山頂の間にぶらさがっているような心持になったりするのだった。

                 

                詩や寓話の題材となるあらゆる海の脅威のうちでも、この眺めは最も美しいものだった。

                 

                (抜粋終わり

                 


                突き出した二本の岬のうち、一本は先原崎。ペリーの地図ではアベイ岬と名付けられていて、大修道院を意味するそうです。

                 

                現在の那覇空港の北端が先原崎。LCCターミナルの利用経験がある人は、LCCに到着したシャトルバスを思い浮かべて下さい。そのバスの真後ろの方向に先原崎灯台跡があります。

                 

                さて、もう一本の岬はどこでしょう。まず波の上が思い浮かびましたが、先原崎と対比するには小さ過ぎますね。私の想像ですが、浮島全体を岬と見なしたのではないかと。

                 

                 

                波の上には宣教師のベッテルハイムが住んでいて、ペリー艦隊が那覇港に入港した際は、自宅にイギリス国旗を掲げて歓迎の意を示しました。

                 

                ペリーはベッテルハイムの名前を知っているばかりか、彼が島民に嫌われていることまで知っていたようです。琉球に渡航した西欧諸国間で琉球の情報が共有されていたんですね。

                 

                 

                ペリーの艦隊は那覇港沖に停泊し、そこから小舟で上陸しました。私はその上陸地点を、上陸碑のある泊港と思っていましたが、士官達が乗った小舟がベッテルハイムが掲げたイギリス国旗を目指したため、最初の上陸地点は波の上になりました。

                 

                 

                過去の投稿はこちらから。

                 

                泊港の風景(2)ペリー来航 

                ペリーの航海 

                テンペストの登場人物(1)ベッテルハイム(上) 

                テンペストの登場人物(1)ベッテルハイム(中) 

                テンペストの登場人物(1)ベッテルハイム(下)


                読谷の空は何故広いのか

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                  JUGEMテーマ:地域/ローカル

                   

                  座喜味城跡公園から真栄田岬方向を眺めています。


                   

                  本来なら恩納村や本部半島がくっきり見えるはずですが、梅雨明け前ですから贅沢は言えません。

                   

                   

                  それにしても、読谷の空は広いわぁ。

                   

                  何でこんなに空が広いのか、私なりに考えてみました。超簡略化すると、読谷はこんな地形なんですよ(笑)。お皿を裏返したカタチ。

                   

                   

                  海岸から斜面を登った所、つまり皿の底の部分に広い平地があります。

                   

                  高台の平地ですから飛行場にはうってつけで、かつて日本陸軍の沖縄北飛行場がここにありました。   

                   

                  CIMG4404smap2.jpg

                   

                  沖縄戦の後、こんな一等地を米軍が手放すはずがありません。この平地(皿の底)が読谷村民に返還されたのはつい最近で、2006年のことです。そしてその翌年、あの象の檻が撤去されました。

                   

                   

                  私が農連市場に来る前、2010年の飛行場跡です。

                   

                  CIMG4404s.jpg

                   

                  まあ、道路と言えば道路ですが、信号も交差する道も無く、コンクリートの地面が延々と2km続いてました。暴走族対策で、舗装面がわざとデコボコにしてあった記憶があります。

                   

                   

                  先程の皿をイメージしましょう。私は今、皿の底に立ってます。すると海は見えないわけですよ。そして、地平線(?)がすぐそこにあって、そっから上の全部が空(笑)。

                   

                  北海道の空も確かに広いのですが、あそこは広い大地のずっと先に地平線があり、それだけ空が狭くなってるわけです。その点、読谷はすぐそこからが空(笑)。読谷の空が広いわけです。

                   

                   

                  さて今、読谷の皿の底には、村役場や野球場、陸上競技場、学校などが完成しています。今のところは必要な施設を並べてみた感じで、土地にはまだまだ余裕があります。

                   

                  その土地をどう使うか、読谷村は思案のしどころですね。おもろまちや北谷のような商業施設の街をつくっても、村民が買物するだけでは成り立ちません。かと言って、紅芋畑ではもったいない気がします。

                   

                  もっとも、元はと言えば読谷村民の土地。そこを空き地にしようが、紅芋畑にしようが、他所からあれこれ言われる筋合いはありません。村民が暮らしやすく、生活が潤うような土地活用法を、じっくり考えていただきたいものです。

                   

                   

                  ところで観光客の皆さん。皿の底から海に向かう斜面(皿の名称で言えば胴の部分)は絶好の撮影スポットです。

                   

                  下り坂の先に広がる青い海。海岸から眺めるよりも、ずっと海が広く見えます。左右がウージ畑で未舗装の道ならなお良いでしょう。是非、絶景スポットを探してみて下さい。思い出になる一枚がきっと撮れるはずです。

                   

                  つまり、読谷は空も海も広い(笑)

                   

                   

                  Twitterに湧き水の動画をツイートしました。読谷村伊良皆の上ヌカー。尚巴志の墓がある佐敷森のすぐ近くです。

                   


                  オモテの沖縄、ウラの沖縄

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                    JUGEMテーマ:地域/ローカル

                     

                    以前、沖縄のロータリークラブの例会に招かれて、私のブログに関連したお話をさせていただいたことがありました。

                     

                    講演のタイトルは「沖縄の不思議とその魅力」

                     

                    以下のように話を始めました。

                     

                    沖縄はわずか140年前までは独立国家。ヤマトとは異なる文化を持ち、それは今も深く受け継がれています。それはヤマトの人達にとっては異文化。カルチャーショックを受けることがしばしばあります。

                     

                    それが沖縄の不思議。

                     

                    私は沖縄に来たヤマトの人達に、沖縄で不思議に思うことがあったら、驚いておしまいにせず、その不思議を紐解いて欲しいと言ってます。理解が進むにつれ、その不思議は沖縄の魅力に変わります。そしてその魅力に気付いた人達は何度でも沖縄を訪ねたくなります。今日はそんな話をさせていただきます。

                     

                     

                    なかなか上手いことを言うたなぁと思います(笑)。私がブログを続ける動機も投稿内容も、つまりこういうこと。「不思議」が大げさなら、「疑問」でも良いでしょう。

                     

                    疑問を解消しようと思えば、書籍や資料をあたったり、現地を歩いたりします。これが楽しくて楽しくて(笑)。そして、疑問が解消した時の、得も言われぬヨロコビ。

                     

                    答えが正しいかどうかは自分で判断できます。正解は常に合理的で美しいんですよ。仮に間違っていても、それが間違いと気づくことがまた楽しい(笑)

                     

                    私がまちまーいやジャングル探検などのガイドを避けたがるのは、彼らが答えを言ってしまうかもしれないから。一生懸命に問題を解いてる時に「お〜い、答えを言うなよぉ」みたいな感じです。

                     

                     

                    話は変わりますが、以前は本土の日本海側をウラ日本、太平洋側をオモテ日本と呼んでましたね。失礼な(^^)。新潟県に住んでる人にとって、海は日本海。山の裏っ側にある海が太平洋です。

                     

                    ヤマトゥにとって、沖縄は異文化の土地。御嶽もあればユタもいます。例えば、そんなスピリチュアルな部分を取り上げて「誰も知らない沖縄」とか「沖縄の裏側」とか見出しをつけることは、日本海側をウラ日本と呼んだ発想と同じです。御嶽もユタも日常生活の中に普通に存在していますからね。

                     

                     

                    私は古い集落を歩くことが好きで、いくらでも歩けますが、国際通りやおもろまちを歩いても暑いだけ。楽しい疑問が何も湧いてこないので退屈で仕方がありません。

                     

                    つまりね。御嶽があってユタがいることが沖縄のオモテ。ウラ情報を編集したモノが観光ガイドなんですよ。あれをオモテと思っているようでは、マダマダなんだよなぁ(^^)

                     

                     

                    では、昨日に引き続き、垣花樋川の水の音をお楽しみ下さい。

                     

                     

                    ちょっと水量が少ない気がもしますが、このところ雨が少ないからかもしれません。梅雨なのに(^^)

                     

                      



                    海軍壕公園展望台からの眺め

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                      JUGEMテーマ:地域/ローカル

                       

                      今朝の配達中のこと。30分ほど時間が余ってしまい、どうしたものかと考えながら(小禄の)宇栄原を走っていたら、海軍壕公園の背後に朝日が昇ってました。

                       

                      順光になるので、これは那覇の眺めが良いはずと考え、公園展望台へ向かうことに(^^)

                       

                       

                      下の動画は、北を時計の12時に置いて、1時から反時計回りに3時までを撮ったもの。ここからの視界は本来360度ですが、1時から3時まで(首里方面)は公園の植木が邪魔をしています。

                       

                       

                      那覇市内には高台が何ヶ所もありますが、視界はせいぜい270度まで。360度の視界が得られる場所は、なかなか思いつきません。

                       

                       

                      先の大戦で、敗色濃厚となった日本軍は、小禄空港(現那覇空港)を防衛するために、地下壕を建設することになりました。そして、火番森(ヒバンムイ)と呼ばれていた標高70mほどの丘を選んだのです。

                       

                      火番(ヒバン)とは烽火(のろし)を上げることを意味し、火立(ヒータティ)とも言います。

                       

                      先ほどの動画の開始直後に漫湖の水面が見えてます。そこを左方向に国場川を下ったら那覇港。琉球王朝の時代、この丘から那覇港を監視し、琉球以外の船が近づくと烽火を上げ、首里城に知らせてたんですね。

                       

                      今は建物が邪魔をしてますが、当時は那覇港の様子が手に取るように分かったはず。そして、火番森と首里の丘の間には遮るものがありません。

                       

                      火番森の烽火は大変役に立ち、後に琉球王府は久米島から渡名喜、慶良間、小禄の具志を経て首里城に至る「烽火通信ネットワーク」を構築しました。

                      (→具志火立所からの眺め) 

                       

                       

                      さて、火番森から那覇を眺めていたオヤジは、突然の頭痛に襲われます。そして気を失うと(笑)。やがて意識を取り戻したオヤジは、周囲の様子が変だと気付きます。

                       

                      それはコンクリートが無い景色。広がる大地にポツンポツンと集落があり、集落間を細い道が繋いでます。オヤジは琉球王朝の時代にタイムスリップしてしまったんですねぇ(笑)

                       

                      大沢たかおさん主演のドラマ「仁」のオープニングだったかエンディングだったかを思い出しますね。思い出さんか(^^)。

                       

                       

                      幹線道路以外の道筋は昔も今も同じ。私は私の配達ルートを辿ることができるでしょう。

                       

                      「あれ、ちょっと違うな」と気づいたら、これがまた楽しい。「なるほど、あそこの道はこっちの道に繋がっていたんやぁ」と分かるはず。仲島の大石をみつけたら、その脇に泉崎橋がチョコンと架かっていることでしょう。

                       

                      いやぁ、そうなったら仕事どころじゃありませんてば。

                       

                       

                      大変残念ですが、突然の頭痛には襲われませんでした(笑)

                       

                      昔も今も変わらない景色は慶良間だけ。宇栄原団地の右奥に慶良間がくっきり見えてました(動画の18秒目あたり)。

                       


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                      念願の沖縄生活を始めて10年になりました。
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