デズモンド・トーマス・ドス氏の記念碑

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    ここは、北中城村のセブンスディ・アドベンティスト教会。敷地内には、映画「ハクソー・リッジ」のモデルになった、デズモンド・トーマス・ドス氏の記念碑が建てられています。

     

     

    セブンスディ・アドベンティストであるデズモンド・トーマス・ドス看護兵は、小隊が撤退した後もハクソー・リッジに残り、75名の兵士を救出したと。

     

     

    アドベンティスト教会はキリスト教の一教派。ドス氏が肉の缶詰を同僚に渡したことや(菜食主義)、決して武器を手にしなかったのは、この教派の教えに忠実だったからのようです。

     

     

    沖縄本島の各地に置かれているアドベンティスト教会や、教派の教えを取り入れたアドベンティスト・メディカルセンター(西原町)の存在は、ドス氏の功績と無関係ではないでしょう。教徒にとって彼は英雄で、この記念碑は映画の公開よりずっと前に建てられたようです。

     

    ハクソー・リッジ再訪(1) 

    ハクソー・リッジ再訪(2) 

     

     

    教会からの帰り道。北中城村「しおさい公苑」のヒマワリ畑に寄りました。

     

     

     

    先月がコスモス畑で、今月はヒマワリ畑。そして今、本島南部で桜が満開って貴方。秋であり、夏であり、春であると(^^)

     

    もう、なんか、ヌーガヌーヤラ(笑)


    不発弾を現地で爆破するんやで

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      昨日投稿した、信管が取り外せない不発弾。現地でどのように爆破するのか?。何かでディフェンスしないことには、下の写真の円内が大変です。

       

       

      この円内の3ヶ所にウチのお客様がいて、いずれも現地の至近距離。ここは私が様子を見ておかないと。

       

       

      土嚢が円形に積み上げられていて、真ん中の穴の底に不発弾。遠隔操作で爆発させて、そのエネルギーは空に向かうと。仕掛けは一目瞭然でした。

       

      しかし、こんなことで大丈夫なのか?。せめて土嚢を5、6段は積み上げていただきたい。事故防止のため、処理の当日積むのかもしれません。

       

       

      沖縄では、畑や空き地を宅地造成する際に、念入りに地中を探知します。万一、不発弾を見落としたりしたら、その真上で何十年も暮らすことになりますからね。だから、不発弾が見つかるのは概ねこんな場所です。

       

       

      さて、現地視察を終えたので、配達を始めましょう。

       

      至近距離保育園の一軒目

       

      C「不発弾見て来たで」

       

      調「えっ?。不発弾が見つかったんですか?」

       

      C「はぁ、そっからね?。特殊な爆弾で、明日現地で爆破するって」

       

      調「ふ〜ん。どこですか?」

       

      C「すぐそこの整形外科の裏。月曜日に来たら園が無いかもな」

       

      調「ウフフ。その時は園の名前を"あおぞら保育園"にしま〜す(笑)」

       

      C「(^^)」

       

       

      二軒目

       

      C「あっちはそんなこと言うんやで」

       

      調「言いそう、言いそう(笑)」

       

      C「太っ腹にもホドがあるやろ」

       

      調「ウフフ。いいはず〜(笑)」

       

      C「(^^)」

       

       

      小禄で起きた爆発事故から44年。この人達は生まれてもいないのよね。だから不発弾処理なんて、気にも留めない日常なんでしょう。

       

      ところで、最初の写真に戻って、円内に住む住民の皆さんは、ちゃんと避難するんでしょうね。避難場所は公民館だけど、行ってみたら誰もいないかったりして(^^)

       

      何で、私だけが気を揉まなあかんのかってことですわ。ホンマ。


      信管が取り外せない不発弾

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        沖縄では見慣れた看板ですが、今回はタチが悪そうです。

         

         

        発見されたのは日本軍が撃った直径20cmの砲弾で、信管が取り外せない特殊な構造とのこと。現地で爆破処理するそうで、那覇市内では3例目だそうです。

         

        一升瓶の底の直径が10cmですから、直径が2倍なら面積は4倍。高さが同じとすれば、砲弾は一升瓶4本分の太さになります。「えっ?」と思った人は文系ですね(笑)

         

         

        上の地図と概ね同じ範囲の航空写真です。ご覧の通りの住宅密集地。こんなモノの上で73年も暮らしてたんですねぇ。

         

         

        自衛隊の皆さん。危険な仕事をお願いして恐縮ですが、どうかよろしくお願い致します。

         

         

        沖縄本島の地中には、まだ2千発以上の不発弾が眠ってるそうで、迷惑極まりありません。この次の日曜日にもすぐ近くで不発弾処理があり、処理中、モノレールは運行を停止します。

         

        でもまあ、不発弾だったからこそ、救われた命があったと思うことにしましょう。

         

         

        過去の投稿はこちらから。

         

        沖縄の不発弾 

        寄宮国映通りは何故真っ直ぐなのか? 

        沖縄から不発弾が無くなるのはいつ? 

        不発弾の恐怖


        ハクソー・リッジ再訪(2)

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          それでは、米軍が縄梯子をかけた崖地へご案内します。

           

          まず、浦添警察署横にある浦添大公園南口駐車場に車を停めます。駐車場脇の坂道を登ると復元された石畳があります。

           

           

          そこを抜けると、浦添大公園(浦添グスク)の芝生広場に出ます。

           

           

          この広場の北側は北谷、読谷方面の視界が開けていて、映画の公開後、ハクソー・リッジの案内板が設置されました。

           

           

          この案内板のあたりから、崖下を覗き込み、

           

          「米軍はこの崖を縄梯子で登ったんだ。すご〜い!!」

           

          などと言わないことです。案内板は浦添大公園で最も高く、眺めの良い所に設置されたってことで、そこの崖を米軍が登ったわけではありません。わざわざ崖の高い所を選んで縄梯子をかけるはずがありませんからね。

           

           

          芝生広場から崖に沿って東に少し歩くと、崖下に降りる細い急坂があります。以前はそこを直進すればハナリジーに出ましたが、今、その小道は封鎖され、雑草に覆われていました。

           

          崖を降りた所には、前田高地平和之碑があり、

           

           

          その東側が、米軍が縄梯子を取り付けた崖地です。

           

           

          樹木を視界から消し、削られてしまった岩(弓ノコの歯)を崖上に積み重ねれば、映画のシーンがイメージできるか。と言えば、ちょっと無理。

           

           

          戦争中に、米軍が撮影した一枚の写真があります。腰に手をあてて崖の途中に立つ人物はデズモンド・トーマス・ドス氏(1916-2006)、ご本人だそうです。

           

           

          この写真の崖ならば、今、私の目の前にある崖から容易にイメージできます。映画に現れる崖とのギャップが脚色ということになりますね。

           

           

          衛生兵デズモンド・トーマス・ドスは、敵兵を一人も殺すことなく、命がけで多くの米兵を救いました。その活躍は、米国軍人最高位名誉勲章の受章に値するものでした。デズモンドさんは映画の公開前に亡くなりましたが、この映画には満足されているのではないかと思います。

           

           

          映画「ハクソー・リッジ」は優れた作品で、まだ観てない方には、是非、お勧めしたい。お勧めはしたいが「この映画を観たからと言って、沖縄戦(前田高地の戦闘)を語ってくれるなよ」とも言いたい。


          映画を観ても事実を知ったことにはなりません。事実と脚色の区別がつかないまま、何事かを語ることは控えるべきだということが、この投稿の趣旨でした。自戒を込めまして。


          ハクソー・リッジ再訪(1)

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            2016年に公開された映画「ハクソー・リッジ」。タイトルを和訳すれば「弓ノコのように細長く隆起した地形」。浦添グスクの東側に位置する前田高地を米軍はハクソー・リッジと呼びました。

             

             

             

            私は2015年に前田高地を歩き、その東端にあるハナリジー(為朝岩)を訪ねました。

             

            浦添城跡のハナリジー(1)

            浦添城跡のハナリジー(2)

             

            浦添グスクからハナリジーに繋がる小道は、前田高地の尾根の頂点にあります。

             

             

            小道の左が尾根の北側斜面で、右が南側斜面。ここが立入禁止なのは両側の斜面に転落する危険があるからでしょう。前田高地の戦闘で、米軍がこの尾根に登ってきたことは知ってましたが、ハクソー・リッジと呼んだことは、映画の公開まで知りませんでした。

             

            「で、立入禁止を入ったのか?」と問われれば、その通りでございます(笑)。

             

             

            映画の予告編でハクソー・リッジを「ノコギリ崖」と訳していますが、正確には「ノコギリ尾根」と訳すべきでしょう。崖の上、つまり尾根の岩がノコギリ状だったということ。

             

            映画の1シーンで、崖に取り付けた縄梯子を登る米兵達。

             

             

            戦後、道路工事などに使うため、ノコギリ状の岩は削り取られ、今の尾根は多少のアップダウンはあるものの、ノコギリと呼ぶほどではありません。

             

             

            映画「ハクソー・リッジ」では、縄梯子を登った場所で、日米の激戦が繰り広げられました。

             

             

            これは明らかに脚色でしょう。尾根の上には斜面(崖)への転落が心配になるほどの小道があるだけで、大勢が向かい合ってドンパチやるようなスペースは無いんです。

             

            そして、そもそも日本軍が米軍と向かい合ってドンパチやったのかという疑問も湧きます。兵力や物資で圧倒的に優位な米軍に対して、日本軍に勝機があるとすれば奇襲しかありませんでした。

             

            日本軍は米軍の側面か、あるいは背後からしか攻撃できないので、米軍が所定の場所に来るまで、静かにジッとしていて、夜を待ったはずです。

             

            映画に、数人の日本兵が白旗を揚げて壕から出て来るシーンがありました。日本兵を取り囲む米兵達。そこで日本兵は手榴弾を取り出し、米兵に投げつけるんですよ。やりかねんなぁと笑ってしまいましたが、それを卑怯と言われても、仕方がないんですよ。

             

             

            私は映画「ハクソー・リッジ」にケチをつけるつもりは毛頭なく、主人公の衛生兵デズモンド・トーマス・ドスが実在する人物で、この映画が実話に基づいていることも知っています。私は、現場を訪ねてみれば、事実と脚色の見分けがつくと言いたいのです。

             

            この映画をご覧になった方。日本軍の攻勢にあって、米軍が縄梯子を降りて退却するシーンがありましたね。あの時、日本兵は何故、縄梯子を切り落とさないのかと疑問に思いませんでした?

             

            これは私の解釈ですが、日本軍はハクソー・リッジで戦いたかったのですよ。戦車が上がって来れない場所に、米兵が順序良く縄梯子を登ってくるんです。そして、武器は人が持てるだけ。更に、崖の上には、両軍が正面から向かい合うような、広いスペースも無い。

             

            縄梯子は日本軍にとって、好都合だったのではないかと思います。読谷の海岸に米軍が上陸した際、日本軍が水際で攻撃しなかったことと似てるかもしれません。


            (続く)


            空中写真にみる沖縄のかたち

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              久しぶりの沖縄県立公文書館です。

               

               

              展示棟で写真展「空中写真にみる沖縄のかたち」を開催中。沖縄戦前後に米軍が撮影し、後に公文書館が収集した空中写真が展示されています。

               

               

              これまで公文書館には何度か来てますが、用事が終わればさっさと帰るので、施設内をよく知りません。私だけかもしれませんが、ここは何やら人を寄せ付けない雰囲気があるのよね。

               

               

              こちらが展示棟。

               

               

              その奥には庭がありまして、

               

               

              沖縄の井戸を模した造形物がありました。知らんかったわぁ。

               

               

              公文書館は沖縄戦等の資料を散在させず、一ヶ所にまとめて保管するための施設です。私はその意義には大いに賛同するものの、施設としてはちょっとオーバースペックではないかと。

               

              竣工年で並べてみれば、県庁(1990)、公文書館(1995)、平和の礎(1995)、知事公舎(1997)。もちろんそれぞれ必要な施設ではあるけど、簡単に言ってしまえば「立派過ぎないか」と。

               

              この頃の沖縄で、大きな施設と言っても三越とか那覇タワーとか。それが「沖縄にもこんな施設ができていいんやぁ」と、以降、県民の意識が変わった気がします。

               

              もっとも、バブルな時期でしたから、「日本中がそうだろ」と言われればその通りでございます。
               

               

              「文句があんのなら入んな」と言われては困るので、そろそろ展示室に入りましょう。

               

              特に目に付いた二枚の写真を紹介します。

               

              一枚目はこちら。

               

               

              まず目に入るのは奥武山と南北明治橋。右手の炎や煙は気がつかないフリをして、東町あたりを拡大しましょう。戦前の那覇の中心街です。

               

               

              久茂地川の河口から2本目が旭橋。すぐ手前に軽便鉄道の鉄橋が見えます。旭橋を東町に渡った道路と線路は街を斜めに横切って通堂に繋がっています。その斜めの通りの手前一帯が那覇市場。

               

              その更に手前。やはり斜めに横切る大通りが大門通り。右手から山形屋、那覇市役所、那覇郵便局などが並んでいます。

               

              この付近の詳細が過去の投稿にありますので参照下さい。

               

              戦前の那覇が模型で復元されるそうです(1)

               

               

              先ほど気付かないふりをした炎と煙に戻ります。この写真には撮影日がありませんが、明らかに昭和19年10月10日の朝です。

               

              この日、午前4回、午後1回に分けて、述べ1,400機の米軍機が沖縄を襲いました。(10・10空襲)

               

              最初の攻撃目標は各地の飛行場と港湾でした。上の写真では、西本町や西新町に煙が上がっているように見えますが、攻撃目標は那覇港と停泊中の船舶。つまり、那覇空襲が始まった瞬間を捉えた写真です。

               

              写真で見る那覇の街は一見平穏に見えますが、この時、意表をつかれた那覇市民は慌てふためき、蜂の巣をつついたような状況にあったと思います。そして、この日のうちに那覇全域が焦土と化しました。

               

               

              そして二枚目の写真。

               

              この写真は翌年7月に撮影されたようです。那覇の街は露出した地面が一面に広がるばかりで、何もありません。

               

               

              広島県人の私がこの写真に既視感があるのは、原爆投下後の広島の写真を何度も見ているからでしょう。

               

              この二枚の写真が並んでるんですから、気分は最悪でした。絶句して言葉も無いので、突然ですが、この投稿は終わりです。

               

              写真展は9月2日まで。イチャンダ。


              白梅の井泉(再訪)

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                慶座絶壁(ギーザバンタ)を再訪したのは、崖下に下りる(遊歩道以外の)ルートを探すことが目的でした。それがうまく見つかった帰り道、私にはあと2ヶ所に立ち寄る予定がありました。

                 

                 

                一つ目は白梅の井泉

                 

                2、3年前、富盛の公民館で井泉の場所を教えてもらった際、たまたま居合わせた富盛の区長から、近々、八重瀬町に井戸を整備する予算を申請すると聞いていたのです。

                 

                その時の井泉の様子です。

                 



                「山井泉」の立て札はあるものの、井泉は草に埋もれていて、地面の凹凸でかろうじて場所が分かる状態でした。

                 

                 

                あの井泉はどうなったのか。区長は予算を獲得できたのか。

                 

                富盛バス停から八重瀬岳方向(西)に向かい、県道15号線が右にカーブする左手に小径があります。井泉はさとうきび畑の奥です。その更に奥に八重瀬岳。

                 

                 

                 

                おおっ!!

                 

                井泉が姿を現し、井戸の床には小さな香炉が置かれていました。

                 

                 

                八重瀬岳第一野戦病院壕で白梅学徒達は過酷な毎日を過ごしていました。井泉での水汲みも大変だったと思います。

                 

                そんな中、井泉で包帯や衣類を洗っている時だけは、青空の下、皆んなで歌を歌うことができました。彼女達が唯一、楽しい気持ちになれた時間だったようです。

                 

                 

                それにしても区長はよくやりました。

                 

                井泉の壁を補強したり、簡単な案内板を設置できればなお良かったと思いましたが、八重瀬町が除草費用しか出してくれなかったのかな。ケチだな(笑)


                白梅学徒隊に捧げる「鎮魂の三線」

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                  昨年12月20日の琉球新報にこんな記事が載りました。


                   

                  茨城県鹿島市で戦争を語り継ぐ「鹿嶋物語を語る会」。そこに所属する鳥羽さん親子が白梅の塔を訪れ、三線の伴奏で県立第二高等女学校校歌を歌い、学徒達を鎮魂したもの。


                   

                  そして、年が明けた今月5日。このブログの白梅学徒隊に関する投稿に「行動する葦さん」からコメントをいただきました。

                   

                  はじめてコメント致します。
                   このブログ、白梅の塔へ訪れる人の役に…立ってますよ!スゴく。
                   …
                   私、先月の18日に白梅の塔へ行き、第二高等女学校の校歌を三線で演奏して参りました。
                   それに先立ち、白梅同窓会にコンタクトを取り現地で演奏する許諾を頂き、当日、中山会長以下役員の方々と白梅の塔で合流。
                   私「ちょっと弾いてくる」位の気持ちでいたのですが、ちょっとした慰霊祭になっちゃいました。

                   

                   

                  新聞記事と月日が一致しているため、「行動する葦さん」は、写真の三線奏者鳥羽広樹さんに間違いありませんでした。そして、私の返信。


                  行動する葦さん

                   先月18日、白梅の塔まで同行した雑誌「モモト」の編集者は私と同郷で、私が通った小学校の(ず〜っと)後輩なんです。

                   彼女がFacebookに投稿した写真と新聞記事をたまたま読み、行動する葦さんとお母様の取り組みや、来沖された経緯などを知りました。まさか私のブログにご本人からコメントをいただけるとは思いもよらず、恐縮しています。

                   素晴らしい取り組みをされていながら、それを「ちょっと弾いてくる」なんて素敵ですねぇ。この度は、コメントありがとうございましたm(_ _)m

                   

                   

                  そっ、そうか。

                   

                  このブログが役に立ってるんやぁ(ジ〜ン)

                   

                  褒められたので、白梅学徒隊の投稿をまとめました。

                   

                  白梅学徒隊の4ヶ月(1) 第二高等女学校
                  白梅学徒隊の4ヶ月(2) 国場駅
                  白梅学徒隊の4ヶ月(3) 東風平国民学校
                  白梅学徒隊の4ヶ月(4) 八重瀬岳第一野戦病院壕
                  白梅学徒隊の4ヶ月(5) 白梅学徒隊の解散
                  白梅学徒隊の4ヶ月(6) 国吉ウテル原の壕
                  白梅学徒隊の4ヶ月(7) 天皇の沖縄訪問
                  白梅の井泉
                  白梅学徒隊の足跡めぐり「ヌヌマチガマ」 

                   

                  白梅学徒隊の4ヶ月(1)〜(7)は学徒隊の足跡を順に追ったもの。その後、八重瀬岳第一野戦病院壕近くの井戸と野戦病院の分院があったヌヌマチガマを訪ねました。

                   

                  こうした経験をすると、風景の中に白梅の少女達が見えてきます。泥だらけで壕の中を走り回る姿、たった一枚しかないモンペを井戸で洗濯する姿、海岸の岩礁の陰にうずくまり砲弾に怯える姿。

                   

                  日常的な風景に沖縄の歴史を重ね合わせたものを、当ブログでは「沖縄の風景」と呼んでいます。鳥羽広樹さんが「役に立つ」と言って下さったのは、そうした「沖縄の風景」を探して歩く私の行為に共感していただいたからでしょう。

                   

                   

                  過去の投稿から抜粋した写真を数枚掲載します。それぞれが「沖縄の風景」。

                   

                  (1)県立第二高等女学校跡地(那覇市松山)

                   

                   

                  (2)八重瀬岳第一野戦病院壕跡(八重瀬町富盛)

                   

                  (3)白梅学徒達(場所不明)

                   

                  (4)白梅の塔(糸満市真栄里)

                   

                  (5)白梅学徒隊生存者とお会いになった天皇、皇后両陛下(糸満市摩文仁)

                   

                  (6)白梅の井泉(八重瀬町富盛)

                   

                  (7)ヌヌマチガマ(八重瀬町新城)

                   

                   


                  ざわわ、ざわわ、ざわわ

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                    JUGEMテーマ:地域/ローカル


                    読谷のさとうきび畑に来ました。



                    この近くに故寺島尚彦さんの名曲「さとうきび畑」の歌碑があります。



                    民間の歌碑建立委員会が寄付を募りチャリティを開催して建立にこぎ着けた歌碑で、完成後に読谷村に寄贈されています。用地は歌碑建立に賛同した地主から提供を受けました。



                    歌碑は「鉄の雨」をイメージした耐候性の鋼が用いられ、その表面に歌詞が刻まれています。



                    ざわわ ざわわ ざわわ
                    広いさとうきび畑は
                    ざわわ ざわわ ざわわ
                    風が通りぬけるだけ
                    あの日鉄の雨にうたれ
                    父は死んでいった
                    夏の陽ざしの中で


                    歌碑からは一面のさとうきび畑と、その先に読谷の海が望めます。写真中央やや右にアリビラ。




                    沖縄を訪れた寺島さんは摩文仁で曲想が浮かんだものの、さとうきびが揺れる音を表す言葉が思い付かず、それを「ざわわ」に決めるまで約ニ年を要したそうです。

                    「さとうきび畑」では「ざわわ」が66回(6回×11番)繰り返されていて、歌碑にはその言葉への敬意を示す66本のポールが立てられています。




                    米軍は残波岬付近から、嘉手納、北谷までの広い範囲で沖縄に上陸しました。その中で弾薬や燃料などの物資が大量に運びこまれたのが、比謝川河口の渡具知海岸でした。



                    むかし海の向こうから
                    いくさがやってきた
                    夏の陽ざしの中で


                    今、その場所はビーチや公園が整備されていて、家族連れなどで賑わっています。



                    ざわわ ざわわ ざわわ
                    風に涙は乾いても
                    ざわわ ざわわ ざわわ
                    この悲しみは消えない


                    「さとうきび畑」は森山良子さんをはじめ、多くの歌手が持ち歌にしていますが、ここでは上条恒彦さんの歌をリンクしてみました。(→こちらから)


                    戦後写真展in中城「笑顔が戻った日」

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                      JUGEMテーマ:地域/ローカル


                      中城村の護佐丸歴史資料図書館です。今年5月にオープンしました。



                      中城村と言えば、護佐丸と中城城跡。村の歴史資料を散在させないためにも、こうした施設は大切です。

                      その歴史資料図書館のホールで、戦後写真展が開催されていることを、読者のへそまがりさんから聞き、昨日、観てきました。

                      写真展のタイトルは「戦後写真展in中城『笑顔が戻った日』」




                      私は戦後12年が経った1957年に生まれました。その前年の経済白書に「もはや戦後ではない」と記載されたように、私の記憶に戦争の痕跡はありません。

                      昨日展示されていた約500枚の写真は、終戦から私が生まれた頃までの期間に撮影されたものでした。


                      活気を取り戻した市場、車が行き交う幹線道路、晴れ着を着た女性、中城城跡にあった遊園地など、戦後の復興を感じさせる写真が多かったものの、やはり沖縄戦のダメージが強く感じられ、「笑顔が戻った」のは明るい将来に向けられたものと言うより、戦争が終わったことによるものではなかったかと思います。安定ではなく安心。


                      写真展の開催期間は約2週間でしたが、のべ4千人もの来場者があったそうです。昨日も駐車場に空きがありませんでした。

                      終戦直後の家庭にカメラが普及しているはずはなく、ほとんどの県民はこの時期の写真を持っていないか、持っていたとしてもごく僅かでしょう。来場者は記憶の中にしかなかった当時の様子を、一枚一枚の写真から見出しているようでした。

                      会場には付箋紙が用意されていて、来場者が写真の説明をそこに記入し、写真に貼り付けることができます。多くの写真に「この写真の二人は私の祖父と父です」とか、「右端に写っているのは私です」などと書かれた付箋紙が貼られていました。


                      素晴らしく見ごたえがあった写真展に注文をつけるとすれば、写真撮影が禁止になっているということ。おそらく、写真の撮影者に了解がとれない(連絡もとれない)ことが理由だと思いますが、写真撮影を許可して、その写真がネットに公開されれば、付箋紙に書かれたような情報が多数得られるでしょう。

                      そこは、主催者がリスクを被って、写真撮影を許可したほうが良かったのではないかと思いました。この時代を生きた人達は既に高齢者。やがて付箋紙を貼れる人がいなくなりますよね。


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                      念願の沖縄生活を始めて8年になりました。
                      沖縄の生活、文化、風土、音楽、政治などの話題を投稿しています。
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