寄宮国映通りの残照

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    寄宮十字路の開南向けに開設された琉球銀行がこちら。寄宮支店、与儀支店、樋川支店がここに統合されました。

     

     

    その琉球銀行を南に入った所にある寄宮国映館跡。現在は学習塾が使用しています。

     

     

    その前の通りが寄宮国映通り。通りが一直線に延びているのは、ここが旧日本軍の射撃場跡だったからです。

     

     

     

    先日、こんなことを投稿をしたら、すってんてんさんからこんなコメントがありました。

     

    懐かしい!

    国映館が存在時にこの土地で生まれ育った者です。

    私が小学校上がる頃に国映館は閉館になり、その後は名渡山内科小児科と言う病院になりましたね。

    国映館の二つ隣には大城商店があって、そこには貨物運搬用の馬車がありました。

    もちろん本物の馬です。表通りには寄宮琉映館、三原のあけぼの劇場は仲田幸子のホームとも言える芝居小屋でしたが、その後は映画のみの小屋になってましたね。

    まあ、40年以上前の話しですが(笑)

     

     

    戦前、このあたり一面は農地だったはず。そこへ旧日本軍が射撃場を造りました。そして終戦後、米軍が那覇の中心部を占領したため、そこに住んでいた人達が移ってきたのです。

     

    農地には住宅が無秩序に建ち並びました。そして商店、映画館、銭湯などが営業を始めます。

     

     

    寄宮国映館の二つ隣りにあった大城商店や、表通りにあった寄宮琉映館は今は無く、いずれも先ほどの琉球銀行の敷地になっています。

     

    では現在の寄宮国映館通りに当時の建物は残っているのか。と、注意して歩いてみると、それらしい建物がありました。

     

     

    一軒目の建物は寄宮国営館から見て大城屋とは反対側に二つ目でした。

     

     

    どんな業種だったのか、看板の解読を試みました。

     

     

    すみません。まったく歯が立ちませんでした。

     

     

    もう少し南に下った所の建物。立派な面構えです。

     

     

    手前にたばこ。奥の上下はいずれもオロナミンC。

     

     

    こちらも よくわかりませんが、少なくともたばことオロナミンCは売ってました(笑)

     

     

    いずれも建物の劣化が進んでいるので、遠くない将来、取り壊されるでしょう。私が見つけた2軒の商店は賑やかだった街の残照と言えそうです。戦後からすってんてんさんが暮らした時代の寄宮はやがて消えてしまうってことですね。


    懐かしきOKINAWA写真展

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      ここは北中城村中央公民館。

       

       

      先月末から開催中の「懐かしきOKINAWA1945-1955写真展」に来ています。1945年の終戦から10年間に撮られた沖縄の写真。

       

       

      多くの写真展と同様にここも撮影は禁止。その理由を問うたとしても、結局のところ「これまでもそうだったから」としか答えは返ってこないでしょう。話が長くなるのでこの件は省略(^^)

       

       

      拡大されたこちらの4枚だけは「撮ってよろしい」そうなので撮りました(笑)

       

       

      このうち目を引いたのが茅葺屋根の住居でした。

       

       

      北中城村内の中村家住宅は戦前の古民家として有名ですが、あのような住居に住めたのは一部の上層階級だけ。戦前の沖縄の原風景は茅葺屋根と言っても良いでしょう。

       

       

      戦後、多くの茅葺屋根が残っていた集落は、国頭村安波でした。終戦時に100軒ほどの茅葺屋根が残っていて、2000年頃に最後の一軒が建て替えられたとのこと。

       

      次の写真は1953年の安波集落。

       

       

      民謡安波節の一節です。

       

      安波の真はんたや 肝すかれ所

      (安波の崖上は景色が良くて心が清々しくなる)

      宇久の松下や ねなしところ

      (宇久の松の下は横になって休憩ができる)

       

      丘の上で集落を眺めている男性はまさにこんな気持ちだったでしょう。

       

       

      さて、茅葺屋根の写真に戻ります。壁は竹を編んだもので、沖縄ではチニブと呼びます。一層だけでは雨風が侵入するので二層にし、その隙間に屋根に使った茅などを挟んだようです。

       

      チニブをモチーフにした建築物が国立劇場おきなわ。ここの外壁は竹壁や竹垣を表現しています。

       

       

      茅葺屋根の住み心地はどうだったんでしょう。冬の保温、夏の断熱にチニブが有効とは思えませんが、かと言って他に選択肢が無かったかもしれませんね。


      古いオキナワグラフの写真(国際通り)

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        (旧)大宜味村役場に展示されていた古いオキナワグラフの写真。かつては国際大通りと呼ばれていたんでしょうか?

         

         

        駐車中の乗用車のほとんどがアメ車。当時の国際通りの客層が想像できますね。

         

        この写真の年代は不明ですが、山形屋が神里原から国際通りに移転した1955年以降で、右側通行なので1978年以前。

         

        それでは幅が広いので、写真を細かく見ると、山形屋の先に「第一相互銀行」の看板が見えます。

         

         

        沖縄相互銀行と第一相互銀行が合併して沖縄海邦銀行が誕生したのが1964年ですから、この写真が撮られたのは1960年前後になりますね。

         

        第一相互銀行があった場所には沖縄海邦銀行がありました。松尾支店。

         

         

        古い写真をよく見ると窓が5つ並んでいて、今も同じ。少なくとも築58年の建物なんですね。素晴らしいです。

         

         

        古い建物が残っていたことに気をよくしたので、もう少し古い写真を観察しましょう。今度は山形屋より手前。

         

         

        山形屋から順に、たま屋呉服店、食堂、金城時計店、UEDAカメラ、中田屋、みやぎ屋。

         

        この範囲で現存しているのはたまや呉服店の建物だけで、南月という土産物屋になっていました。

         

         

        山形屋は1999年に廃業し、現在は建て替えられてJALシティになっています。

         

         

        最初の写真の左端にむつみ写真館の看板がありますね。山形屋の屋上からむつみ写真館方向を撮った写真をみつけました。

         

         

        走行中のバスの右手がむつみ写真館。最初の写真はその奥の建物の屋上から撮られたようです。今はむつみ写真館の建物も店舗もありません。

         

         

        最後に山形屋の写真を一枚。

         

         

        屋上に飛び込み台のようなテラスがありますね。むつみ写真館の写真はあそこから撮られたのだと思います。

         

        山形屋はやまかたやと発音するようです。


        古いオキナワグラフの写真

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          やんばるアートフェスティバルの会場の一つ(旧)大宜味村役場に復帰前の写真が展示されていました。いずれも当時のオキナワグラフに掲載されたものです。

           

           

          (1)那覇空港ターミナル

           

           

          この写真は記事ではなく建設会社大城組の広告のようです。

           

          那覇空港は沖縄戦終結後に米軍が整備し、1947年にパンアメリカン航空が、51年に日本航空がそれぞれ就航しました。

           

          当時のターミナルはカマボコ兵舎。それを1959年に建て直したのが写真の「NAHA CIVIL AIR TERMINAL」です。CIVILはMIRITARYじゃないって意味ですね。

           

          私は2009年に沖縄に来て約1年はこの建物に職場がありました。その時は平屋になっていたので、おそらく1975年の海洋博の頃に改築されたのだと思います。

           

          そして2014年に新国際ターミナルの建設により、私にとっても思い出深い建物は取り壊されてしまいました。

           

           

          (2)国際通り山形屋

           

           

          鹿児島の百貨店山形屋の呉服部門が那覇市西本町に開店したのは1922年のことでした。そして1930年に沖縄初の百貨店として、当時の那覇の中心地東町に進出しています。

           

          手前左手の建物が山形屋。通りを進んだ先に那覇市役所の塔が見えています。

           

           

          沖縄戦で那覇は焼け野原になり、戦後、那覇の中心は神里原に移りました。

           

          次の写真は、壺屋から開南方向に向かう神里原大通り。右手奥の高い建物が山形屋です。現在、この通りの左手には某青果店があり、山形屋の跡地は中華料理店になっています。

           

          20130104221811_0.jpg

           

          その後、1955年に山形屋は国際通りに移り、1999年まで営業しました。跡地にはJALシティが建っています。

           

           

          (3)コザセンター

           

           

          着物姿の二人の女性の手前に木柱が当時のバス停でセンターと記してあります。ここはセンター通り、現在のパークアベニューのようです。

           

          バヤリースの広告のビル(LION BILLIARD HOUSE)が残ってませんかねぇ(^^)

           

          手前の内間商店はPAWN(質屋)。米兵が時計やカメラを預けて、そのお金で飲んだんですね。

           

          コザに詳しい方が、照屋楽器店の近くではないかと言われるので近々見てきます。


          宇座海岸の石切場跡

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            読谷村の宇座海岸に残っている大正時代の石切場跡です。溝を掘り楔を打ち込む方法で直方体の石を切り出しました。

             

             

            用途はヒンプンや屋敷の塀。言われてみれば、古民家のヒンプンや塀は小さめの石を積んだものと直方体の大きな石を積んだものがありますね。なるほどぉ。

             

            このビーチは板干瀬(イタビシ:ビーチロック)。珊瑚由来の琉球石灰岩ではなく、炭酸カルシウムのセメント効果で砂が固まったものです。

             

             

            この石切場跡は干潮時に現れ満潮時には水没します。

             

             

            干潮時に石を切り、満潮時に軽くなった石を荷車に積んだわけです。アルキメデスの原理ですね。お懐かしい。


            1990年代の民宿「光の家」

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              Twitterで相互フォローさせていただいている蒲田社交組合さんが訪ねた1990年代の那覇。その時の写真の「今」を探して牧志や安里をウロウロしたことがありました。

               

              1990年代の牧志 

              「この写真の今」は終了(^^) 

               

              その時、蒲田社交組合さんが追加したこの写真。そのうち探してみようと思いながら、はや一年(^^)

               

               

              仕事の帰りに寄ってみました。住所は那覇市西1丁目13-12です。

               

              それにしても楽しい建物です。3階から始まる外階段。その奥に客室があるんでしょう。正面に外階段があるのは珍しいと思います。つまり新しい(笑)

               

              その外階段までどうやって上がるのか。よく見るとペプシの看板の下に、左へ上がる階段が見えています。この階段を上がって、さらに奥へ上がった所が3階でしょうか。

               

               

              さて、民宿「光の家」の今がこちら。

               

               

              外階段が螺旋状になりましたね。良く言えば合理的、率直に言えば没個性と言えないか?。ワクワク度は古い建物が上ですね。

               

              光の家も左右の建物も建替えられたようです。右手の建物は改築の可能性があるので細部まで観察しましたが、やはり新築のようです。

               

               

              民宿「光の家」は一泊2,000円で二泊目から1,500円。この料金で建物を新築して、近くに別館まで建てました。薄利多売。多くの宿泊客に支持されている証と言えますね


              山原船「希進丸」

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                平安座島の越来造船で2014年に建造された山原船「希進丸」がうるま市立海の文化資料館に展示されています。

                 

                 

                うるま市が一括交付金(3千万円)を活用して復活させたもの。山原船の建造は戦後初めてのことでした。

                 

                こちらは船の舵。

                 

                 

                越来造船の三代目越来治喜さんは県内唯一の山原船造船技術保持者。希進丸は帆船で航海が可能です。

                 

                 

                2015年に希進丸は国頭村安田(あだ)から平安座島を経由して与那原町まで試験航海を行なっています。

                 

                安田沖を航海中の希進丸。

                 

                 

                与那原港に到着した希進丸は多くの町民の拍手で迎えられました。

                 

                 

                船は浮かんでナンボ。浮かばない船なら建造しないほうがマシだとさえ思います。越来造船の技術が維持されていることの証であり、その技術を伝承するためにも希進丸の建造は意義深いものだったと言えます

                 

                 

                与那原町に到着した希進丸はかつての山原船のように国頭村の炭やうるま市の泡盛などを積んでいたそうです。それらの積み荷は安田集落の代表とうるま市長から与那原町長に手渡され、軽便与那原駅に運ばれました。

                 

                与那原港は物資の中継基地で、かつては軽便鉄道で那覇に運搬されていたわけですね。


                ヤンバルの廃村

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                  先日の鹿児島旅行の際に答えたGOTOのアンケートが当選したらしく、芋焼酎が届きました。次女には芋焼酎10本が送られてきたそうで、そのうち2本を私に回してくれました。これでお正月中のお酒は大丈夫です(^^)

                   

                  その会話を聞いた長女の反応がこちら。アホですね〜(笑)

                   

                   

                   

                   

                  さて、今日は大晦日。部屋の掃除を完璧にやり遂げた私は、図書館で借りた本を読みながら朝から焼酎を呑んでます。

                   

                  既に読み終えた本にヤンバルの廃村について書かれていました。国頭村の山中、バルーンの位置にユッパー(横芭)と呼ばれた集落があったそうです。

                   

                   

                  区割りで言えば東海岸の楚洲。水系で言えば西海岸の辺野喜川。さっそく謝敷出身の散髪屋のオジィに話しまして、「どっ、どうしてそれを知ってるんですかっ!!」と驚かせました(笑)

                   

                   

                  ユッパーに集落が形成されたのは大正から昭和の初期。薪や炭を売って生計を立てていた人達50世帯ほどが住んでいたようです。散髪屋のオジィによると「刈るばかりだから、そのうちに刈る木が無くなったわけよね。植えないと」と(笑)

                   

                  本島中南部からそれぞれの事情で移り住んだ人達の集落でした。辻の遊郭からジュリを連れ出したとか、他所の奥様を奪ったとかですね。ヤンバルの薪や炭に需要があった頃、誰が来ても食っていくことはできたそうです。追っ手が来たとしても名護を過ぎたあたりで道に迷ってしまい、捜し出すことはできませんでした。

                   

                   

                  「ジュリなんか連れて来てどうするんだ?」と笑われたらしいですが、集落で最も生活力があったのがジュリだったそうです。一斗甕を頭に載せて山道をひょいひょい走るし、そこにあるもので料理をすることも得意。アンマーの躾が良かったってことですね。

                   

                  ジュリを身請けするには大金が必要だったそうですが、ジュリが身につけた技術を考えると当然の対価と言えるでしょう。

                   

                  本島各地から人が集まったため、楚洲集落の豊年祭は「全島民俗芸能フェスティバル」みたいになったそうです。観てみたかった(笑)

                   

                   

                  かねてより私は、仕事を辞めたらその翌日に西表島に旅立ち、網取、崎山、鹿川の三村跡を歩きたいと思っています。

                   

                  その前に横芭に行ってみるかと、チラッと思いましたが、そんな場所は蚊だのダニだのヒルだの吸血生物の密集地帯。久しぶりに現れた人間を見つけたらその血を吸い尽くしてしまうでしょう。

                   

                  私は横芭の探検をあきらめまして、西表島についてもジャングルは避け、舟浮で池田卓さんの漁船をチャーターする方向で検討することにしました。


                  木造船の復元

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                    2014年まで南城市のおきなわワールドに展示されていた南都丸。

                     

                     

                     

                    琉球と中国の交易に使われた進貢船を復元したもので帆走できます。100人乗りのサイズで総工費は1億2千万円。

                     

                     

                    進貢船の航海は1372年から1830年まで。琉球は当初、中国から与えられた船を使っていましたが、1557年頃、琉球が自前で造船することを中国が許可しました。

                     

                    中国から造船技術者などが琉球へ渡り、久米に中国人街を形成しました。彼らの指導の下、那覇港にはスラ場(造船所)や唐船小堀(修理のためのドッグ)が建設されたのです。

                     

                    加えて、交易品を保管する御物城。那覇港を防衛する三重グスクと屋良座森グスク。航海の女神を祀った天妃宮が建立されました。造船技術の供与は単なる技術供与にとどまらず、那覇の都市形成に大きく寄与したことになります。

                     

                     

                    話は逸れますが、当時の中国は琉球に技術を供与して共存共栄をはかろうとしていました。それに引き換え、武力にモノを言わせて琉球を侵略した薩摩の品の無さ。まるで大人と子供です。

                     

                     

                    話を戻しまして、こちらはうるま市の海の文化資料館に展示されている山原船(マーラン船)希進丸。建造費の3千万円はうるま市が一括交付金を活用しました。

                     

                     

                    山原船は山原〜奄美、山原〜与那原などの航路で生活物資などを運んでいた船で、1960年頃に姿を消しました。希進丸はそれ以来初めて誕生した山原船で、山原から平安座島を経て与那原までの試験航海に成功したそうです。

                     

                     

                    最後に、与那原の御殿山親水公園に展示されている山原船。グッと小ぶりで建造費500万円。与那原町在住の個人が与那原町に寄贈したものです。もちろん帆走可。

                     

                     

                     

                    以上、サイズが異なる三隻の木造船は、いずれも平安座島の越来造船で生まれた船です。代々船大工の家系で現在は三代目(60代)と四代目(30代)の親子で営まれています。

                     

                     

                    中国から琉球に供与された造船技術が平安座島で引き継がれているということ。素晴らしいです。

                     

                     

                    山原船を与那原町に寄贈された方は、お祖父さんとお父さんが山原船に乗っていて、その姿を見て育ったとのこと。寄贈した船を遊覧船などに使用して、与那原の海を走らせて欲しいと希望されたようですが、現在のところ展示にとどまっています。おそらく、操船できる人がいないんでしょう。

                     

                    色々課題はあるでしょうが、うるま市や与那原町は展示にとどまらず、是非、船を走らせて欲しい。やはり船は海に浮かんでナンボ。造船技術と操船技術が揃って山原船の復元と呼べると思います。


                    うるくにっぽん

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                      JUGEMテーマ:地域/ローカル

                       

                      先日投稿した開南の小さな橋に、うちなーんちゅさんから「おじさんが住んでた辺りだ」とコメントがありました。

                       

                      そのおじさんは(都会の)開南から(田舎の)小禄へ引っ越して「まさか漫湖の向こう側に住むとはねぇ」と言ったと。

                       

                      そこへ横浜のやなわらばぁさんが「うるくにっぽん」と正しく反応しました。本土在住のナイチャーなのによく知ってるわぁ(笑)

                       

                       

                      こちらは沖縄戦を記録した米軍の地図。埋め立てが進み、その意識は無くなりつつありますが、小禄は半島です。

                       

                       

                      それで、半島差別とは言わないまでも、那覇人(なーふぁんちゅ)は小禄人(うるくんちゅ)を少し軽く見る傾向があります。

                       

                      旧那覇市、首里市、真和志市、小禄村が合併して、現在の那覇市になりましたが、小禄だけは「明治橋を渡ったら那覇ではない」などと言われてしまうんです。

                       

                       

                      そして「おろくにっぽん」。その由来については諸説あるそうですが、戦前の親子の会話がよく知られています。

                       

                      息子「ウルクハニッポンヤガヤァ」

                      (小禄は日本だよねぇ)

                       

                      父親「デンチ(電気)ヌチカ(灯)トゥデ、ニッポンヤサ」

                      (電気が灯ってるんだから日本だろ)

                       

                      分かります?。このニュアンス(^^)

                       

                       

                      「おろくにっぽん」と言われても、小禄人はそれほどは意に介していないようです。

                       

                      小禄人は団結力があり、門中意識が強いことで知られています。例えば、小禄の会社が那覇の会社から仕事を受けたとしますね。小禄の会社は下請けを小禄の会社で固めて、お金を那覇に逆流させません。

                       

                      一方、那覇の会社は小禄の会社に発注した時点で、そんな意識はありません。そのため、小禄の会社は業績が良く、小禄人はお金持ちが多い。

                       

                      小禄人は那覇人に「うるくにっぽん」と言われても、そんな所では勝負してないんですよ。


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                      念願の沖縄生活を始めて14年になりました。
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