十貫瀬から樋川までの地形

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    十貫瀬から樋川までの地形図です。山原船が航行したかつての入江(汽水域)をイメージしてみましょう。

     

     

    地図の上部に久茂地川。沖映通り左側の小さな隆起が十貫瀬です。沖縄の珊瑚礁は「瀬」と呼ばれていて、那覇近辺には伊奈瀬、自謝加瀬、干ノ瀬などがあります。沖映通り右側、久茂地川に平行する通りが長虹堤跡ですから、十貫瀬は海岸もしくは海上に位置していた「瀬」です。

     

     

    では、十貫瀬から地図右下、農連プラザのある樋川まで、ガーブ川左岸を辿ってみます。

     

    十貫瀬からガーブ川を渡った所にある隆起は現在の緑ヶ丘公園。

     

    更に、パラダイス通りを横切った所に隆起があります。ここは公園ではなくて、こんな場所。

     



     

    国際通りからスージを入ると意外な風景に出くわすことがありますが、初めてここに来た時には驚きました。国際通りのすぐ側にある里山の風景。詳しくはこちらから

     

     

    地図をもう一度載せまして、国際通りを横切ります。

     

     

    国際通りを横切った先に小さな隆起があります。国際通りからにぎわい広場に一方通行が抜けてる場所で、急斜面になってます。

     

    にぎわい広場から浮島通りを横切った先が松尾公園の丘。その先、開南中央通りに向かって急坂を下り、開南バス停に向かって再び登り坂になります。

     

     

    再び、十貫瀬に戻って、沖映通りを横切った所に小さな隆起。名前は知りませんが、そこには確かに小さな森があります。

     

    沖映通りに沿って次のなだらかな隆起はりっかりっか湯裏手の森。

     

    国際通りを県庁前から、安里に向かって歩くと、松尾とてんぷす那覇辺りの2ヶ所に坂道があります。てんぷす那覇辺りで国際通りを横切った先の隆起が桜坂(希望ヶ丘公園)です。

     

     

    長虹堤が築造された時代に戻り、開南バス停あたりに立って、山原船が浮かぶ海を眺めてみたいものだと思います。

     

    それで、こんな地形図を持ち出して、なんとかその風景をイメージしたいと考えましたが、やっぱり難しいな(笑)


    ハーバービュー通りとひめゆり通りを繋ぐ古道(6)

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      航空写真をもう一度見ましょう。私は上から3番目のマークにいます。城岳の丘の南端です。

       

       

      一方、丘の北端は城岳公園で、そこを下ると那覇高校。

       

      北斎の城嶽霊泉に描かれた城岳は山の形をしてました。1950年代にその山が平らに削られて新世界遊園地になり、閉園後、那覇市が公園を整備しました。

       

      城嶽(グスクダケ)は古波蔵の拝所。城嶽を城岳に書き換えるのは渋々オッケーとしても、ジョウガクは無いでしょう。

       

      「トゥミグシク」→「豊見城」→「トミシロ」も同じ。城(グシク)をジョウと読んだり、シロと読んだり、ナイチ読みに変える必要がありますかね。

       

       

      丘の道に戻りましょう。

       

      森を右に見ながら進み、

       

       

      突き当たりの森の手前を右です。

       

       

      この辺りから、このブログの読者で、幼少期を楚辺で過ごしたうちなーんちゅさんのナワバリに入るみたいです(笑)

       

       

      中山アパート前からの下り坂。丘の道はこのままひめゆり通りに出たのでしょうが、かつての路上にマンションが建ってます。

       

       

      突き当たりを右に迂回して、丘の道に戻りました。ひめゆり通りはもうすぐです。

       

       

      マンションを迂回する途中、聞き覚えのある琉舞研究所がありました。安次嶺利美琉舞研究所。

       

       

      看板の前でしばし考えて、思い出しました。最近ここに琉球舞踊家の当銘由亮さんが芝居の稽古に通われてました。ここで待ち伏せしてサインを貰えばよかった(笑)



      さて、ひめゆり通り(与儀大通り)に出ました。農協会館前バス停のすぐ横です。

       

       

      ひめゆり通りを横断し、丘の道は続きます。

       

       

      この場所は車両通行止め。

       

       

      再び車道に戻り、丘の道は古波蔵の丘を登り始めました。ここから真玉橋の手前までは迷いようの無い一本道。ただし、西行きの一方通行です。

       

       

      ここから先はまたいずれ。

       

      投稿6本を読んでいただいた読者の皆さん、お疲れ様でした。


      ありがとうございます。m(_ _)m


      ハーバービュー通りとひめゆり通りを繋ぐ古道(5)

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        ところが、この展望台フージーは封鎖されていました。

         

         

        ホームレスが雨宿りしたり、若い兄ちゃん達がタムロしたり、用も無いのに入って来るオヤジ(私ですが)がいたりするからでしょうね。

         

        やむを得ず、階段から私が進むべき道を観察しました。前方に森が見えるので、あの森の左側を抜けるようなルートをイメージしましょう。

         

         

        その結果、丘の道はこの駐車場付近で左に入ることが分かりました。航空写真の上から2つ目のマークの位置です。

         

         

        進みます。

         

         

        進みます。

         

         

        進みます。

         

         

         

        ひめゆり通り(与儀大通り)の旧農協会館裏の崖地に到着し、眺望が開けました。ここが城岳の丘の南端です。

         

         

        那覇市場から国場に向かう丘の道は、この辺りで中間点。市場で日用品などを買った国場の女性は、このあたりで天秤棒を肩から降ろし、ホッと一息入れたかもしれません。

         

         

        それにしても片道5キロ。行きも帰りも天秤棒を担いで、よく歩けたものです。しかも、陽射しが強い沖縄で。

         

        女性が天秤棒で運べる野菜は大した量にはなりません。だから、一日に何往復もしたそうです。

         

        私も八百屋で野菜を運んでますが「今日から天秤棒で運びなさい」と言われたら退職ですよ。退職(笑)

         

        (続く)


        ハーバービュー通りとひめゆり通りを繋ぐ古道(4)

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          ハーバービュー通りから丘の道を歩き、城岳のガジュマルに着きました。

           

          戦前、このガジュマル前には琉球競馬の馬場がありました。

           

          20130124184612_0.jpg

           

          この石像は琉球競馬に使われた琉球馬です。競うのは速さではなく型。上下動する馬の上で、騎手が一定の姿勢を保つ美しさを競うものです。そのあたり、梅崎晴光さんの名著「消えた琉球競馬」に詳しく紹介されています。

           

          日本軍が沖縄に来て以来、重用されたのは大型の軍馬で、小型の琉球馬は見向きもされませんでした。ところが、脚の長い軍馬は各地の石畳道で転びまくったそうです。

           

          (v^_^)v

           

          ユーシッタイ、ユーシッタイ

          ワンの言うこと聞かずにユーシッタイ♪

          (©きいやま商店)

           

          そしたら、日本軍は石畳を剥がしてしまい、砕いた珊瑚を敷いたんですね。沖縄の石畳道が失われた一つの理由です。腹の立つ。

           

           

          馬場の話が長くなりました。丘の道に戻ります。

           

          丘の道は現在の城岳小学校裏を通っていましたが、戦後の宅地開発により道路が碁盤の目に整備されてしまい、今、その痕跡はありません。

           

          航空写真の5ヶ所に黄色のマークを付けました。私は今、城岳のガジュマル前、一番上のマークにいます。

           

           

          所々に残っている小さな森は、城岳の丘の端っこ、つまり崖の上にあります。丘の道は、この小さな森に沿って、その内側を通っていたので、5つの黄色のマークを目安にすれば大きく逸れることはないでしょう。

           

           

          城岳のガジュマル前から、壷川東交差点に向かう下り坂に入ります。

           

           

          戦前まで、城岳や古波蔵の丘から崖下(国場川河川敷)に下りるには、人がやっと通れるよう道しかありませんでした。その葛折りの道が古波蔵の崖地には残っています。

           

          だから、この下り坂は戦後、重機を用いて強引に通した道で、私のオンボロワゴンは雨の日、この急坂を登れません(笑)

           

           

          この下り坂のどこかで、丘の道は左に逸れますが、その場所を特定するには、高い場所から眺めるのが一番。

           

          フフフ。近くにこんなアパートを見つけました。二階建てのアパートですが、屋上に展望台のようなものがありますね。

           

           

          展望させてもらおうじゃないですか(笑)

           

          (続く)


          ハーバービュー通りとひめゆり通りを繋ぐ古道(3)

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            ハーバービュー通りから丘の道に入りました。

             

            街路樹が植えられ、路面にはミンサーの絣柄が描かれてる、丘の道最厚遇区間。いつ(五)の世(四)までも末永く。

             

             

            まあ、これは丘の道が厚遇されているのではなく、この先に格式高いホテルがあるからですね。はい、到着。

             

             

            ホテル前を抜けると丘の道は壷川から泉崎りうぼうに向かう市道に出ます。一見、突き当たったように見えますが、本来の道筋は左の歩道部分なので、ちゃんと左奥に向かって抜けてます。

             

             

            この辺りはかつての湧田村で、獅子松尾(シーシマーチュー)と呼ばれる松林がありました。高麗出身の陶工張献功(ちょうけんこう)が国場からここに移り、ヤチムンの窯を開きました。

             

             

            さて、丘の道は続きます。

             

             

            突き当たりに小さな森が、見えてきました。あの森が、この先の道筋を追うヒントになりますので、覚えておいて下さい。

             

             

            突き当たると思われた丘の道は、森の左手をすり抜けています。

             

             

            ここは私が好きな道です。城岳一帯は開発が進み昔の面影はありませんが、ここだけは古道を歩いてる実感があります。

             

             

            丘の道は市道に合流し、

             

             

            城岳のガジュマル前に出ます。

             

             

            (続く)


            ハーバービュー通りとひめゆり通りを繋ぐ古道(2)

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              国場から那覇市場までの距離は片道約5キロ。古波蔵と城岳の崖上を通る古道を丘の道と呼ぶことにします。

               

              丘の道は真玉橋の西、国道沿いのパチンコ屋脇から始まり(地図のバルーンの位置)、直線的に北西方向へ向かい、ひめゆり通り(与儀大通り)の中央ツーリスト本社横まで続きます。

               

               

              古い道筋が残ってはいるものの、天秤棒や荷車で野菜を運んでいた頃を偲べるものは何も無く、民家の立派な石垣や大きなガジュマルが残るくらいです。

               

               

              さて、場面を那覇市東町にあった那覇市場に移しましょう。

               

              天秤棒を担いで那覇市場を歩く女性。野菜を運んで市場に着いたところか、野菜を売り終わり、魚や塩などの買物を済ませたところか、天秤棒に荷重がかかっています。

               

               

              那覇市場を出た彼女は泉崎橋を渡り、丘の道を歩いて国場に帰ります(ということにしましょう)。

               

              久茂地川の川筋が変わっているので、泉崎橋があった場所は国道58号線の路上です。泉崎橋を渡った女性は現在の那覇市役所方向に向かいますが、古い道筋は残っていません。

               

              ハーバービュー通り(那覇高校前の通り)まで来て、やっと丘の道が現れます。ハーバービューホテルに向かう一方通行です。

               

               

              ここからひめゆり通りまで、丘の道を歩きます。

               

              (続く)


              ハーバービュー通りとひめゆり通りを繋ぐ古道(1)

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                私が住む那覇市国場は、かつての野菜生産地。大消費地の那覇に近い上に、国場川や漫湖を利用した水上交通が可能で、車や鉄道の無い時代では、他集落に対して優位な立場にありました。

                 

                漫湖の水上交通(1)

                漫湖の水上交通(2)

                 

                水上交通に用いる舟はサバニですから、野菜を運ぶ様子は東南アジアの水上マーケットをイメージすれば良いでしょう。

                 

                 

                また、国場は野菜の集積地でもありました。国場川の支流から小さな舟で野菜を国場に運び、大きな舟に積み替える水上ネットワークがあったようです。

                 

                 

                一方で、肉や魚、塩など、生活に必要な品物を入手するために野菜を売る人達もいて、その人達は陸路で那覇に野菜を運びました。運ぶ方法は頭に乗せたり、天秤棒を担いだり、荷車をひいたり。

                 

                今なら、国場から那覇までは平坦な国道を歩けばいいのですが、当時そこは国場川。陸路は古波蔵や城岳の崖上にありました。真玉橋から古波蔵の丘を登り、ピークを越えて下った所が現在のひめゆり通り。そこから再度、城岳の丘を登り、下った所が現在のハーバービュー通り。泉崎橋を渡って、那覇市東町にあった那覇市場に到着しました。


                (続く)


                コザの散歩(6) 越来グスク

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                  一つ前の投稿で紹介した1947年の写真を拡大しました。



                  コザ十字路の北に越来、西に安慶田、南に照屋の各集落が見えます。コザ十字路付近はハル、もしくは湿地のようで民家が見えません。ハルと安慶田集落との境界を比謝川が南から北へ流れています。



                  コザ十字路の北西、越来集落の南に写った長方形の黒い影が越来グスクです。米軍はその城壁を崩し、コザ十字路周辺の地盤強化に利用したのですが、その様子がコザ十字路絵巻に描かれています。ブルドーザーに乗ったマッカーサー。



                  つまり、銀天街の地下には越来グスクの城壁がゴロゴロしてるってこと。世界遺産登録クラスの城壁だったはずなのに、グスク跡地にその痕跡は何もありません。

                  マッカーサーのやつめ。

                  何てことすんだ。と思う一方、そこに市場ができてコザが繁栄したんだから、まあいいか。と思う一方、越来グスクも見たかった(笑)


                  越来グスクは即位前の尚泰久(越来王子)の居城でしたので、百十踏揚はここで生まれ育ったはずです。泰久王は1454年に39歳で即位し、踏揚は勝連の阿麻和利に嫁ぎました。そして、阿麻和利の乱が1458年。

                  王府軍が勝連グスクに到着する寸前、大城賢勇は踏揚を背負い、首里へ逃げましたが、その様子も絵巻に。



                  勝連を制圧した泰久王は、賢勇と踏揚に越来グスクを与えました。

                  踏揚の生年が分からないので、適当に数字をあてはめれば、16歳で勝連に嫁ぎ、20歳で越来グスクで帰ってきたということ。そして、1462年に首里でクーデターが起きたため、賢勇と踏揚の(幸せな)生活はわずか4年で終わってしまいます。踏揚24歳。賢勇は踏揚を玉城に逃がした後に自害したと言われています。

                  関連投稿:百十踏揚が玉城へ向かった理由(1)

                  関連投稿:大城賢勇の墓(1)


                  コザの散歩は一旦これでお終い。次は古謝を歩きます。


                  コザの散歩(5) 沖縄戦直後のコザ

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                    1947年に米軍が撮影した航空写真がありました。

                    1945年の沖縄戦集結後、大規模な収容所(キャンプ・コザ)が設置された越来村は、一旦、胡差市(もしくは古謝市)に昇格しましたが、翌年の1946年には収容所の住民が解放され、再び越来村に戻りました。更にその翌年の写真です。

                    関連投稿:コザ市誕生、消滅の年表(メモ)



                    直線的な軍道が目に付きますね。コザ十字路と赤道交差点。高原交差点が海に近いことに驚きます。泡瀬海中道路は初耳で、楽しみが増えました。米軍泡瀬飛行場の北端が少し写っています。


                    1945年4月1日、読谷に上陸した米軍は翌日には泡瀬海岸に到達し、4月3日には伊佐、普天間、荻道、久場を結ぶラインまで南下しています。幸いなことに、コザ周辺で大規模な戦闘は起きなかったということ。米軍は直ちにコザに収容所を設置し、そこに周辺住民を集めました。そして、古謝集落(写真縁取り部分)にも収容所が設置され、併せて米軍の宣撫部隊が駐留しました。

                    (宣撫:占領地域などで、政府の方針を知らせるなどして、人心を安んずること)


                    その時、米軍はキャンプ・コザをビッグコザ、古謝集落をスモールコザと呼び分けていたのです。さて、コザの由来を知るための私の散歩は、ここで結論に至りました。コザの由来は古謝です。

                    コザの由来を、胡屋の聞き違い(あるいは読み違い)とする説と、古謝とする説とがあります。史実を曲げることはできませんが、両論併記のどちらを支持するかは各人の心証によります。またその積み重ねにより、各人の歴史観が形成されます。

                    関連投稿:胡屋を読み間違えてコザになったって本当か?

                    コザの名を世に知らしめたのは、1970年のコザ暴動事件と言えるでしょう。その現場が主として胡屋十字路付近であったことや、後にコザの中心がコザ十字路から胡屋十字路に移ったことなどにより、胡屋説が受け入れられたのではないでしょうか。それは、付会の説に思えます。

                    (続く)

                    沖縄1935(4) 古謝集落の美栄泉(ミーガー)

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                      沖縄1935のこの写真は、現在の沖縄市字古謝にある美栄泉です。



                      右側に立つ人物は、(当時の)古謝集落区長の知念賢榮さん。古謝集落の農業近代化に尽くされた方です。

                      そして、美栄泉の今。





                      ちょと、忘れ去られた感がありますね。まあ、どこの集落でも役目を終えた井戸は、概ねこんな雰囲気です。

                      この日私はたまたま近くを通ったので、とりあえず、美栄泉だけを訪ねてみました。ここを起点に、近々、古謝集落をじっくり歩くつもりです。


                      古謝公民館では、8月23日までの期間、沖縄1935の写真展を開催中です。

                      地元で写真展を開催することには大きな意味があります。例えば、古謝のサトウキビ畑の男の子。



                      この写真を見た女性が「この子は私の父です」と。

                      昨年、88歳でお亡くなりになったとのこと。いやぁ、残念です。もう少しだけ長生きされていれば、写真を見れたのに。


                      写真展の開催により、地元ならではの情報が掘り起こされ、それぞれの写真の付加価値がどんどん上りそうです。


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                      念願の沖縄生活を始めて8年になりました。
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