2万7千年前のオジぃ、展示中

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    西原町上原の沖縄県立埋蔵文化財センターで、(全身骨格としては)日本最古の人骨を展示中です。



    新石垣空港の建設に伴う洞穴調査で、白保竿根田原洞穴遺跡から20数人分の人骨が見つかったもの。そのうちの4人は頭蓋骨があり、最も骨が揃っている白保4号人骨がこちらです。



    約2万7千年前の人骨で、身長165cmの男性高齢者と推定されています。


    20数人分の人骨がまとめて発見されたことや、このオジぃが手足を強く屈曲させた仰向けの姿勢だったことから、この洞穴は当時の墓所だったと考えられています。埋葬ではなく風葬のため、骨には動物が噛んだ跡が残っているようです。

    そして、冷水刺激を反復することによる外耳道骨腫の症状が見られるそうで、これは海女さんやダイバーに見られるもの。ってことは、このオジぃは海人(ウミンチュ)だったのかもしれません。

    また、上顎の歯の磨耗が激しいことが明らかになりました。充分な道具が無い時代ですから、物を切断したりするために、歯を多用していたのかもしれません。

    いやぁ、色々分かってきましたねぇ。

    既に沖縄で見つかっている山下洞人や港川原人は骨の劣化が激しいため年代測定が難しく、一緒に発掘された木炭などから間接的に年代測定したそうです。一方、白保オジぃの骨は保存状態が良く、年代測定ができたとのこと。いやぁ、素晴らしい。


    沖縄にはヤマトから稲作集団が渡って来たと考えられていますが、沖縄で狩猟生活をしていた白保オジぃの子孫達とはどのように交わったのか、交わらなかったのか。言い換えると、ウチナーンチュはオジぃの直系の子孫なのか、そうではないのか。

    何故、ウチナーグチは古い日本語みたいなのか?

    また、オジぃの祖先は約3万年前に、大陸から海を渡って来たと考えられていますが、黒潮が横切る海をどうやって越えたのか。

    NHK「3万年前の航海」



    ウチナーンチュはいつ、どこから来たのか。そのテーマに一定の答えが出るかもしれませんね。


    それにしても、埋蔵文化財センターが展示品の写真撮影を許していることが素晴らしいです。「なんであかんの?」と思われる場所が多い中、画期的と言えます。



    ついでに言うと、たいして売れてもない民謡歌手のライブで「演奏中の写真撮影やムービーはお断りしてま〜す」とか言っちゃって、くそ生意気な。

    その点、りんけんバンドは心が広いわ。カラハーイのライブ冒頭でボーカルのかーつーが、

    「なお、演奏中の写真撮影や、録音、録画などはですね・・・。どんどんやって下さいねぇ〜、アハハ」

    と必ずアナウンスしてくれます。見習いなさいっちゅうの。


    琉球に来たジョン万次郎(2) 牧志朝忠、ベッテルハイム

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      万次郎が大渡浜(当時は小渡浜)に上陸した1851年2月。



      その頃の琉球は簡単に言ってしまえばテンペストの時代。最後の国王に4歳で即位した尚泰(1843-1901)は8歳でした。

      ナンミンヌガンチョー(波之上の眼鏡)こと宣教師ベッテルハイム(1811-1870)が那覇を徘徊し、2年後にはペリー(1794-1858)が泊に来航しました。

      万次郎は薩摩へ向かうまでの半年間、豊見城市翁長の高安家に軟禁されましたが、何故、首里や那覇ではなかったのか。それは、琉球王府が万次郎とベッテルハイムを会わせたくなかったからと言われています。

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      ベッテルハイムは琉球王府からも那覇市民からも「変わり者」と思われてましたから、二人を会わせてしまうと、何か嫌なことが起きる予感があったんでしょう。


      さて、摩文仁間切の番所で万次郎の取り調べを担当したのは、テンペストで孫寧温(そん ねいおん:真鶴)のモデルとなった牧志朝忠(1818-1862)でした。

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      万次郎はすっかり日本語を忘れていましたし、仮に覚えていたとしてもウチナーグチは通じなかったでしょう。ベッテルハイムから英語を学んだ朝忠が適任だったということですね。

      その時、朝忠は34歳。取り調べをする立場でありながら、万次郎から米国の政治や経済に関する多くのことを学びました。

      後に朝忠はペリーとの交渉役に指名されました。極東の小さな島国に、英語を話せる上に合衆国大統領ジョージ・ワシントンまで知っている若者がいたとペリーは驚き、朝忠を心から信頼したそうです。その功績の一部は万次郎のものと言って良いでしょう。


      琉球を離れた万次郎は薩摩、長崎を経由して故郷土佐に還り、遭難以降11年ぶりに母親との再会を果たしました。その後、万次郎は日本の開国、すなわち日米修好通商条約の締結に貢献し、咸臨丸で勝海舟や福沢諭吉らと共に再び米国を訪れました。

      米国捕鯨船員の役に立ちたいと帰国を決意した万次郎でしたが、その目的を果たしたばかりでなく、それを遥かに上回る成果を上げたことになりますね。


      万次郎が上陸した大渡海岸のリーフです。





      万次郎がここに上陸した日から約100年後。彼が心から愛した日米両国が戦争し、日本軍が摩文仁で玉砕するなんて、夢にも思わなかったことでしょう。

      平成5年。豊見城市と万次郎の故郷土佐清水市は姉妹都市となりました。

      また、平成14年。高安家を訪ねた万次郎の子孫は「万次郎が沖縄で親切にしてもらったことは代々伝わっている。来ることができてとてもうれしい」と語り、高安家の皆さんは「感無量です」と応じたそうです。

      (終わり)


      琉球に来たジョン万次郎(1) 大渡浜、翁長

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        糸満市の大渡浜です。



        土佐の漁師、中浜万次郎(1827-1898)は14歳の時黒潮に流され鳥島に漂着しました。143日後、米国の捕鯨船ジョン・ハウランド号に助けられて渡米。英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学び、その後、捕鯨船員となりました。

        万次郎は、鎖国中の日本に漂着した米国の捕鯨船員が虐待を受けていることを知り、仲間に安心して漁をさせたいと、日本への帰国を決意します。万次郎が大渡浜に上陸したのは1851年2月2日。24歳の時でした。



        当時の日本は海外渡航者の帰国を禁じており、密入国者は死刑に処せられた時代です。まず琉球に上陸することを選んだ万次郎には、日本帰国までの計算があったようです。


        薩摩藩の取り調べを受けた後、万次郎は豊見城市翁長の高安家に軟禁されました。集落内の自由は与えられていたようで、翁長の人達と交流し、ウマチーの綱引きにも参加したそうです。

        翁長集落にある「ジョン万次郎記念碑」。



        石碑の前は万次郎が綱引きを経験した翁長馬場跡です。




        ところで。記念碑の場所はネットで簡単に検索できますが、現役の住宅である高安家の住所を調べることは簡単ではありません。だから、翁長集落内のスージをしらみつぶしに歩くしかないのですが、これが楽しくて楽しくて(笑)

        私には手掛かりがありました。それは万次郎が綱引きに東(アガリ)で参加したというもの。つまり、高安家は翁長集落のナカミチより東にあるということです。

        そして、突然。



        いやぁ、嬉しいわぁ(笑)。

        万次郎がここで暮したのは170年近く前のこと。建物は当時のままではありません。

        (続く)


        香港通りはどこなのか?(3) お父さんの証言

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          香港通りの場所を概ね特定できたつもりですが、まだ確信は持てません。



          そこで登場いただくのが某青果店のお父さん(86)です。

          C「お父さんは香港通りを知ってますか?」

          父「ああ、知ってるはずよ。どのあたりだったかな」

          C「壺屋の大シーサーの近くです」

          父「あっ、そうだ。あそこから浮島通りに入って右側の最初のスージだ」

          C「おっし!!(よぉ言うた)」

          父「貿易商が集まってた場所でね。私の父親が貿易商をやってたから、私はそれを手伝ってたんだよ」

          C「糸満の女社長がいたでしょ」

          父「いたね。幸陽、金城、照屋」

          C「おっし!!(完璧やん)。で、お父さんはその人達と話をしたことがあるんですか?」

          父「話をしたことがあるもなにも、取引相手だったからね。あの人達は私と父親の間の年代だったね」

          C「はぁ、もう最高(笑)」


          貴重な証言を得られたと言うか、最初っからお父さんに聞けば良かったような気がしなくもないですが、まあそこは、三冊の本を読み、あれこれ考えたプロセス重視で行きましょう。


          最後に残った疑問が一つ。



          グダグタβ氏はこの地図を知っているんですよ。香港通りを投稿した翌年、丸国マーケット関連の投稿で、この地図を使ってるんです。その時、何故、糸満“三羽ガラス”の並びに気付かなかったのか。

          金城や照屋がどこにでもある名前だからとか、丸国マーケットに頭がいってたとか、そんな理由ではないと思います。

          思い当たるのは、金城商事のホームページに創業場所が那覇市樋川48-25と記載されていること。だから、グダグタβ氏は壺屋に香港通りがあるとは思わず、「おそらく仏壇通り」と考えたのではないでしょうか。

          現在、那覇市樋川48-25の住所はありません。樋川は1丁目か2丁目なんです。これは図書館に行き、当時の樋川の境界を調べる必要がありますね。


          だけど、すぐには調べませんよ(笑)

          考えてもごらんなさい。例えば、今日の夕方、私が図書館に行ったとします。そして、那覇市樋川48-25が地図の場所でなかったら、私はせっかく書いた3本の投稿を公開できませんやん。それはイヤなので、「そのうちに」調べます(笑)

          このあたりの無責任さが糸満“三羽ガラス”を本に書き、収入を得た人達と私との違いです。


          長々と、多分に自己満足的な投稿でご退屈様でした。それでは、サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ (^o^)/

          (終わり)


          香港通りはどこなのか?(2) 金城カネさん

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            琉球新報の書評(7)に名前が出た金城カネさん(1911-1985)は、私がいつもお世話になってる金城商事の創業者です。



            沖縄タイムスが出版した「私の戦後史(第5集)」にカネさんの自伝が掲載されていて、そこに次の一節がありました。

            戦後の混乱期は、食糧確保が第一でキビ作は後回し。また製糖工場も戦火にやられ、ほとんど皆無だった。この悪条件を克服し、昭和26年に大東糖業(宮城仁四郎社長)が戦後真っ先に操業を開始。その翌年には琉球製糖(金城金保社長)が設立された。

            この2社の砂糖を独占的に扱ったのが“三羽ガラス”と呼ばれていた糸満の三人の女だった。幸陽商事の金城慶子氏と照屋商店の照屋ウシ氏、そして私である。香港通りで私の店の両脇にこの2つが並び、3店で競い合っていた。



            さて、この投稿の本題です。

            昭和27年に金城夏子(慶子)さんは36歳、照屋敏子(ウシ)さんは37歳、金城カネさんは41歳。糸満“三羽ガラス”が創業期に軒を並べた香港通りはどこなのか?。

            そこで、私が尊敬してやまないブログを紹介します。

            グダグタβ
            (http://gdgdwktk.blog.shinobi.jp)

            戦前、戦後の那覇に関しては、比較する相手が見つからないブログで、グダグタβ氏により、あらゆる資料が調べ尽くされています。私は全ての投稿を読み終えていまして、その時代の那覇に関する私の知識の基本はこのブログにあると言えます。(残念ながら現在は更新停止中)

            そこに、香港通りに関する投稿がありました。



            グダグタβ氏は、「私の戦後史」を引用しつつ、香港通りの場所を特定しようと試み「おそらく仏壇通りのことではないかと思う」と述べています。

            この投稿を読んだ時の私は、香港通りがどこなのか興味が湧きましたが、グダグタβ氏に分からないものが、私に分かるはずがないと考えていました。


            ところがですね。地図があったのですよ。



            地図の右端。上から4軒目に金城商事とあります。そして、その2軒上に金城夏子さんの幸陽商事が、2軒下に照屋敏子さんの照屋商事があります。この筋道が香港通りで間違いないでしょう。

            その場所は超簡単。まず、浮島通りの壺屋側入口に立ちます。



            次の筋道を右折すると、そこが香港通り。



            地図にある「みつや呉服店」は「みつや繊維」に名前を変えて現存していました。地図では旭通りとなっていますが、香港、台湾などを相手にする貿易商が集まったことから、通称「香港通り」と呼ばれたようです。

            次の写真は「私の戦後史」に掲載されていた創業期の金城商事(商店)です。



            建物の配置が同時とは異なるので正確とは言えませんが、ほぼ同じアングルの写真が撮れたはずです。



            (続く)


            香港通りはどこなのか?(1) 女王と女傑

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              糸満の金城夏子さん(1916-1954)と照屋敏子さん(1915-1984)。

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              5年ほど前に、二冊同時に読みました。

              本が発売された頃の琉球新報の書評に、この二冊が取り上げられていますので、少し長いのですが引用します。(番号は私)

              (1)先に講談社ノンフィクション賞を受賞した奥野修司の『ナツコ 沖縄密貿易の女王』(文藝春秋社刊)が、糸満市の女性団体を中心に大きな話題となった。今度も東京で沖縄料理の店を開くヤマトゥンチューが、また一人糸満出身の女傑「照屋敏子」の生き様をつづった本を出し、小学館ノンフィクション大賞に輝いた。糸満に生を受けた者として大いに喜びたい。

              (2)著者の高木凜は、シャンソン歌手の石井好子が語る「照屋敏子」に興味を持ち、その石井から「照屋敏子を書いてごらんなさい」といわれ、「大宅壮一が、石井好子が出会い、愛してやまなかった照屋敏子とはいかなる女性だったのだろう」か知りたくなり、「敏子を訪ねる旅に出ることにした」という。

              (3)照屋敏子は、24年前の1984年に68歳で亡くなっているが、生存中にいろんなところで、いろんな人と、多くのことを語っている。その語りが新聞雑誌等に記され、敏子の言動は多くの人の知るところである。

              (4)本書は、照屋敏子の生涯を多くの新聞雑誌の記事や関係者の証言、資料等から時代背景を踏まえながら整理されているので、敏子が「沖縄の自立」を叫んで次々と事業を拡大していったことにうなずける。

              (5)しかしながら、本書が『婦人公論』の「間貸し国『沖縄』の女たち」、『オキナワグラフ』の「糸満女傑の土根性 照屋敏子さんの自立経済論」、『女性自身』の「音に聞く沖縄の女傑 照屋敏子さんの二度の涙」、『時代を彩った女たち 近代沖縄女性史』等の照屋敏子の記録に依拠しすぎる感は否めない。

              (6)「夫が獲ってきた魚を妻が現金で買い」、その売り上げが「ワタクサー」となるということや「糸満漁師の勇敢さは(中略)過酷な年期奉公によって作りだされたものである」など、誤解を招く記述がまたしてもあることには、「糸満市の歴史と文化」を語る者として、もっと説明していかなければならないと感じた。

              (7)糸満出身の女傑は、ナツコや照屋敏子だけではない。金城カネもおり、今後新たな発掘がなされ、ノンフィクション大賞につながる著作が出てくることを期待したい。

              (金城善・糸満市教育委員会生涯学習振興課長)


              ク〜〜!!

              (5)と(6)がグサッとくるわぁ。二冊の本の著者はいずれもナイチャー。お二人と比較するのはおこがましいけれど、私のブログもまったくそのようなことでございます。m(_ _)m

              (続く)


              恋しあかつらの・・

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                ジュリ馬祭りの演舞台にこんな琉歌がありました。



                恋しあかつら(赤津浦)の
                波にすそ(裾)ぬ(濡)らち
                通たるむかし(昔)
                わしり(忘り)ぐりしゃ
                尚灝(しょうこう)王



                赤津浦は若狭の海岸で、ジュリ達が浜下りで遊んだ場所です。野津唯市さんが描いた「雪の崎(ユーチヌサチ」の東側(手前)にあたり、



                琉球歌劇「泊阿嘉(トゥマイアーカー)」で、久茂地の樽金(タルガニー)と泊の思鶴(ウミチル)が出会った場所でもあります。

                20130507124859_0.jpg

                その海岸を、尚灝王(1787-1834)は裾を濡らしながら歩き、辻遊郭に通ったと・・。

                そして、そんな昔が忘れられんと・・。

                そんなこと言われても「はぁ、そうですか」としか答えようがありません。


                尚灝王は尚泰王の祖父で、琉球王朝末期の難しい時期に即位したのですが、後世で語られるような施策は打てなかったようです。

                一妃二夫人八妻をもち、九男十七女をもうけました。八人の妻のうち七人は平民の女性だったそうで、カーギの良い平民女性を集めてオーディションのようなことをしたと・・。

                その上、辻遊郭にも通ったと・・。

                「何をしとるんだ?」と言いたい。


                辻の皆さんがこの琉歌を掲示した意味を考えれば「琉球国王も愛した辻遊郭」ってことになり、私が知らない物語があるのかもしれません。今年は尚灝王の没後183年。長い琉球の歴史からみれば、つい最近のことです。

                そのうち私も、その物語を知る機会があるでしょう。

                もしくは、特には無かったか(笑)


                久茂地尋常小学校の遺構(3) 説明会

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                  久茂地尋常小学校の遺構説明会に参加しました。



                  沖縄戦で焼失した久茂地尋常小学校は、当時の資料がほとんど残っていないそうです。那覇市文化財課主催の説明会は、市民への情報提供の場であり、情報収集の場でもあります。

                  上の写真はたった一枚残っているもので、南向きの正門を入って校舎、その裏に校庭(体操場)、校庭の裏が一銀通りです。


                  校舎の入口に説明者が立っています。



                  校舎は左奥に向かってL字に曲がっていて、右手の人が立っている場所が校庭です。礎石の間隔からの推定で、校庭側には廊下があり、3.5間×4.5間の広さの教室が4室並んでいたようです。

                  次の写真に多数の礎石が見えます。大きな礎石は柱と屋根を支え、小さな礎石は床を支えていました。




                  校舎前にある煉瓦組みの用途は不明です。こんな時に尋常小学校OBが現れて「これは花壇だよ」と言えば解決ですが、残念ながらそうはなりませんでした。



                  こちらは八角形の石組み。手洗い場ではないかとのこと。




                  尋常小学校の遺構は、久茂地小学校の校庭を約40センチ掘った場所で見つかりました。

                  戦前、このあたりは湿地帯の埋め立て地で水はけが悪く、雨の後の校庭は使いものにならなかったそうです。その校庭は焼土となり、赤味を帯びていました。

                  先ほどの煉瓦組みの写真にある円形のコンクリートは、戦後この場所に建てられたツーバイフォーの礎石です。その間隔がフィートなので米軍が建設したもののようです。


                  広大な湿地帯に長虹堤が築かれ、埋め立て地に上級神女(なは大あむ)の屋敷が建ち、後に久茂地尋常小学校と久茂地小学校が101年の歴史を刻みました。

                  この場所には市民会館が建つ予定ですので、この校庭を再び見ることができるのは数十年先になるでしょう。

                  その時、那覇はどんな街になっているんでしょう。私はとっくに死んじゃってますが、今の小学生達が私の年代になり、遺構の様子をブログに投稿してるかもしれません。


                  写真集「南風原」(1) アマダイガーラ

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                    写真集「南風原」から、昔沖縄の風景を数枚紹介します。

                    一枚目はアマダイガーラ。南風原町照屋にあった民家の写真です。



                    茅葺の屋根に瓦の庇を取り付けてあります。明治時代に民家の瓦葺が許され、この形式が流行しました。

                    沖縄には「アマダイミジャ ソーユジケー」という言葉があります。雨垂れ水は醤油のように使え、ですね。つまり、アマダイガーラはアマ(雨)ダイ(垂れ)ガーラ(瓦)。


                    上の写真は、座敷が見えないので、北西方向から撮ったものだと思います。では、南側、東側はどうなっていたのか。

                    こちはら、八重瀬町の美味しいそば屋「屋宜家」の庇です。

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                    庇の下の空間を雨端(アマハジ)と呼びます。上の写真の民家の南側、東側にはこんな雨端があったはずです。

                    雨端は屋内でも屋外でもない空間です。雨や陽射しは遮られていますが、自然と無関係ではいられません。また、訪問者と接する場でもあります。

                    昔の沖縄の民家はオープン型。自然と共生している雰囲気がありました。


                    やがて、台風被害を防ぐために、沖縄の民家はコンクリート住宅に建て替えられました。広いテラス付き。

                    つまり、こんなお宅ですね。



                    ナイチの発想としては、テラスのスペースにもう一部屋造るでしょうが、それよりもテラスが優先されます。現代版の雨端。

                    家族や友人とバーベキューができますね。雨の日に一人で本を読んでもよろしい。いや、うらやましいです。


                    そして、最近の民家のトレンドはこんな感じ。



                    話は変わりますが、出張などで使うビジネスホテル。私は外界から隔離された、あの無機質な空間が好きでした。

                    雨が降ろうが、夏の強い陽射しを受けようが室内は快適で、部屋の外の出来事と無関係でいられます。更に言えば、他人と交わることもありません。


                    沖縄の民家はオープン型からクローズ型に移行していると言って良いでしょう。 どちらが暮らしやすいのか。これはなかなか難しいところです。

                    一軒一軒のお宅はその家の好みとしか言いようがありませんが、クローズ型の住宅が増えていることは世相を反映していると言えるでしょう。


                    歴史博物館の復元模型がショボ過ぎる

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                      戦前まで、那覇の中心街だった東町。市役所、百貨店、公設市場などが集まり、路面電車まで走っていました。




                      那覇市歴史博物館が戦前の東町を模型で復元すると聞き、私はそれはもう楽しみにしていたのでした。

                      その模型が完成し、既に展示されていますが、それがショボいのよねぇ。て言うかショボ過ぎ!!(泣)




                      いや、確かに、私が勝手に妄想を膨らませ過剰に期待していたのかもしれません。でもねぇ、一括交付金1,400万円を投じると聞けば、それなりに期待するでしょ。結局、費用は1,200万円に削減されたようですが、それでも私の評価は同じです。


                      タイプは異なりますが、こちらは宜野湾博物館に展示されている、新城集落のジオラマ

                      これは良かった。当時の人達の日々の営みまで思い浮かぶようで、見ていて飽きることがありませんでした。




                      東町の模型制作は、ナイチの専門会社に1,200万円で委託されました。プロの仕事のはずですが質感に乏しく、気持ちが戦前に飛びません。材料が悪いのか、配色の問題か、縮尺が大雑把なのか、その理由が良くわかりませんが、チラッと見たら「もういいわ」って感じ。


                      これ。例えば、沖縄工業高校とか沖縄工業高専に頼んだらどうだったのかと思いますね。

                      生徒(学生)には、戦前の那覇の様子や市民の暮らしぶりを事前に学んでもらい、その上で復元模型の製作に取り掛かれば、それはもう一生懸命にやってくれたんじゃないかと。生徒(学生)がウチナーンチュなら、なお良いでしょう。

                      つまり、この模型には郷土に対する愛が感じられないのよ。頼まれたから作りましたって感じ。


                      模型を様々な角度から眺めてみたり、当時の写真と見比べてみたり、視線を路上に置いて建物を見上げてみたりしたかった。

                      ところが、ちっともそんな気になれないのよね。これが。


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                      念願の沖縄生活を始めて7年になりました。
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