コザの散歩(6) 越来グスク

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    一つ前の投稿で紹介した1947年の写真を拡大しました。



    コザ十字路の北に越来、西に安慶田、南に照屋の各集落が見えます。コザ十字路付近はハル、もしくは湿地のようで民家が見えません。ハルと安慶田集落との境界を比謝川が南から北へ流れています。



    コザ十字路の北西、越来集落の南に写った長方形の黒い影が越来グスクです。米軍はその城壁を崩し、コザ十字路周辺の地盤強化に利用したのですが、その様子がコザ十字路絵巻に描かれています。ブルドーザーに乗ったマッカーサー。



    つまり、銀天街の地下には越来グスクの城壁がゴロゴロしてるってこと。世界遺産登録クラスの城壁だったはずなのに、グスク跡地にその痕跡は何もありません。

    マッカーサーのやつめ。

    何てことすんだ。と思う一方、そこに市場ができてコザが繁栄したんだから、まあいいか。と思う一方、越来グスクも見たかった(笑)


    越来グスクは即位前の尚泰久(越来王子)の居城でしたので、百十踏揚はここで生まれ育ったはずです。泰久王は1454年に39歳で即位し、踏揚は勝連の阿麻和利に嫁ぎました。そして、阿麻和利の乱が1458年。

    王府軍が勝連グスクに到着する寸前、大城賢勇は踏揚を背負い、首里へ逃げましたが、その様子も絵巻に。



    勝連を制圧した泰久王は、賢勇と踏揚に越来グスクを与えました。

    踏揚の生年が分からないので、適当に数字をあてはめれば、16歳で勝連に嫁ぎ、20歳で越来グスクで帰ってきたということ。そして、1462年に首里でクーデターが起きたため、賢勇と踏揚の(幸せな)生活はわずか4年で終わってしまいます。踏揚24歳。賢勇は踏揚を玉城に逃がした後に自害したと言われています。

    関連投稿:百十踏揚が玉城へ向かった理由(1)

    関連投稿:大城賢勇の墓(1)


    コザの散歩は一旦これでお終い。次は古謝を歩きます。


    コザの散歩(5) 沖縄戦直後のコザ

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      1947年に米軍が撮影した航空写真がありました。

      1945年の沖縄戦集結後、大規模な収容所(キャンプ・コザ)が設置された越来村は、一旦、胡差市(もしくは古謝市)に昇格しましたが、翌年の1946年には収容所の住民が解放され、再び越来村に戻りました。更にその翌年の写真です。

      関連投稿:コザ市誕生、消滅の年表(メモ)



      直線的な軍道が目に付きますね。コザ十字路と赤道交差点。高原交差点が海に近いことに驚きます。泡瀬海中道路は初耳で、楽しみが増えました。米軍泡瀬飛行場の北端が少し写っています。


      1945年4月1日、読谷に上陸した米軍は翌日には泡瀬海岸に到達し、4月3日には伊佐、普天間、荻道、久場を結ぶラインまで南下しています。幸いなことに、コザ周辺で大規模な戦闘は起きなかったということ。米軍は直ちにコザに収容所を設置し、そこに周辺住民を集めました。そして、古謝集落(写真縁取り部分)にも収容所が設置され、併せて米軍の宣撫部隊が駐留しました。

      (宣撫:占領地域などで、政府の方針を知らせるなどして、人心を安んずること)


      その時、米軍はキャンプ・コザをビッグコザ、古謝集落をスモールコザと呼び分けていたのです。さて、コザの由来を知るための私の散歩は、ここで結論に至りました。コザの由来は古謝です。

      コザの由来を、胡屋の聞き違い(あるいは読み違い)とする説と、古謝とする説とがあります。史実を曲げることはできませんが、両論併記のどちらを支持するかは各人の心証によります。またその積み重ねにより、各人の歴史観が形成されます。

      関連投稿:胡屋を読み間違えてコザになったって本当か?

      コザの名を世に知らしめたのは、1970年のコザ暴動事件と言えるでしょう。その現場が主として胡屋十字路付近であったことや、後にコザの中心がコザ十字路から胡屋十字路に移ったことなどにより、胡屋説が受け入れられたのではないでしょうか。それは、付会の説に思えます。

      (続く)

      沖縄1935(4) 古謝集落の美栄泉(ミーガー)

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        沖縄1935のこの写真は、現在の沖縄市字古謝にある美栄泉です。



        右側に立つ人物は、(当時の)古謝集落区長の知念賢榮さん。古謝集落の農業近代化に尽くされた方です。

        そして、美栄泉の今。





        ちょと、忘れ去られた感がありますね。まあ、どこの集落でも役目を終えた井戸は、概ねこんな雰囲気です。

        この日私はたまたま近くを通ったので、とりあえず、美栄泉だけを訪ねてみました。ここを起点に、近々、古謝集落をじっくり歩くつもりです。


        古謝公民館では、8月23日までの期間、沖縄1935の写真展を開催中です。

        地元で写真展を開催することには大きな意味があります。例えば、古謝のサトウキビ畑の男の子。



        この写真を見た女性が「この子は私の父です」と。

        昨年、88歳でお亡くなりになったとのこと。いやぁ、残念です。もう少しだけ長生きされていれば、写真を見れたのに。


        写真展の開催により、地元ならではの情報が掘り起こされ、それぞれの写真の付加価値がどんどん上りそうです。


        コザ市誕生、消滅の年表(メモ)

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          (1666年)越来間切から美里間切が分離する

          摂政羽地朝秀(はねじちょうしゅう)の地方制度改革によるもの。

          関連の投稿 羽地朝秀の改革(1)


          (1908年)越来間切が越来村となる

          島嶼(とうしょう)町村制の施行により間切が廃止された。逆に言えばこの年(明治41年)までの行政単位は間切。


          (1945年)越来村が胡差(こざ)市となる

          沖縄諮詢会が定めた地方行政緊急措置要綱により、キャンプ・コザが胡差市(もしくは古謝市)となり、市長、市議会議員を置いた。

          関連の投稿 教育者 志喜屋孝信さん(1)




          (1946年)胡差市が越来村となる

          キャンプ・コザに収容されていた住民が解放され、胡差市の人口が激減したため。


          (1956年6月)越来村をコザ村と改称する

          (1956年7月)コザ村がコザ市となる

          この年、新たな土地収用を行なった米軍に対する「島ぐるみ闘争」勃発。


          (1970年)コザ暴動発生

          米軍人による交通事故に端を発した、米軍施設、車両への焼き討ち事件。

          関連の投稿 報道カメラマン石川文洋さん(1)


          (1974年)コザ市と美里村が合併し沖縄市となる

          概ね、西半分が旧コザ市、東半分が旧美里村。



          胡屋を読み間違えてコザになったって本当か?

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            コザ市と美里村が合併し沖縄市になったのは1974年4月のことでした。沖縄の地名はそれぞれに味わい深く、良い名前が多いと私は思いますが、この沖縄市だけはちょとねぇ。つまり、沖縄県にあるから沖縄市ってことよね。

            ナイチで暮らす(例えば)糸満人(チュ)が「ああ、糸満に帰りたい」と思うような、コザの青年会のニーセーターが旗頭を見上げ、(例えば)「園田」の文字を誇りに思うような、そんな感情を沖縄(市)に対して持てるのかなと思います。

            旧コザ市で生まれた人、つまり43歳以上のコザンチュならば、間違い無く「ああ、コザに帰りたい」と思うでしょう。

            以前、ベトナムを旅行した時に、メコンツアーの添乗員のオヤジが「おい、ホーチミンなんて呼ぶなよ。サイゴンだぞ、サイゴン。分かったか?。サイゴンだ」みたいなことを言ってましたが、よく似た話ですね。


            ところで、その誇り高き「コザ」の由来は、米軍が胡屋を読み間違えたってことになってます。

            これがまた、何でそうなるのか。

            「たとえそうであったとしても、他に何か考えろよ」と言いたい。

            GOYAとKOZAを間違えた経緯はこんなことでしょう。古くからの地名「ごや」に漢字を当てて「胡屋」。その胡屋の胡を「こ」と読み直して「こや」。だからKOYA。

            そして、YとZは筆記体で書くと似ているから、これは間違えても致し方ないと。



            「お〜い。この話は本当か?」と言いたい。

            「本当だ」と思う人は、それでよろしいのですが、私には後付けの匂いがプンプンするのよね。誰かが適当に言ったことがウケて、そのまま定説になったのではないかと思ってます。


            で、この続きはまたいずれ。

            いずれと言うのは、私は近々、コザ十字路とか旧美里村の古謝集落とかを訪ねて、沖縄1935に繋げたいと考えております。だから、続きはその後で。コザは遠いから(笑)


            沖縄1935(3) 糸満前端の路地

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              沖縄1935に載っているこの写真。鱶取り名人、上原亀さんのお宅(現存)の前の路地だそうです。



              沖縄を訪れた朝日新聞の記者が、糸満の風景を撮ろうとウロウロしてたら、たまたま着物姿の女性が現れたので「ちょっと撮らせて下さい」と言ったら、「どーぞ」と。

              絶対にそんなはず無いと思うのであります。

              そして、もう一枚。



              傘に「ミス」。何度見ても「ミス」。

              あれですかね。ナイチから記者が来たのでミス糸満を呼んで、スナップを撮らせたんですかね。つ〜か、昭和10年にミス糸満はいたのかな?

              あるいは、亀さんを取材したら「私の姪はカーギが良いから、撮っていきなさい」と言われたか。

              そこら辺は考えても分かる気がしないのでほっといて、写真の場所を探しましょう。


              亀さんは糸満の前端(マエハタ)に住んでいました。

              現在の前端区の境界がこちら。



              これだけの範囲の路地をしらみ潰しすることはかなり骨が折れます。そこで、埋め立て地をバッサリとカットします。糸満公設市場の界隈も古いとは言え成立は戦後ですから、ここもカットできます。すると、糸満漁港東岸のラインを真っ直ぐ南に下ろして、そこから東を探せば良いことになります。そこが旧前端で、前端の中の前端です。


              「前端公民館かそこらの人に、亀さんの家を聞けばすぐわかるじゃない」

              だから。それは私の「美学」が許さないのよね。写真をよく見て何とか手がかりを探すとかして、目的地にたどり着くまでのプロセスが大切で、かつ楽しいわけよ。

              ピンポイントでその場所に着いたら楽でいいけど、失うものも大きいってこと。


              よっし!!



              見つけました。



              私は記者の位置に立ちましたが、路上に美女はいません(笑)。

              沖縄1935の脚注では、石塀は両側とも港川石になってました。左手の石塀は間違いなく琉球石灰岩。ところが右手はコンクリートなので、当時の石塀ではないようです。


              琉球石灰岩と、



              コンクリート。



              違いは一目瞭然です。


              「で、そこに立って何やのん?」

              だから、現場に立つことは大切なのよ。沖縄1935のすべての写真を見た私より、それぞれの現場に立った私の方が、理解度は断然上と言えるでしょう。そして、繰り返しになりますが、色々調べながら現場に立つことが大切です。

              こいつ(私)、上手く見つかったものだから、言うことが偉そうです(笑)


              私もここに立ちたいと思われた方。メールをいただければ、場所をお知らせします。糸満ロータリーからの道順はひとことで説明できて、超簡単です(^o^)/


              沖縄1935(2) 山巓毛(サンティンモー)からの眺め

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                糸満の山巓毛に来ました。ここは糸満の重要な拝所であり、ハーレー到来を告げる鉦(かね)を打ち鳴らす場所でもあります。



                見下ろせば、糸満ロータリー。




                何故、ここに来たかと言えば、沖縄1935 のこの写真。



                朝日新聞の記者が山巓毛から撮ったと言うのですから、それは私にとって、山巓毛に来いと言われたも同じです(笑)



                記者の写真では、スージの先が直ぐに船溜り。今はその場所は埋め立てられ、少し先がハーリー会場の糸満漁港。手前の樹木が当時は無かったり、種々勘案すれば、記者の写真に見られる、スージ左側三軒続きの赤瓦のうち、真ん中の一軒が現存しているようです。


                次に北西方面。



                その82年後。



                わかりませんてば(笑)

                右手に白銀堂の森が見えてまして、手がかりはそれだけ。

                記者の写真に見える島が「アナギ」。1958年の写真が糸満市のホームページにありました。



                干潮時には干潟となり、潮干狩りができたようです。アナギまで歩いていけたんですね。この写真、島の向こう側(沖)から撮ってるでしょ?

                アナギは、今の写真奥に見えるマンションあたりにあったはず。


                今も島の一部がありました。おいたわしや。



                なんと言えばいいのか。言葉がありません。




                糸満の海岸がこんなにも広い干潟だったとは、今回初めて知りました。干潟という干潟を片っ端から埋め立てて、得られたものは何?、失ったものは何?

                「沖縄に干潟がある→埋め立てる」と「カエルの前に蝿がとまる→パクっと食べる」の思考ロジックはほぼ同じです。沖縄県は埋め立ての損得勘定が合ってると、胸を張って言えんのか?


                沖縄1935シリーズ。断続的に続きます。はず(笑)


                沖縄1935(1) 糸満の鱶取り名人

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                  朝日新聞社の倉庫で見つかった戦前沖縄の写真

                  その中に、こんな写真があります。



                  糸満の鱶取り名人、上原亀さん(1880-1954)。身長は180cmを越えて筋骨隆々。一日に50匹の鱶(つまり、サメ)を獲ったそうです。高級食材のフカヒレ、蒲鉾の原料、サメ油などの需要が多く、当時の漁師は争って鱶を獲っていました。

                  1935年(昭和10年)の写真ですから、この時、亀さんは55歳。いやぁ、男前です。てことは、鱶も女性も入れ食いだったんですかねぇ(笑)。いや、すみません。

                  そして亀さんは、糸満の女傑三羽ガラスの一人で金城商事の創業者金城カネさんのお父さんだそうです。人口が少なく世間が狭い割に有名人が多いから、繋がるんですよね。沖縄では。


                  さきほどより少し引いた写真があります。



                  ここで、鱶取りのお勉強です。

                  亀さんが担いでる漁具は手前が鱶延縄の幹縄、奥が枝縄だと思います。布のようなものはサバニの帆でしょうか。

                  サバニで沖に出て、まず魚を釣ります。魚の種類は問わないそうで、ブツ切りにして海に撒き、血の匂いで鱶を集めて延縄を繰り出します。

                  沖縄各地の漁港で頻繁にサメが捕獲され、ニュースになりますが、あれは魚の血の匂いにサメが集まってるってこと。だから、漁港で海に飛び込むのはサメの餌になるようなものです。


                  延縄に掛かった鱶は、このように銛(ウーギン)で刺します。



                  先端に返しが無い銛だそうで、鱶をサバニに取り込む前に弱らせることが目的だと思われます。


                  ところで、サバニは漢字で書くと鱶(サバ)舟(フニ)。ウチナーグチで鱶、あるいは魚類をサバと呼びます。サバニの語源は確定はしていないようですが、鱶舟を当てることが多いので、かなり有力な説として認められてると言えます。


                  あまりにもプライベートな写真なので掲載は控えましたが、亀さんとその一族が集まった写真がネット上にありまして、そこに確かに金城カネさんが写ってました。

                  私の中で、糸満の上原さんと言えば(りんけんバンドの)上原知子さん。その写真に知子さんがいないものかと探しました。だけど考えてみれば、亀さんが健在の時、知子さんはまだ生まれてないのでした。

                  しょうもないオチですみません。


                  ハンタ道を歩く(9) KEEP GOING

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                    ツンマースの石組みの上にありました。



                    KEEP GOINGはハンタ道を歩く人にとって、至言と言えるでしょう。

                    今後Keep Goingする方のために、ハンタ道の歩き方を少し。


                    (1)北へ向かうか南へ向かうか

                    東太陽橋から中城グスクを目指すか、逆に中城グスクから東太陽橋を目指すか。ここは中城グスクを目指していただきたい。

                    中城グスク周辺はハンタ道が未整備で、悪路が続きます。私が歩いた日は、倒木が道を塞ぎ、その下を四つん這いでくぐるハメになりました。森の中ですから景色は見えません。

                    貴方が彼女を誘った状況を想像して下さい。

                    東太陽橋をスタートした場合、彼女は海の景色を眺め、リゾート風の街並みを眺め、貴方に色々なことを話しかけてくるでしょう。

                    一方、中城グスクをスタートした場合、まず現れるのがホテルの廃墟。続いて森の中の悪路やゴルフ場のフェンス。彼女は無言で歩くか、苦情申し立てを始めるかのいずれかでしょう。

                    もちろん、どちら向きでも同じ道を通ることにはなりますが、中城グスクを目指す場合、もうすぐゴールというヨロコビが終盤の悪路を乗り越えさせてくれます。

                    付け加えますと、東太陽橋と言えども所詮は歩道橋。グスクと歩道橋では目的地としての格が違います。中城グスクの美しい城壁を見上げながらゴールして下さい。


                    (2)女性の一人歩き、ならびにトイレ問題

                    やはり女性の一人歩きはおやめになったほうが良いと思います。誰とも会いませんでしたからね。

                    沿道にトイレはありません。新垣公民館が開いていれば使えますが、それ以外ではまったく思いつきません。

                    万一の事態となった場合は、大変恐縮ではありますが、昔の人と同じ方法でお願い致します。誰とも会いませんでしたからね(笑)


                    (3)お勧めのシーズン

                    11月にハンタ道を歩く護佐丸ウォーキングが開催され、その直前に中城村の草刈り隊が出動します。歩きやすくなりますし、気候も良いと言えるでしょう。

                    やはり夏は体力を消耗します。一方で、海や空の青、森の緑が色鮮やかで濃くもあり、夏ならではの景色を楽しめます。それで私は今の時期を選びました。


                    (4)道に迷わないために

                    石畳風の路面に沿って歩けば良いので、迷うことは無いでしょう。グーグルマップで順路を表示するサービスがありますので、使えるようにしておけば万全です(”ハンタ道”で検索)。私は沖縄では繋がりの悪いSOFT BANKユーザーですが、圏外になることはありませんでした。


                    (5)中城グスクに到着後、なおも歩き足りない方へ(笑)

                    北中城村の荻道大城(おぎどうおおぐすく)湧水群をお勧めします。昼食休憩の後、ゆっくり散歩されてはいかがでしょう。


                    では皆様。ハンタ道にお越しの際はKeep Goingの精神で、良い一日をお過ごし下さい。ませ。


                    ハンタ道を歩く(8) ペリーの旗立岩〜中城グスク

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                      (16)ペリーの旗立岩

                      ペリーの旗立岩に着きました。



                      沖縄に来航したペリーは部下に沖縄本島の調査を命じました。那覇を出発した調査隊は与那原から東海岸を北上し、石川付近で西海岸に出て那覇に戻るルートを辿りました。

                      その際、調査隊がこの巨岩を訪れ、岩の頂上に星条旗を立てた様子が、同行した絵画師によって描かれています。



                      ペリーは江戸幕府と日米和親条約を、琉球王府と琉米修好条約を、それぞれ締結しましたが、日本との和親条約が不調に終わった場合、琉球を占領し、江戸幕府に圧力を加える意図があったようです。つまり沖縄を占領することを想定して調査を行なったということ。

                      上の絵画で調査隊は西を向いています。その方角には宜野湾の台地があり、広大な平地が見えていたはずで、そこが後の普天間飛行場。

                      「勝手に旗を立てんな」と言いたい。


                      (17)ゴルフ場

                      ペリーの旗立岩から先のハンタ道はゴルフ場の敷地に消えてゆきます。そのため、ゴルフ場を迂回し中城グスクに向かう代替ルートを歩きます。



                      このあたりでスマホのバッテリーが無くなり写真はこれが最後です。これ以降は、特に写真に撮りたいモノもなく、ゴルフ場のネットの脇を黙々と歩きました。

                      戦後、このゴルフ場の付近は米軍が占領していて、当時の中城村を分断していました。そのことが原因で村の北半分が北中城村になったのです。土地が返還された後、村は再び一つになるかと思われましたが、いまだに実現していません。

                      概ね、中城村は合併に前向きですが、北中城村が消極的。現在の人口は北中城村が1万6千人で中城村が2万人。合わせて3万6千人の村(あるいは市、町)になっても合併効果が少ないと北中城村は考えているようです。


                      (18)中城グスク

                      ゴルフ場を抜けたハンタ道は森の中に入り木陰になったので、私は少し休むことにしました。森を抜ける風が気持ち良いこと。

                      思わぬ大休憩になった後、ホテルの廃墟を経て中城グスクの南端に出ました。

                      グスク北端の料金所近くのベンチで数人のオジぃオバぁがゆんたく中でした。そのうちの一人が「え〜、どっから来た?」と聞くので「首里城」と答えたら、全員一斉に「お〜〜!!」と歓声を上げ、オバぁは拍手(笑)

                      説明するのが面倒なので、驚いたままにしておきました。「どこから歩いて来たのか」と問われれば南上原でございます。


                      「おい、せっかくだからこのまま勝連グスクまで歩いたらどうか?」とどこからか聞こえたような気がしましたが、既に私の脳内は「お家、エアコン、シャワー、ビール」の4点セットが占領中。「阿麻和利は歩いたぞ」と言われましても、あいにく私は阿麻和利ではありません。

                      料金所のオバさんにタクシーを呼んでもらいました。ゆうなタクシーで、南上原までの料金は1,670円でした。

                      中城グスク到着は12時半。首里城を出てわずか4時間半ですが、継世門の前に立っていたのが昨日のことのようです(笑)


                      投稿が8本にもなってしまいましたが、最初からお付き合いいただいた皆様、ありがとうございます。お疲れ様でございましたm(_ _)m

                      このあと、おまけがあります。


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                      念願の沖縄生活を始めて8年になりました。
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