資料展「むかし沖縄」(3)

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    二件の歴史資料を紹介して、終わる予定でしたが、もう少し。

     

     

    琉球侵攻(1609年)、琉球処分(1879年)、沖縄戦(1945年)。

     

    琉球侵攻から沖縄戦に至る歴史資料展は、琉球・沖縄とヤマトの関係を振り返る、良い機会になりました。

     

     

    良好な交易関係にあった琉球とヤマトは、薩摩の琉球侵攻により敵対することになります。しかし、敵対と呼ぶには琉球軍はあまりにも弱かった。「琉球は武器の無い平和な国」という噂もありますが、それは間違い。武器はあったけど、でも、弱かった。

     

    すべての兵士が鉄砲を構えてる薩摩軍に対して、琉球軍は「鉄砲もあるにはある」というレベル。主な武器は弓矢でした。また、実戦経験豊富な薩摩軍に対して、琉球軍は奄美や先島で、言わばアマチュア相手の実戦経験があるだけ。3千人の薩摩軍を見たとたん、戦意喪失したのは当然でした。

     

     

    薩摩は、直ちに琉球を併合することはせず、内政干渉もせず、琉球が交易で得た利益を搾取することに徹しました。それはまさに、生かさず殺さず。以降270年の間、琉球は支配されることに慣らされ、日琉は同祖であると思わされ、ついに琉球処分の日を迎えます。そして、琉球処分から66年後の沖縄戦。

     

    戦前の糸満市場の写真が展示されていました。

     

     

    そこには、懸命に働くことで苦難を乗り越えてきた沖縄の暮らしがありました。

     

    米軍の大艦隊に島を包囲された時に降伏していれば、せめて首里が陥落した時に降伏していれば、写真の人達が命を落とすことはありませんでした。

     

     

    大本営は第32軍の牛島中将に「本土決戦のための時間稼ぎをせよ」と命じましたが、時間を稼いで一体何をしてたのか。て言うか、「本土決戦」って本土と沖縄の間に線を引いてますよね。

     

    歴史資料展で思ったことは、ウチナーンチュは、一貫して従順であったということ。言い変えれば、与えられた環境を前提にして、そこで何とかやっていこうとする気質。それは、島で暮らすことと深い関係がありそうです。

     

     

    ところで、そこでポリポリと煎餅を食べてるナイチのネトウヨ君。「沖縄の基地が無くなったら、中国に侵略されてウイグルやチベットみたいになるんだぞ」と言うけれど、沖縄県が全基地撤去を訴えたことはありません。

     

    自分勝手に決めた前提に、自らツッコミを入れてるだけ。つまり、マスターベィションなのよ。センズリは一人でこっそりかきなさい。

     

    それから、ウイグルやチベットに関して、どれほどの知見があるのかは知らんけど、今、中国がやってることは、わずか140年前にヤマトがやったことと同じだからね。琉球の子孫に対する、口の利き方に気をつけなさい。

     


    おお。忘れるところでしたが、このポスター。

     

     

    首里城図の作者、年代とも不明ですが、ポスター左下に年代を知るヒントがあります。

     

    円鑑池(えんかんち)に浮かぶ弁財天堂(べざいてんどう)。その左手の建物には師範学校と記されています。現在の県立芸大の敷地です。

     

     

    師範学校は那覇西村で設立され、1886年にポスターの場所へ移転しました。そして、その年のうちに沖縄県尋常師範学校に改称されています。

     

    よって、首里城図に描かれているのは、1886年の首里城でしょう。琉球処分の7年後ですから、首里城に主はいません。

     

    (終わり)


    資料展「むかし沖縄」(2)

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      二件目は、琉球人行列彩色絵図。1832年の作品で、尚育王就任を恩謝するために江戸に上がった使節団を描いたものです。

       

       

      琉球は18回も江戸に使節団を派遣しています。奄美の島々、九州西岸から瀬戸内海を経て大阪までが船。そこから先は徒歩でした。片道2千キロ。

       

      絵図全体はカメラに入りきらず、上の写真はその1/4ほどです。この時の使節団は総勢98人。路次楽隊(チャルメラ隊)や琉球舞踊の舞踊家らが参加しており、日本各地で琉球芸能を披露したそうです。

       


      琉球人行列彩色絵図が描かれたのは、琉球処分の47年前。このころ、日本と琉球の両方で活発に流布されていたのが日琉同祖論です。


      椿説弓張月 為朝実伝(ちんせつゆみはりつき ためともじつでん)

       

       

      源為朝(1139-1170)は平安時代末期の武将で、義経の叔父にあたります。戦に敗れて伊豆大島に島流しになりましたが、船が遭難し、琉球に漂着したとされています。

       

      尚巴志が琉球統一を果たす250年ほど前、舜天(しゅんてん:1166-1237)という初代の中山王がいましたが、その舜天が為朝の子で、その王統にはヤマトゥの血が流れていると。つまり、日琉は同祖なのだと。

       

      まあ、そんな本です。

       

      これは伝説とも言えない、後世の付会の説ですが、昔も今も、日琉が同祖であったほうが都合が良い人達がいて、今なお、それを流布し続けています。

       

      私が浦添市教育委員会と激論(笑)した投稿があります。面白いので読んでみて下さい。


      牧港「テラブのガマ」 


      (続く)


      資料展「むかし沖縄」(1)

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        南風原の沖縄県公文書館に来ました。

         

        所蔵資料展「むかし沖縄」。

         

         

        沖縄の歴史資料の大半は沖縄戦で失われてしまいました。公文書館には戦禍を免れた資料や、ナイチや海外へ渡っていた資料が収集され保管されています。

         

        もちろん、貴重な歴史資料を散在させず、一ヶ所にまとめることで公文書館の役割は果たせているのですが、やはり質、量ともに「本来なら、こんなものではなかったはず」と思わざるを得ません。

         

        失礼を承知の上で言えば、展示にストーリーを持たせるだけの資料が無く「あるものを並べました」みたいなことになるんですよ。同じことを、県立博物館や本島各地の歴史資料館、首里城でも感じます。

         

        琉球王朝時代から引き継がれて来た、沖縄の歴史や文化の豊かな水脈が、沖縄戦のわずか3ヶ月で断ち切られてしまったことは、残念と言うほかありません。

         

         

        さて、今回の資料展は薩摩の侵攻(1609年)から沖縄戦直前までのもの。

         

        薩摩の侵攻以降、その琉球支配は270年に及びましたが、吉屋チルー、恩納ナビー、玉城朝薫、平敷屋朝敏らはいずれもその時代の人達。私達が意識している琉球の文化はその時代のものと言っても良いでしょう。

         

        そして、1872年の琉球藩設置から1879年の廃藩置県に至る琉球処分。首里城明け渡しを命じた処分官松田道之と随行者9名の写真が展示されていました。

         

         

        尚巴志が三山を統一を果たした1429年以降、560年続いた琉球王国は、この時、消滅してしまいます。

         

         

        琉球処分から沖縄戦直前までの歴史資料は、沖縄を日本に同化させるプロセスを示したものばかりで、正直なところ、気持ちが重くなるばかりです。

         

        とはいえ、それでは投稿にならないので、展示資料を2件だけ紹介しましょう。

         

         

        一件目は、宮城文(みやぎふみ:1891-1990)さん。八重山出身者としては初めて、沖縄県立第一高等女学校に進んだ女性で、卒業後、石垣島で教師になりました。

         

        沖縄県が彼女に嘱託したのは、標準語励行委員。

         

         

        これは「はぁ、そうですか」と、一旦横に置いときましょう。

         

        宮城文さんは女性初の石垣市議会議員になるなど、八重山のリーダーの一人として活躍する一方、郷土史家として生涯をかけて八重山文化の継承に努めました。

         

        「八重山生活誌」で第一回伊波普猷賞。

         

         

        更に、息子さんと共に石垣方言の研究に取り組み、彼女の没後に息子さんが完成させた「石垣方言辞典」は伊波普猷賞、ならびに吉川英治文化賞を受賞しました。

         

        標準語励行委員に任命された人が、石垣方言辞典を完成させるなんて。これは少し気分が良かった。こんなヒネくれた喜び方をするのは私だけかもしれませんが、「ざまぁみろ」みたいな気持ちです(^^)

         

        (続く)


        十貫瀬から樋川までの地形

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          十貫瀬から樋川までの地形図です。山原船が航行したかつての入江(汽水域)をイメージしてみましょう。

           

           

          地図の上部に久茂地川。沖映通り左側の小さな隆起が十貫瀬です。沖縄の珊瑚礁は「瀬」と呼ばれていて、那覇近辺には伊奈瀬、自謝加瀬、干ノ瀬などがあります。沖映通り右側、久茂地川に平行する通りが長虹堤跡ですから、十貫瀬は海岸もしくは海上に位置していた「瀬」です。

           

           

          では、十貫瀬から地図右下、農連プラザのある樋川まで、ガーブ川左岸を辿ってみます。

           

          十貫瀬からガーブ川を渡った所にある隆起は現在の緑ヶ丘公園。

           

          更に、パラダイス通りを横切った所に隆起があります。ここは公園ではなくて、こんな場所。

           



           

          国際通りからスージを入ると意外な風景に出くわすことがありますが、初めてここに来た時には驚きました。国際通りのすぐ側にある里山の風景。詳しくはこちらから

           

           

          地図をもう一度載せまして、国際通りを横切ります。

           

           

          国際通りを横切った先に小さな隆起があります。国際通りからにぎわい広場に一方通行が抜けてる場所で、急斜面になってます。

           

          にぎわい広場から浮島通りを横切った先が松尾公園の丘。その先、開南中央通りに向かって急坂を下り、開南バス停に向かって再び登り坂になります。

           

           

          再び、十貫瀬に戻って、沖映通りを横切った所に小さな隆起。名前は知りませんが、そこには確かに小さな森があります。

           

          沖映通りに沿って次のなだらかな隆起はりっかりっか湯裏手の森。

           

          国際通りを県庁前から、安里に向かって歩くと、松尾とてんぷす那覇辺りの2ヶ所に坂道があります。てんぷす那覇辺りで国際通りを横切った先の隆起が桜坂(希望ヶ丘公園)です。

           

           

          長虹堤が築造された時代に戻り、開南バス停あたりに立って、山原船が浮かぶ海を眺めてみたいものだと思います。

           

          それで、こんな地形図を持ち出して、なんとかその風景をイメージしたいと考えましたが、やっぱり難しいな(笑)


          ハーバービュー通りとひめゆり通りを繋ぐ古道(6)

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            航空写真をもう一度見ましょう。私は上から3番目のマークにいます。城岳の丘の南端です。

             

             

            一方、丘の北端は城岳公園で、そこを下ると那覇高校。

             

            北斎の城嶽霊泉に描かれた城岳は山の形をしてました。1950年代にその山が平らに削られて新世界遊園地になり、閉園後、那覇市が公園を整備しました。

             

            城嶽(グスクダケ)は古波蔵の拝所。城嶽を城岳に書き換えるのは渋々オッケーとしても、ジョウガクは無いでしょう。

             

            「トゥミグシク」→「豊見城」→「トミシロ」も同じ。城(グシク)をジョウと読んだり、シロと読んだり、ナイチ読みに変える必要がありますかね。

             

             

            丘の道に戻りましょう。

             

            森を右に見ながら進み、

             

             

            突き当たりの森の手前を右です。

             

             

            この辺りから、このブログの読者で、幼少期を楚辺で過ごしたうちなーんちゅさんのナワバリに入るみたいです(笑)

             

             

            中山アパート前からの下り坂。丘の道はこのままひめゆり通りに出たのでしょうが、かつての路上にマンションが建ってます。

             

             

            突き当たりを右に迂回して、丘の道に戻りました。ひめゆり通りはもうすぐです。

             

             

            マンションを迂回する途中、聞き覚えのある琉舞研究所がありました。安次嶺利美琉舞研究所。

             

             

            看板の前でしばし考えて、思い出しました。最近ここに琉球舞踊家の当銘由亮さんが芝居の稽古に通われてました。ここで待ち伏せしてサインを貰えばよかった(笑)



            さて、ひめゆり通り(与儀大通り)に出ました。農協会館前バス停のすぐ横です。

             

             

            ひめゆり通りを横断し、丘の道は続きます。

             

             

            この場所は車両通行止め。

             

             

            再び車道に戻り、丘の道は古波蔵の丘を登り始めました。ここから真玉橋の手前までは迷いようの無い一本道。ただし、西行きの一方通行です。

             

             

            ここから先はまたいずれ。

             

            投稿6本を読んでいただいた読者の皆さん、お疲れ様でした。


            ありがとうございます。m(_ _)m


            ハーバービュー通りとひめゆり通りを繋ぐ古道(5)

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              ところが、この展望台フージーは封鎖されていました。

               

               

              ホームレスが雨宿りしたり、若い兄ちゃん達がタムロしたり、用も無いのに入って来るオヤジ(私ですが)がいたりするからでしょうね。

               

              やむを得ず、階段から私が進むべき道を観察しました。前方に森が見えるので、あの森の左側を抜けるようなルートをイメージしましょう。

               

               

              その結果、丘の道はこの駐車場付近で左に入ることが分かりました。航空写真の上から2つ目のマークの位置です。

               

               

              進みます。

               

               

              進みます。

               

               

              進みます。

               

               

               

              ひめゆり通り(与儀大通り)の旧農協会館裏の崖地に到着し、眺望が開けました。ここが城岳の丘の南端です。

               

               

              那覇市場から国場に向かう丘の道は、この辺りで中間点。市場で日用品などを買った国場の女性は、このあたりで天秤棒を肩から降ろし、ホッと一息入れたかもしれません。

               

               

              それにしても片道5キロ。行きも帰りも天秤棒を担いで、よく歩けたものです。しかも、陽射しが強い沖縄で。

               

              女性が天秤棒で運べる野菜は大した量にはなりません。だから、一日に何往復もしたそうです。

               

              私も八百屋で野菜を運んでますが「今日から天秤棒で運びなさい」と言われたら退職ですよ。退職(笑)

               

              (続く)


              ハーバービュー通りとひめゆり通りを繋ぐ古道(4)

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                ハーバービュー通りから丘の道を歩き、城岳のガジュマルに着きました。

                 

                戦前、このガジュマル前には琉球競馬の馬場がありました。

                 

                20130124184612_0.jpg

                 

                この石像は琉球競馬に使われた琉球馬です。競うのは速さではなく型。上下動する馬の上で、騎手が一定の姿勢を保つ美しさを競うものです。そのあたり、梅崎晴光さんの名著「消えた琉球競馬」に詳しく紹介されています。

                 

                日本軍が沖縄に来て以来、重用されたのは大型の軍馬で、小型の琉球馬は見向きもされませんでした。ところが、脚の長い軍馬は各地の石畳道で転びまくったそうです。

                 

                (v^_^)v

                 

                ユーシッタイ、ユーシッタイ

                ワンの言うこと聞かずにユーシッタイ♪

                (©きいやま商店)

                 

                そしたら、日本軍は石畳を剥がしてしまい、砕いた珊瑚を敷いたんですね。沖縄の石畳道が失われた一つの理由です。腹の立つ。

                 

                 

                馬場の話が長くなりました。丘の道に戻ります。

                 

                丘の道は現在の城岳小学校裏を通っていましたが、戦後の宅地開発により道路が碁盤の目に整備されてしまい、今、その痕跡はありません。

                 

                航空写真の5ヶ所に黄色のマークを付けました。私は今、城岳のガジュマル前、一番上のマークにいます。

                 

                 

                所々に残っている小さな森は、城岳の丘の端っこ、つまり崖の上にあります。丘の道は、この小さな森に沿って、その内側を通っていたので、5つの黄色のマークを目安にすれば大きく逸れることはないでしょう。

                 

                 

                城岳のガジュマル前から、壷川東交差点に向かう下り坂に入ります。

                 

                 

                戦前まで、城岳や古波蔵の丘から崖下(国場川河川敷)に下りるには、人がやっと通れるよう道しかありませんでした。その葛折りの道が古波蔵の崖地には残っています。

                 

                だから、この下り坂は戦後、重機を用いて強引に通した道で、私のオンボロワゴンは雨の日、この急坂を登れません(笑)

                 

                 

                この下り坂のどこかで、丘の道は左に逸れますが、その場所を特定するには、高い場所から眺めるのが一番。

                 

                フフフ。近くにこんなアパートを見つけました。二階建てのアパートですが、屋上に展望台のようなものがありますね。

                 

                 

                展望させてもらおうじゃないですか(笑)

                 

                (続く)


                ハーバービュー通りとひめゆり通りを繋ぐ古道(3)

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                  ハーバービュー通りから丘の道に入りました。

                   

                  街路樹が植えられ、路面にはミンサーの絣柄が描かれてる、丘の道最厚遇区間。いつ(五)の世(四)までも末永く。

                   

                   

                  まあ、これは丘の道が厚遇されているのではなく、この先に格式高いホテルがあるからですね。はい、到着。

                   

                   

                  ホテル前を抜けると丘の道は壷川から泉崎りうぼうに向かう市道に出ます。一見、突き当たったように見えますが、本来の道筋は左の歩道部分なので、ちゃんと左奥に向かって抜けてます。

                   

                   

                  この辺りはかつての湧田村で、獅子松尾(シーシマーチュー)と呼ばれる松林がありました。高麗出身の陶工張献功(ちょうけんこう)が国場からここに移り、ヤチムンの窯を開きました。

                   

                   

                  さて、丘の道は続きます。

                   

                   

                  突き当たりに小さな森が、見えてきました。あの森が、この先の道筋を追うヒントになりますので、覚えておいて下さい。

                   

                   

                  突き当たると思われた丘の道は、森の左手をすり抜けています。

                   

                   

                  ここは私が好きな道です。城岳一帯は開発が進み昔の面影はありませんが、ここだけは古道を歩いてる実感があります。

                   

                   

                  丘の道は市道に合流し、

                   

                   

                  城岳のガジュマル前に出ます。

                   

                   

                  (続く)


                  ハーバービュー通りとひめゆり通りを繋ぐ古道(2)

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                    JUGEMテーマ:地域/ローカル 

                     

                    国場から那覇市場までの距離は片道約5キロ。古波蔵と城岳の崖上を通る古道を丘の道と呼ぶことにします。

                     

                    丘の道は真玉橋の西、国道沿いのパチンコ屋脇から始まり(地図のバルーンの位置)、直線的に北西方向へ向かい、ひめゆり通り(与儀大通り)の中央ツーリスト本社横まで続きます。

                     

                     

                    古い道筋が残ってはいるものの、天秤棒や荷車で野菜を運んでいた頃を偲べるものは何も無く、民家の立派な石垣や大きなガジュマルが残るくらいです。

                     

                     

                    さて、場面を那覇市東町にあった那覇市場に移しましょう。

                     

                    天秤棒を担いで那覇市場を歩く女性。野菜を運んで市場に着いたところか、野菜を売り終わり、魚や塩などの買物を済ませたところか、天秤棒に荷重がかかっています。

                     

                     

                    那覇市場を出た彼女は泉崎橋を渡り、丘の道を歩いて国場に帰ります(ということにしましょう)。

                     

                    久茂地川の川筋が変わっているので、泉崎橋があった場所は国道58号線の路上です。泉崎橋を渡った女性は現在の那覇市役所方向に向かいますが、古い道筋は残っていません。

                     

                    ハーバービュー通り(那覇高校前の通り)まで来て、やっと丘の道が現れます。ハーバービューホテルに向かう一方通行です。

                     

                     

                    ここからひめゆり通りまで、丘の道を歩きます。

                     

                    (続く)


                    ハーバービュー通りとひめゆり通りを繋ぐ古道(1)

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                      JUGEMテーマ:地域/ローカル

                       

                      私が住む那覇市国場は、かつての野菜生産地。大消費地の那覇に近い上に、国場川や漫湖を利用した水上交通が可能で、車や鉄道の無い時代では、他集落に対して優位な立場にありました。

                       

                      漫湖の水上交通(1)

                      漫湖の水上交通(2)

                       

                      水上交通に用いる舟はサバニですから、野菜を運ぶ様子は東南アジアの水上マーケットをイメージすれば良いでしょう。

                       

                       

                      また、国場は野菜の集積地でもありました。国場川の支流から小さな舟で野菜を国場に運び、大きな舟に積み替える水上ネットワークがあったようです。

                       

                       

                      一方で、肉や魚、塩など、生活に必要な品物を入手するために野菜を売る人達もいて、その人達は陸路で那覇に野菜を運びました。運ぶ方法は頭に乗せたり、天秤棒を担いだり、荷車をひいたり。

                       

                      今なら、国場から那覇までは平坦な国道を歩けばいいのですが、当時そこは国場川。陸路は古波蔵や城岳の崖上にありました。真玉橋から古波蔵の丘を登り、ピークを越えて下った所が現在のひめゆり通り。そこから再度、城岳の丘を登り、下った所が現在のハーバービュー通り。泉崎橋を渡って、那覇市東町にあった那覇市場に到着しました。


                      (続く)


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                      念願の沖縄生活を始めて8年になりました。
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