恋しあかつらの・・

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    ジュリ馬祭りの演舞台にこんな琉歌がありました。



    恋しあかつら(赤津浦)の
    波にすそ(裾)ぬ(濡)らち
    通たるむかし(昔)
    わしり(忘り)ぐりしゃ
    尚灝(しょうこう)王



    赤津浦は若狭の海岸で、ジュリ達が浜下りで遊んだ場所です。野津唯市さんが描いた「雪の崎(ユーチヌサチ」の東側(手前)にあたり、



    琉球歌劇「泊阿嘉(トゥマイアーカー)」で、久茂地の樽金(タルガニー)と泊の思鶴(ウミチル)が出会った場所でもあります。

    20130507124859_0.jpg

    その海岸を、尚灝王(1787-1834)は裾を濡らしながら歩き、辻遊郭に通ったと・・。

    そして、そんな昔が忘れられんと・・。

    そんなこと言われても「はぁ、そうですか」としか答えようがありません。


    尚灝王は尚泰王の祖父で、琉球王朝末期の難しい時期に即位したのですが、後世で語られるような施策は打てなかったようです。

    一妃二夫人八妻をもち、九男十七女をもうけました。八人の妻のうち七人は平民の女性だったそうで、カーギの良い平民女性を集めてオーディションのようなことをしたと・・。

    その上、辻遊郭にも通ったと・・。

    「何をしとるんだ?」と言いたい。


    辻の皆さんがこの琉歌を掲示した意味を考えれば「琉球国王も愛した辻遊郭」ってことになり、私が知らない物語があるのかもしれません。今年は尚灝王の没後183年。長い琉球の歴史からみれば、つい最近のことです。

    そのうち私も、その物語を知る機会があるでしょう。

    もしくは、特には無かったか(笑)


    久茂地尋常小学校の遺構(3) 説明会

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      久茂地尋常小学校の遺構説明会に参加しました。



      沖縄戦で焼失した久茂地尋常小学校は、当時の資料がほとんど残っていないそうです。那覇市文化財課主催の説明会は、市民への情報提供の場であり、情報収集の場でもあります。

      上の写真はたった一枚残っているもので、南向きの正門を入って校舎、その裏に校庭(体操場)、校庭の裏が一銀通りです。


      校舎の入口に説明者が立っています。



      校舎は左奥に向かってL字に曲がっていて、右手の人が立っている場所が校庭です。礎石の間隔からの推定で、校庭側には廊下があり、3.5間×4.5間の広さの教室が4室並んでいたようです。

      次の写真に多数の礎石が見えます。大きな礎石は柱と屋根を支え、小さな礎石は床を支えていました。




      校舎前にある煉瓦組みの用途は不明です。こんな時に尋常小学校OBが現れて「これは花壇だよ」と言えば解決ですが、残念ながらそうはなりませんでした。



      こちらは八角形の石組み。手洗い場ではないかとのこと。




      尋常小学校の遺構は、久茂地小学校の校庭を約40センチ掘った場所で見つかりました。

      戦前、このあたりは湿地帯の埋め立て地で水はけが悪く、雨の後の校庭は使いものにならなかったそうです。その校庭は焼土となり、赤味を帯びていました。

      先ほどの煉瓦組みの写真にある円形のコンクリートは、戦後この場所に建てられたツーバイフォーの礎石です。その間隔がフィートなので米軍が建設したもののようです。


      広大な湿地帯に長虹堤が築かれ、埋め立て地に上級神女(なは大あむ)の屋敷が建ち、後に久茂地尋常小学校と久茂地小学校が101年の歴史を刻みました。

      この場所には市民会館が建つ予定ですので、この校庭を再び見ることができるのは数十年先になるでしょう。

      その時、那覇はどんな街になっているんでしょう。私はとっくに死んじゃってますが、今の小学生達が私の年代になり、遺構の様子をブログに投稿してるかもしれません。


      写真集「南風原」(1) アマダイガーラ

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        写真集「南風原」から、昔沖縄の風景を数枚紹介します。

        一枚目はアマダイガーラ。南風原町照屋にあった民家の写真です。



        茅葺の屋根に瓦の庇を取り付けてあります。明治時代に民家の瓦葺が許され、この形式が流行しました。

        沖縄には「アマダイミジャ ソーユジケー」という言葉があります。雨垂れ水は醤油のように使え、ですね。つまり、アマダイガーラはアマ(雨)ダイ(垂れ)ガーラ(瓦)。


        上の写真は、座敷が見えないので、北西方向から撮ったものだと思います。では、南側、東側はどうなっていたのか。

        こちはら、八重瀬町の美味しいそば屋「屋宜家」の庇です。

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        庇の下の空間を雨端(アマハジ)と呼びます。上の写真の民家の南側、東側にはこんな雨端があったはずです。

        雨端は屋内でも屋外でもない空間です。雨や陽射しは遮られていますが、自然と無関係ではいられません。また、訪問者と接する場でもあります。

        昔の沖縄の民家はオープン型。自然と共生している雰囲気がありました。


        やがて、台風被害を防ぐために、沖縄の民家はコンクリート住宅に建て替えられました。広いテラス付き。

        つまり、こんなお宅ですね。



        ナイチの発想としては、テラスのスペースにもう一部屋造るでしょうが、それよりもテラスが優先されます。現代版の雨端。

        家族や友人とバーベキューができますね。雨の日に一人で本を読んでもよろしい。いや、うらやましいです。


        そして、最近の民家のトレンドはこんな感じ。



        話は変わりますが、出張などで使うビジネスホテル。私は外界から隔離された、あの無機質な空間が好きでした。

        雨が降ろうが、夏の強い陽射しを受けようが室内は快適で、部屋の外の出来事と無関係でいられます。更に言えば、他人と交わることもありません。


        沖縄の民家はオープン型からクローズ型に移行していると言って良いでしょう。 どちらが暮らしやすいのか。これはなかなか難しいところです。

        一軒一軒のお宅はその家の好みとしか言いようがありませんが、クローズ型の住宅が増えていることは世相を反映していると言えるでしょう。


        歴史博物館の復元模型がショボ過ぎる

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          戦前まで、那覇の中心街だった東町。市役所、百貨店、公設市場などが集まり、路面電車まで走っていました。




          那覇市歴史博物館が戦前の東町を模型で復元すると聞き、私はそれはもう楽しみにしていたのでした。

          その模型が完成し、既に展示されていますが、それがショボいのよねぇ。て言うかショボ過ぎ!!(泣)




          いや、確かに、私が勝手に妄想を膨らませ過剰に期待していたのかもしれません。でもねぇ、一括交付金1,400万円を投じると聞けば、それなりに期待するでしょ。結局、費用は1,200万円に削減されたようですが、それでも私の評価は同じです。


          タイプは異なりますが、こちらは宜野湾博物館に展示されている、新城集落のジオラマ

          これは良かった。当時の人達の日々の営みまで思い浮かぶようで、見ていて飽きることがありませんでした。




          東町の模型制作は、ナイチの専門会社に1,200万円で委託されました。プロの仕事のはずですが質感に乏しく、気持ちが戦前に飛びません。材料が悪いのか、配色の問題か、縮尺が大雑把なのか、その理由が良くわかりませんが、チラッと見たら「もういいわ」って感じ。


          これ。例えば、沖縄工業高校とか沖縄工業高専に頼んだらどうだったのかと思いますね。

          生徒(学生)には、戦前の那覇の様子や市民の暮らしぶりを事前に学んでもらい、その上で復元模型の製作に取り掛かれば、それはもう一生懸命にやってくれたんじゃないかと。生徒(学生)がウチナーンチュなら、なお良いでしょう。

          つまり、この模型には郷土に対する愛が感じられないのよ。頼まれたから作りましたって感じ。


          模型を様々な角度から眺めてみたり、当時の写真と見比べてみたり、視線を路上に置いて建物を見上げてみたりしたかった。

          ところが、ちっともそんな気になれないのよね。これが。


          潮渡橋と仲西ヘーイ、高左右隆之さん

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            昨夜は読者のおもろさんと、泊で一杯やってました。



            いつも変わらぬ三線君は、転職で生じた隙間を使って来沖中。自転車による本島一周を終え、今日から石垣島、その次は宮古島。一か月くらい沖縄でゆっくりするそうです。


            その帰り道。私はとまりん近くの潮渡橋(しおわたりはし)にいました。



            ここは妖怪の出没ポイントだそうで、その妖怪の名が「仲西ヘーイ」。

            「あのさ、ふん。潮渡橋から『仲西ヘーイ!!』って呼んだらさ、ふん。『ヘーイ』って応えるってば」

            「なにそれぇ、ギャハハ!!」

            でいつも話が終わるため、仲西ヘーイが何者なのか、人間の味方なのか敵なのか、そのスペックを誰も知りません。

            そんな時に頼りになるのが地元の公民館です。若狭公民館のホームページに紹介がありました。

            みなさん、決して潮渡橋のたもとで、「仲西ヘーイ」と大声で叫んではいけません!
            絶対に仲西ヘーイを現代に召還しないで下さい!(笑)
            若狭公民館では、絶対に責任持てませんよ!


            やっぱり怖いみたいです(笑)


            琉球王府が建設した長虹堤の影響で、その先の海が干潟になり、塩田が造られました。今は国道58号線となった潮渡橋から、広い干潟を眺めることができたようです。

            その干潟を使って、沖縄で初めて飛行機を飛ばしたのが高左右(たかそう)隆之さん。1915年(大正4年)のことでした。

            潮渡橋周辺は黒山の人だかりだったそうです。



            ところが、飛行機は離陸したとたんに風にあおられて墜落。修理を済ませた2回目は電線に引っ掛かって墜落。

            高左右さんは時代のヒーローでしたが、沖縄との相性は悪かったようです。


            さて、潮渡橋つながりで、本来関係が無い仲西ヘーイと高左右さんを並べたため、投稿のまとめが難しくなりました。

            やはりここは、全国各地で飛行を成功させた高左右さんが沖縄で失敗したのは何故か。飛行機を墜落させたのは誰かってことを深く考察するしかありません。

            う〜む。

            こうして、新しい学説が誕生するのですねぇ(笑)


            冒頭のおもろさんの話に戻ります。昨日の夕方、彼は前島某所のホテルから、待ち合わせ場所のとまりんへ急いでいました。

            三線の島沖縄と言えど、三線を背負って歩く人はそうそういません。直ちに彼を発見した私は、背後から忍び寄り、

            「ヘーイ」

            と声をかけたのでした。

            「うわっ!!、あっ、Cさん。あ〜、驚いた。なんでここを歩いてるって分かったんですか?」

            おもろさんが仲西ヘーイでないことが分かってなによりです。

            こちらが、おもろさんと本島を一周した三線君です。まさに肌身離さず。



            「本島一周なんて、二度とゴメンだ」と言うてました(笑)


            最後にもう一つ。

            昨日、某青果店に菊之露のクースがどっかーんと届けられていました。おそらくあのお方が、投稿3,000本の祝いに下さったのではないかと。



            誠にありがとうございます m(__)m


            赤マルソウと黒丸宗(2) 赤マルソウ通り

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              寄宮十字路近くの黒丸宗通りにいたはずの私は、松川の都ホテル前にいます。

              安里から首里城へ向かう坂下通りです。



              この道は首里城の北側で龍潭通りとなります。

              横断歩道の先に、右にそれる道があるので、そちらに入りましょう。

              入りました。



              この道は玉陵の前を通り、守礼門に続きます。

              そしてまたしても、右にそれる道があり、その分岐点に立つと。

              ありました。「赤マルソウ入口」の標識です。



              ここから先が赤マルソウ通り。この先には金城町石畳道(坂上)があります。



              あらためて上の写真を見ると、私はセンターラインの真上にいますね(笑)。90年前なら、電車に轢かれてしまいます。

              この緩やかな左カーブは、沖縄電気軌道(1914-1933)の軌道跡です。

              那覇を出た路面電車は、泊高橋、崇元寺、安里を経由して、首里の丘を登りました。都ホテルの裏から一旦東に向かい、高さを稼ぎながらUターンします。

              つまり、首里行きの路面電車は上の写真の左カーブの向こうからやって来たのです。




              さて、私は赤マルソウ通りを進み、赤マルソウの味噌・醤油工場の跡地に着きました。



              まったく、那覇って街は「隙あらばマンション」。那覇の市街地を一望できる場所ですから、リッチなマンションが建つんでしょう。


              寄宮の黒丸宗と首里の赤マルソウ。私は二つの味噌・醤油工場跡を訪ねました。

              二つの工場は関係があるのか、無いのか。

              関係が無いなら、こんな投稿をしてませんてば(笑)

              (続く)


              赤マルソウと黒丸宗(1) 黒丸宗通り

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                ここは農連市場の湧田食品。カウンターの上に置かれた赤マルソウ醤油と赤マルソウ味噌はウチナームン。



                赤マルソウはビール業界におけるオリオンビールと同様の立ち位置にあり、ウチナーンチュから熱い支持を受けています。


                話は変わりまして(笑)、私の午後の配達は、農連市場から与儀十字路、寄宮十字路を直進し、識名トンネルを抜けます。

                与儀十字路から寄宮十字路までを市民会館通りと呼び、その先を黒丸宗通りと呼びます。

                黒丸宗通りに入ると、すぐに三叉路があります。



                右は識名トンネルに向かう4車線の県道で、左は繁多川に向かう2車線の市道。黒丸宗通りは狭いほうの道に続いています。



                この先左手に、去年までスーパーのかねひでがありました。ただいまテナント募集中。



                昭和58年まで、この場所に南西スーパーがありましたが、かねひでに吸収されたとのこと。

                南西スーパーって、沖縄らしい名前ですよね。JTAは南西航空に社名を戻せばいいのに、と私は思います。


                旧南西スーパーの前を通過し、その先のアジマァで振り返りました。



                南西スーパーが開店する前。ここに味噌と醤油を製造する小さな工場がありました。その名前が黒丸宗。

                黒丸宗通りの由来です。


                この男は(つまり私ですが)識名トンネルを抜けて、配達先の保育園に向かうんじゃなかったのか?(笑)

                (続く)


                サーター車の話

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                  西原町幸地の児童公園にサーター車がありました。



                  こんな要領でサトウキビを搾ります。



                  牛が真ん中の車を回すと、左右の車が連動して回るので、そこへサトウキビを突っ込むのです。

                  従来は二つの車で絞っていたところ、三つにして両側からサトウキビを突っ込めば生産量が2倍になると、誰かが気付いたんですね。



                  それはたいへん結構なのですが、それまで普通に歩いていた牛が、以降、首を上下に揺らしながら歩くようになり「余計なことに気付きやがって」と呟いたそうです(笑)。


                  この製法は、儀間真常(1557-1644)が中国から導入したと伝えられています。

                  それまでは、細かく刻んだサトウキビを臼と杵で潰し、布で包んで搾っていましたから、砂糖の生産量は飛躍的に増えました。


                  儀間真常の生没年を見ると、薩摩藩による琉球侵攻(1609年)を思い浮かべます。

                  砂糖で利益を上げていた琉球王国に目をつけた薩摩藩が侵攻し、その後、砂糖の生産量を向上させるための製法を中国から導入したと。大雑把にはそんな順序です。


                  さて、こちらは豊見城市長堂の翔南製糖



                  この煙突は私の自宅から見えてます。



                  「さとうきびは沖縄の宝もの」

                  まったくその通りなんですが、この工場は来年夏に閉鎖の予定です。

                  今年の9月。翔南製糖はうるま市の球陽製糖と合併し、工場はうるま市に統合されることになりました。とうとう、沖縄本島の製糖工場は1ヶ所になります。

                  もちろん、両社の合併により、生産性は向上し、コストを削減できるのでしょうが、沖縄の製糖業の競争力は、それでどうなるって水準ではないのです。

                  これから、いったいどうなるんでしょう。

                  サトウキビ畑の無い島の風景を、だれも想像できませんよねぇ。


                  豆腐小坂から御茶多理坂(3) 御茶多理くびり

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                    さて、ペリーの野営地に始まり、内間御殿(ウチマウドゥン)、豆腐小坂(トーフグヮービラ、御茶多理坂(ウチャタイビラ)と続いた投稿は言わば前振りで、最終的な私の目的地は「御茶多理くびり」なのでした。フフフ。


                    一週間前のこと。首里儀保町の太平橋発掘現場を見に行ったついでに、儀保くびりの痕跡を探しました。

                    離れた場所から全体的な地形を観察したり、民家の庭先を覗いてみたりしたけど見つからず、あれはがっかりでした。


                    くびりとは切り通しのことで、ワイトゥイとも呼びます。

                    こちらは勝連のワイトゥイ



                    岩盤にクサビを打つことを繰り返し、文字通り「割取った」切り通しです。長さは130メートルで、要した工期が3年ですから、割り算すれば1日わずか13センチ。

                    岩壁に残るクサビの跡を見ると、先人達の根気強さに感動します。


                    くびりとワイトゥイの違いは明確ではありませんが、規模を比べれば、概ね、くびりが小でワイトゥイが大。

                    儀保くびりが勝連のワイトゥイのような規模があるはずはなく、残っていたとしても、ひっそりとしたものでしょう。

                    他のサイトで「ここが儀保くびり!!」みたいな写真がありましたが、残念ながら、そのサイトは道を一本間違えてました。


                    まあ、そんな悔しい想いがあり、ここはひとつ、勝連のワイトゥイほど立派でなくてもいいので、那覇近辺で新たなくびりを見てみたい。そうしないと気持ちが収まらない。と、私は考えたのでした。

                    そして、御茶多理くびりの存在を知り、今私は、そこへ向かうべく、御茶多理坂を登っているのであります。


                    う〜む。

                    御茶多理くびりはちゃんとくびれているのか。いないのか。

                    おおっ!!



                    これはくびれてますねぇ(笑)

                    しかも、くびれ具合が美しい。

                    これまで私は、墓マイラーをやったり、石畳・石橋コレクターをやったりしてきましたが、このワクワク感はそれに勝るとも劣らないものがあります。


                    よっし、あと少し。




                    *・゜゚・*:.。..。.:*・'(*゚▽゚*)'・*:.。. .。.:*・゜゚・*



                    で、行き過ぎて振り返ると、

                    *・゜゚・*:.。..。.:*・'(*゚▽゚*)'・*:.。. .。.:*・゜゚・*




                    素晴らしい!!(笑)

                    カーブミラーが無く、道路が舗装されてなければなお良く、石畳道なら最高ですが、今時そんなことを言っても仕方がありません。

                    さすが、ペリーの視察隊や尚円王(金丸)が通った、由緒正しいくびりだけのことはあります。


                    「えっ、お前は運玉食堂から桃原に抜けた時に、ここを通ったんとちゃうんかいっ!!」

                    何を細かいことをおっしゃるのやら。今は忙しいので、また後でお願いいたします。


                    御茶多理くびりのくびれ度は90点。と言いたいところですが、80点。道幅がちょっと広くて、縦横のバランスがね。

                    結局、車道にするために、道幅が拡張されているんです。



                    重機で斜面を削って、石をドン、ドンと積んだ感じで、手造り感がありません。

                    でも良かった。御茶多理くびりの原形を人が切り通したことに違いはありません。60点を合格ラインとすれば、高評価です。これでやっと、儀保の屈辱を晴らすことができました。


                    よっし!!

                    また次、行くぞっ!!

                    (終わり)


                    豆腐小坂から御茶多理坂(2) 御茶多理坂

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                      さて私は運玉食堂前からゴルフ場北側を抜け、西原町桃原の構造改革センター前にいます。



                      広場に案内がありました。



                      その案内によると、私が歩いて来た道は「御茶多理道(ウチャタイミチ)」。

                      首里弁が岳から豆腐小坂を下り、桃原、呉屋、内間を経て、中城の和宇慶に至ります。


                      それにしても御茶多理道って、ナイチの皆さんは違和感があるでしょうね。「なんでそんな名前やねん」と。ウチナーグチに無理に漢字を当てるからこんなことになるんです。

                      車の窓に貼ってある癒汰志駆(ユタシク)のシールと同じで、それに違和感を感じるって言われても、「そりゃそうでしょうね」と答えるしかありません。

                      ところで私は、癒汰志駆なんて少しも良いとは思いませんでしたが、ナイチの夜露死苦(ヨロシク)に対抗してるんだそうで、今は「おっ、そんなら頑張れ」と思っています(笑)


                      ウチャタイはこの辺りに住んでいた人の名前です。フルネームでは御茶多理真五郎(ウチャタイマグラー)。相撲が沖縄一強くて唄三線が得意。どこの集落にも一人はいたスーパーマンです。

                      五郎の死後、彼はどうしても成仏できなかったらしく、夜な夜な、現れて大声を出したり三線を弾いたりしたそうです。集落の人達はそれを恐れ、御茶多理の名が残りました。だから、五郎の亡霊が現れた場所は御茶多理毛(ウチャタイモー)です。


                      私は今、桃原集落の御茶多理道に立ち、首里方面を向いています。



                      この坂の向こうから琉球国王の一行や、ペリーの視察隊が現れたのですね。言い忘れましたが、この坂の名は御茶多理坂(ウチャタイビラ)です(笑)

                      国王がこの道を通って、どこに向かったのか、行き先が思い付きません。おそらく、この道を通ったのは尚円王で、即位後も内間御殿を利用していたのだと思います。桃原集落の人達や、内間御殿から来た人達が、この坂道で国王を出迎えたそうです。

                      そのため、御茶多理坂をマチンジャービラとも呼ぶそうです。


                      あっ、それからペリーの視察隊は、小橋川集落で野営をした後、御茶多理道から外れて、中城の崖の上へ登りました。ハンタ道を通り、巨岩に星条旗を掲げたことは以前、投稿しました。


                      さて、次の投稿で、いよいよまとめに入ります。言い忘れたことは、今のうちに言っておかないと(笑)

                      豆腐小坂(トーフグヮービラ)の話ですが、あの急坂に別名があるそうです。

                      その名が御意見坂(グイチンビラ)。

                      内間御殿に住む金丸(53歳)は、尚徳王(28歳)の政治に大いに不満がありました。

                      お父さんの尚泰久王はあんなに立派な人だったのに、息子はなんでこんなボンクラなんだろうと嘆き、尚徳王のやる事なす事が、不満であり心配でもありました。

                      内間御殿で居ても立ってもいられない金丸は首里に向かうべく、ブツブツ言いながら豆腐小坂を登ったのでした。

                      だから、御意見坂。

                      グイチンしたぐらいでは、とうていラチがあかないと悟った金丸は、とうとうクーデターに打って出たのでした(たぶん)。

                      私が立っているこの坂を、首を傾げ、ブツブツ言いながら歩く金丸を想像すると、なんだか彼に親近感を覚えてきます。

                      (もう一回、続く)


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                      念願の沖縄生活を始めて7年になりました。
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