ハンタ道を歩く(4) 坂田交差点〜南上原糸蒲公園

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    (8)坂田交差点

    坂田交差点に着きました。



    この交差点に「坂田」というヤマト風の名前が付いているにもかかわらず、住所は西原町翁長。西原町には坂田の地名はありません。じゃあ、坂田って誰やねんって話で、幸地の由来を調べるついでに坂田も調べました。

    現在の坂田小学校のあたりが、かつて「ハンタマシ」と呼ばれていたそうです。ハンタは崖っぷちでハンタ道と同じ。そのハンタ道は坂田小学校の横を抜けキリ短方面に続いています。そしてマシは耕地を意味します。崖っぷちの耕地。

    だから、坂田の田はいいとして、なんでハンタが坂なのか。読みにこだわれば坂より板でしょう。ところが板だとイタタになってしまい、ネーミングセンスとしてはイマイチ。そこで坂田にしたと(笑)

    まあ、そんなことで、小学校が坂田を名乗ったところ、郵便局やら琉銀の支店やらが次々と坂田を名乗りはじめ、とうとう交差点まで坂田になってしまいました。ってこと。で、読みはサカタ。

    こんな投稿をした時に限って、坂田交差点周辺の人がこれを読み「おい、いい加減なことを言うなよ」ってなりそうですが、私の説明は大筋で正しく、私の主張は何でわざわざ意味も異なるヤマト風の名前にしたのかってことです。

    あっ、そうそう。大阪で坂田と言えばですね。あっ、いや、なんでも無いです。


    (9)南上原糸蒲公園

    さて、崖っぷちのハンタ道はいよいよ南上原に入りました。東太陽橋まであとわずかです。

    そこで気持ちの良さそうな公園を見つけました。南上原糸蒲(みなみうえばるいとかま)公園。



    眺めを楽しむのなら、設備は手すりとベンチで充分です(他にも何かあったけど)。

    中城村が取り組む歴史の道事業。ハンタ道の整備は東太陽橋から北へ向かっているものと思っていたら、南にも伸びていました。

    公園のベンチから南を向くと、レンガ色のハンタ道が見えていて、この少し先まで整備が終わっています。いやぁ、中城村は本気ですね。村内のハンタ道は完全整備する方針のようです。



    ところで。上の写真のハンタ道より更に崖っぷちに白いボックス状の建物が見えますね。

    イタリア料理の「ハンタバール」。

    ♪───O(≧∇≦)O────♪

    ど真ん中。いい名前じゃないですか。繰り返しますと、ハンタ道より崖っぷち。2階にはテラス席もあるようです。

    海の景色がいいでしょうね。そして、夜がまた良さそうです。太平洋上に満月が登り、こちらに向かう月明かりの道。ここは是非、新良幸人に「月ぬ美しゃ」を唄っていただきたい。首里石嶺のイエローストーンのこともありますから、ワタクシ、是非とも近々お邪魔する所存であります。

    いやぁ、「ハンタバール」と正攻法でネーミングした経営者の心構えが伝わってきますねぇ。


    では、一度も入ったことのないレストランを褒めるのはこのくらいにして、東太陽橋に向かいましょう。

    そこから中城グスクまでは徒歩です。

    あっ、皆さん忘れてたかもしれませんが、私はここまでバイクですよ。バイク。だから時刻はまだ10時です。

    ウォーキングに備えてサンエーなかぐすく店で買い物をしました。



    オニギリ弁当とバナナとコーヒー。スポーツドリンクはまだ充分に残ってますから、これで大丈夫でしょう。

    (続く)


    ハンタ道を歩く(3) 幸地〜オキコ製パン工場

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      泉小を過ぎたところで午前9時。首里城を出て30分しか経ってません。中城にはいずれ到着しますが、この投稿はいつまで続くのか(笑)

      (6)幸地グスク、刻時森

      幸地公民館前に着きました。かつての幸地番所の跡地で、集落の中心にあります。



      番所跡から幸地グスクに向かう石畳道。背の高い南洋杉がグスクの目印です。



      幸地グスクと刻時森(ククジムイ)は過去に投稿していますので、ここでは省略です。

      組踊「矢蔵之比屋」(1) 幸地グスク

      西原町幸地の刻時森(1) 首里城漏刻門

      こちらは幸地按司の井戸。



      幸地グスクに立ち、四方を丘に囲まれた幸地集落を眺めていると、思い当たることがありました。

      大阪に河内という地域がありまして、読みはカワチ。かつて、河内のオッサンが有名になりましたね。例えば河内弁で「貴方」は「われ」もしくは「おどれ」。そこはまさに「でんがな、まんがな」の世界です。

      川が谷を抜けて扇状の平地を形成する時、その土地をカワチ、コウチと呼びます。河内の語源ですね。大阪の河内も、幸地もまさにその地形ですから、幸地はコウチの当て字と思われます。

      中城の崖の上が平地と思ったら大間違い。丘を越えて集落を抜け、また次の丘を登る。その繰り返しです。


      (7)オキコ製パン工場

      ハンタ道の投稿とパン工場が「関係あんのか、おい」と言われそうですが、これは、それとなく道順を示しているわけですね。



      保育園から日本蕎麦の注文があれば、私はここで仕入れます。パン屋が作る日本蕎麦。まあ同じ粉同士で関係ありそうな、なさそうな。

      以前は仏壇通りの照喜名製麺所で日本蕎麦を作ってたんです。ところが、あるウチナーンチュがそれを「デ〜〜ジ不味い」と言い放ち、照喜名オバぁがヘソを曲げて日本蕎麦を作るのをやめてしまいました(らしい)。

      私はそのウワサに否定的です。そもそも、そのウチナーンチュが日本蕎麦を美味いとか不味いとか語れるのかってところからアヤシイ。やはり売り上げが伸びなかったことが日本蕎麦をやめた理由でしょう。

      いずれにせよ、私は日本蕎麦の注文を受けるたびに西原の山中まで仕入れに来るハメになりました。やれやれです。

      (続く)


      ハンタ道を歩く(2) 首里石嶺〜泉小

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        (3)首里石嶺

        弁ヶ岳を過ぎ、首里石嶺に入ると東海岸が見えてきます。



        沖縄自動車道の先に運玉森、さらに先に知念半島。肉眼では久高島も見えています。

        この絶景ポイントは欧風料理「イエローストーン」の駐車場。ところがその眺望最高のレストランは先月末で閉店したとのこと。何故?。

        うっ、そう言えば、私は何度もこの駐車場から景色を眺めながら、ただの一度もイエローストーンで食事をしたことが無いのよね。なんかチクチクするわぁ。いや、申し訳ない。


        (4)谷那堂(タンナドー)

        さて私は沖縄自動車道に架かる谷那堂(タンナドー)橋の上にいます。このすぐ先が那覇ICと空港道の分岐です。



        谷那堂って由緒正しい名前に聞こえますが、西原町の字(あざ)ではありません。調べてみると、かつてこのあたりにあった屋取集落の名前だそうです。


        (5)泉小(イジュングヮー)

        首里城から谷那堂橋までの間は宅地開発で道筋が変わり、古道を歩いている実感がありません。言い換えればこっからが勝負。

        と思ってたら、はいはいはい。車道にするために道幅は広くなっていますが、いい雰囲気です。



        この道は幸地集落に向かう峠道。途中に見晴らしの良い場所があり、かつてはそこに泉が湧いていました。泉小。峠道で一服したくなる場所は、昔も今も同じはずです。

        そんな場所がありました。





        ここを歩く人が喉を潤した泉小はもうありません。その痕跡が無いものかとあたりを見れば、昨夜は雨が降ってないのに、路面が濡れている箇所がありました。



        水際で育ちそうな草が生え、ほんの少しの湧き水がチョロチョロと。この場所に泉小があったかどうかは分かりませんが、水源は同じでしょう。

        景色を眺めながら一服して、スポーツドリンクを飲みました。

        (続く)


        ハンタ道を歩く(1) 首里城〜弁ヶ岳

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          (1)首里城継世門

          梅雨が明けた最初の日曜日。ハンタ道を歩きました。スタート地点は首里城継世門(赤田御門)



          今は朝8時半。これから中城グスクまで護佐丸が歩いた道を辿ります。首里城から東太陽橋まではバイクで行き、そっから先を歩くことにしました。中城グスクには正午頃に着くと思います。

          それはそうと、御内原の工事はどうなっとるのか?。継世門から中を覗いてみました。確か来年公開のはず。



          「すみませ〜ん。まだですかぁ?(笑)」

          公開されたら、この写真の風景を眺めたいわけよね。首里三箇と後方に弁ヶ岳。




          (2)弁ヶ岳

          シーヤープー、シーヤープーの赤田首里殿内跡を通り、



          龍潭通りを右折しました。



          環状2号を渡った先(赤い看板の横)に、弁ヶ岳への参道があるはず。て言うか、そもそも龍潭通りがそこへ繋がっていたのに、環状道路がそれを切断したってこと。



          しばらく走ると、弁ヶ岳が見えてきました。



          弁ヶ岳は山全体が御神体。久高島や斎場御嶽の遥拝所で、琉球国王が自ら定期的に参拝していました。

          では、御神体を抜けさせていただきます。



          中城村でハンタ道の整備が進み、今や中城村の重要な観光資源となりましたが、そもそもハンタ道は、首里城から中城グスクを経て勝連グスクに至る、言わばグスクロードの一部です。

          護佐丸を討った阿麻和利が首里に侵攻し、それを王府軍が弁ヶ岳で迎え撃ったとするストーリーがあり、だとすれば上の写真のあたりで戦ったことになりますね。

          ストーリーの真偽はともかく、その現場として弁ヶ岳が相応しいことは間違い無いでしょう。同様に、百十踏揚を背負った大城賢勇が、嵐の中、この道を疾走するシーンを想像することもできますね。

          (続く)


          沖縄1935「写真でよみがえる戦前」

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            今朝、読者のひよこさんからメッセージが届き、戦前の沖縄の写真が大量に見つかったとのこと。

            調べてみると、ありました。(→こちらから)



            1935年に沖縄を訪れた朝日新聞の記者が、名護市、沖縄市、宜野湾市、那覇市、糸満市、久高島で撮影した221枚の写真が、朝日新聞社の書庫で見つかったそうで、その全てを見ることができます。

            ああ。仕事を放り出して、今すぐお家に帰りたい(笑)

            今夜、一枚一枚、じっくり拝見致します。

            ひよこさん、ありがとう(^O^)/


            2万7千年前のオジぃ、展示中

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              西原町上原の沖縄県立埋蔵文化財センターで、(全身骨格としては)日本最古の人骨を展示中です。



              新石垣空港の建設に伴う洞穴調査で、白保竿根田原洞穴遺跡から20数人分の人骨が見つかったもの。そのうちの4人は頭蓋骨があり、最も骨が揃っている白保4号人骨がこちらです。



              約2万7千年前の人骨で、身長165cmの男性高齢者と推定されています。


              20数人分の人骨がまとめて発見されたことや、このオジぃが手足を強く屈曲させた仰向けの姿勢だったことから、この洞穴は当時の墓所だったと考えられています。埋葬ではなく風葬のため、骨には動物が噛んだ跡が残っているようです。

              そして、冷水刺激を反復することによる外耳道骨腫の症状が見られるそうで、これは海女さんやダイバーに見られるもの。ってことは、このオジぃは海人(ウミンチュ)だったのかもしれません。

              また、上顎の歯の磨耗が激しいことが明らかになりました。充分な道具が無い時代ですから、物を切断したりするために、歯を多用していたのかもしれません。

              いやぁ、色々分かってきましたねぇ。

              既に沖縄で見つかっている山下洞人や港川原人は骨の劣化が激しいため年代測定が難しく、一緒に発掘された木炭などから間接的に年代測定したそうです。一方、白保オジぃの骨は保存状態が良く、年代測定ができたとのこと。いやぁ、素晴らしい。


              沖縄にはヤマトから稲作集団が渡って来たと考えられていますが、沖縄で狩猟生活をしていた白保オジぃの子孫達とはどのように交わったのか、交わらなかったのか。言い換えると、ウチナーンチュはオジぃの直系の子孫なのか、そうではないのか。

              何故、ウチナーグチは古い日本語みたいなのか?

              また、オジぃの祖先は約3万年前に、大陸から海を渡って来たと考えられていますが、黒潮が横切る海をどうやって越えたのか。

              NHK「3万年前の航海」



              ウチナーンチュはいつ、どこから来たのか。そのテーマに一定の答えが出るかもしれませんね。


              それにしても、埋蔵文化財センターが展示品の写真撮影を許していることが素晴らしいです。「なんであかんの?」と思われる場所が多い中、画期的と言えます。



              ついでに言うと、たいして売れてもない民謡歌手のライブで「演奏中の写真撮影やムービーはお断りしてま〜す」とか言っちゃって、くそ生意気な。

              その点、りんけんバンドは心が広いわ。カラハーイのライブ冒頭でボーカルのかーつーが、

              「なお、演奏中の写真撮影や、録音、録画などはですね・・・。どんどんやって下さいねぇ〜、アハハ」

              と必ずアナウンスしてくれます。見習いなさいっちゅうの。


              琉球に来たジョン万次郎(2) 牧志朝忠、ベッテルハイム

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                万次郎が大渡浜(当時は小渡浜)に上陸した1851年2月。



                その頃の琉球は簡単に言ってしまえばテンペストの時代。最後の国王に4歳で即位した尚泰(1843-1901)は8歳でした。

                ナンミンヌガンチョー(波之上の眼鏡)こと宣教師ベッテルハイム(1811-1870)が那覇を徘徊し、2年後にはペリー(1794-1858)が泊に来航しました。

                万次郎は薩摩へ向かうまでの半年間、豊見城市翁長の高安家に軟禁されましたが、何故、首里や那覇ではなかったのか。それは、琉球王府が万次郎とベッテルハイムを会わせたくなかったからと言われています。

                20110903220807_0.jpg

                ベッテルハイムは琉球王府からも那覇市民からも「変わり者」と思われてましたから、二人を会わせてしまうと、何か嫌なことが起きる予感があったんでしょう。


                さて、摩文仁間切の番所で万次郎の取り調べを担当したのは、テンペストで孫寧温(そん ねいおん:真鶴)のモデルとなった牧志朝忠(1818-1862)でした。

                20130501163000_0.jpg

                万次郎はすっかり日本語を忘れていましたし、仮に覚えていたとしてもウチナーグチは通じなかったでしょう。ベッテルハイムから英語を学んだ朝忠が適任だったということですね。

                その時、朝忠は34歳。取り調べをする立場でありながら、万次郎から米国の政治や経済に関する多くのことを学びました。

                後に朝忠はペリーとの交渉役に指名されました。極東の小さな島国に、英語を話せる上に合衆国大統領ジョージ・ワシントンまで知っている若者がいたとペリーは驚き、朝忠を心から信頼したそうです。その功績の一部は万次郎のものと言って良いでしょう。


                琉球を離れた万次郎は薩摩、長崎を経由して故郷土佐に還り、遭難以降11年ぶりに母親との再会を果たしました。その後、万次郎は日本の開国、すなわち日米修好通商条約の締結に貢献し、咸臨丸で勝海舟や福沢諭吉らと共に再び米国を訪れました。

                米国捕鯨船員の役に立ちたいと帰国を決意した万次郎でしたが、その目的を果たしたばかりでなく、それを遥かに上回る成果を上げたことになりますね。


                万次郎が上陸した大渡海岸のリーフです。





                万次郎がここに上陸した日から約100年後。彼が心から愛した日米両国が戦争し、日本軍が摩文仁で玉砕するなんて、夢にも思わなかったことでしょう。

                平成5年。豊見城市と万次郎の故郷土佐清水市は姉妹都市となりました。

                また、平成14年。高安家を訪ねた万次郎の子孫は「万次郎が沖縄で親切にしてもらったことは代々伝わっている。来ることができてとてもうれしい」と語り、高安家の皆さんは「感無量です」と応じたそうです。

                (終わり)


                琉球に来たジョン万次郎(1) 大渡浜、翁長

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                  糸満市の大渡浜です。



                  土佐の漁師、中浜万次郎(1827-1898)は14歳の時黒潮に流され鳥島に漂着しました。143日後、米国の捕鯨船ジョン・ハウランド号に助けられて渡米。英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学び、その後、捕鯨船員となりました。

                  万次郎は、鎖国中の日本に漂着した米国の捕鯨船員が虐待を受けていることを知り、仲間に安心して漁をさせたいと、日本への帰国を決意します。万次郎が大渡浜に上陸したのは1851年2月2日。24歳の時でした。



                  当時の日本は海外渡航者の帰国を禁じており、密入国者は死刑に処せられた時代です。まず琉球に上陸することを選んだ万次郎には、日本帰国までの計算があったようです。


                  薩摩藩の取り調べを受けた後、万次郎は豊見城市翁長の高安家に軟禁されました。集落内の自由は与えられていたようで、翁長の人達と交流し、ウマチーの綱引きにも参加したそうです。

                  翁長集落にある「ジョン万次郎記念碑」。



                  石碑の前は万次郎が綱引きを経験した翁長馬場跡です。




                  ところで。記念碑の場所はネットで簡単に検索できますが、現役の住宅である高安家の住所を調べることは簡単ではありません。だから、翁長集落内のスージをしらみつぶしに歩くしかないのですが、これが楽しくて楽しくて(笑)

                  私には手掛かりがありました。それは万次郎が綱引きに東(アガリ)で参加したというもの。つまり、高安家は翁長集落のナカミチより東にあるということです。

                  そして、突然。



                  いやぁ、嬉しいわぁ(笑)。

                  万次郎がここで暮したのは170年近く前のこと。建物は当時のままではありません。

                  (続く)


                  香港通りはどこなのか?(3) お父さんの証言

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                    香港通りの場所を概ね特定できたつもりですが、まだ確信は持てません。



                    そこで登場いただくのが某青果店のお父さん(86)です。

                    C「お父さんは香港通りを知ってますか?」

                    父「ああ、知ってるはずよ。どのあたりだったかな」

                    C「壺屋の大シーサーの近くです」

                    父「あっ、そうだ。あそこから浮島通りに入って右側の最初のスージだ」

                    C「おっし!!(よぉ言うた)」

                    父「貿易商が集まってた場所でね。私の父親が貿易商をやってたから、私はそれを手伝ってたんだよ」

                    C「糸満の女社長がいたでしょ」

                    父「いたね。幸陽、金城、照屋」

                    C「おっし!!(完璧やん)。で、お父さんはその人達と話をしたことがあるんですか?」

                    父「話をしたことがあるもなにも、取引相手だったからね。あの人達は私と父親の間の年代だったね」

                    C「はぁ、もう最高(笑)」


                    貴重な証言を得られたと言うか、最初っからお父さんに聞けば良かったような気がしなくもないですが、まあそこは、三冊の本を読み、あれこれ考えたプロセス重視で行きましょう。


                    最後に残った疑問が一つ。



                    グダグタβ氏はこの地図を知っているんですよ。香港通りを投稿した翌年、丸国マーケット関連の投稿で、この地図を使ってるんです。その時、何故、糸満“三羽ガラス”の並びに気付かなかったのか。

                    金城や照屋がどこにでもある名前だからとか、丸国マーケットに頭がいってたとか、そんな理由ではないと思います。

                    思い当たるのは、金城商事のホームページに創業場所が那覇市樋川48-25と記載されていること。だから、グダグタβ氏は壺屋に香港通りがあるとは思わず、「おそらく仏壇通り」と考えたのではないでしょうか。

                    現在、那覇市樋川48-25の住所はありません。樋川は1丁目か2丁目なんです。これは図書館に行き、当時の樋川の境界を調べる必要がありますね。


                    だけど、すぐには調べませんよ(笑)

                    考えてもごらんなさい。例えば、今日の夕方、私が図書館に行ったとします。そして、那覇市樋川48-25が地図の場所でなかったら、私はせっかく書いた3本の投稿を公開できませんやん。それはイヤなので、「そのうちに」調べます(笑)

                    このあたりの無責任さが糸満“三羽ガラス”を本に書き、収入を得た人達と私との違いです。


                    長々と、多分に自己満足的な投稿でご退屈様でした。それでは、サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ (^o^)/

                    (終わり)


                    香港通りはどこなのか?(2) 金城カネさん

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                      琉球新報の書評(7)に名前が出た金城カネさん(1911-1985)は、私がいつもお世話になってる金城商事の創業者です。



                      沖縄タイムスが出版した「私の戦後史(第5集)」にカネさんの自伝が掲載されていて、そこに次の一節がありました。

                      戦後の混乱期は、食糧確保が第一でキビ作は後回し。また製糖工場も戦火にやられ、ほとんど皆無だった。この悪条件を克服し、昭和26年に大東糖業(宮城仁四郎社長)が戦後真っ先に操業を開始。その翌年には琉球製糖(金城金保社長)が設立された。

                      この2社の砂糖を独占的に扱ったのが“三羽ガラス”と呼ばれていた糸満の三人の女だった。幸陽商事の金城慶子氏と照屋商店の照屋ウシ氏、そして私である。香港通りで私の店の両脇にこの2つが並び、3店で競い合っていた。



                      さて、この投稿の本題です。

                      昭和27年に金城夏子(慶子)さんは36歳、照屋敏子(ウシ)さんは37歳、金城カネさんは41歳。糸満“三羽ガラス”が創業期に軒を並べた香港通りはどこなのか?。

                      そこで、私が尊敬してやまないブログを紹介します。

                      グダグタβ
                      (http://gdgdwktk.blog.shinobi.jp)

                      戦前、戦後の那覇に関しては、比較する相手が見つからないブログで、グダグタβ氏により、あらゆる資料が調べ尽くされています。私は全ての投稿を読み終えていまして、その時代の那覇に関する私の知識の基本はこのブログにあると言えます。(残念ながら現在は更新停止中)

                      そこに、香港通りに関する投稿がありました。



                      グダグタβ氏は、「私の戦後史」を引用しつつ、香港通りの場所を特定しようと試み「おそらく仏壇通りのことではないかと思う」と述べています。

                      この投稿を読んだ時の私は、香港通りがどこなのか興味が湧きましたが、グダグタβ氏に分からないものが、私に分かるはずがないと考えていました。


                      ところがですね。地図があったのですよ。



                      地図の右端。上から4軒目に金城商事とあります。そして、その2軒上に金城夏子さんの幸陽商事が、2軒下に照屋敏子さんの照屋商事があります。この筋道が香港通りで間違いないでしょう。

                      その場所は超簡単。まず、浮島通りの壺屋側入口に立ちます。



                      次の筋道を右折すると、そこが香港通り。



                      地図にある「みつや呉服店」は「みつや繊維」に名前を変えて現存していました。地図では旭通りとなっていますが、香港、台湾などを相手にする貿易商が集まったことから、通称「香港通り」と呼ばれたようです。

                      次の写真は「私の戦後史」に掲載されていた創業期の金城商事(商店)です。



                      建物の配置が同時とは異なるので正確とは言えませんが、ほぼ同じアングルの写真が撮れたはずです。



                      (続く)


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