ざわわ、ざわわ、ざわわ

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    読谷のさとうきび畑に来ました。



    この近くに故寺島尚彦さんの名曲「さとうきび畑」の歌碑があります。



    民間の歌碑建立委員会が寄付を募りチャリティを開催して建立にこぎ着けた歌碑で、完成後に読谷村に寄贈されています。用地は歌碑建立に賛同した地主から提供を受けました。



    歌碑は「鉄の雨」をイメージした耐候性の鋼が用いられ、その表面に歌詞が刻まれています。



    ざわわ ざわわ ざわわ
    広いさとうきび畑は
    ざわわ ざわわ ざわわ
    風が通りぬけるだけ
    あの日鉄の雨にうたれ
    父は死んでいった
    夏の陽ざしの中で


    歌碑からは一面のさとうきび畑と、その先に読谷の海が望めます。写真中央やや右にアリビラ。




    沖縄を訪れた寺島さんは摩文仁で曲想が浮かんだものの、さとうきびが揺れる音を表す言葉が思い付かず、それを「ざわわ」に決めるまで約ニ年を要したそうです。

    「さとうきび畑」では「ざわわ」が66回(6回×11番)繰り返されていて、歌碑にはその言葉への敬意を示す66本のポールが立てられています。




    米軍は残波岬付近から、嘉手納、北谷までの広い範囲で沖縄に上陸しました。その中で弾薬や燃料などの物資が大量に運びこまれたのが、比謝川河口の渡具知海岸でした。



    むかし海の向こうから
    いくさがやってきた
    夏の陽ざしの中で


    今、その場所はビーチや公園が整備されていて、家族連れなどで賑わっています。



    ざわわ ざわわ ざわわ
    風に涙は乾いても
    ざわわ ざわわ ざわわ
    この悲しみは消えない


    「さとうきび畑」は森山良子さんをはじめ、多くの歌手が持ち歌にしていますが、ここでは上条恒彦さんの歌をリンクしてみました。(→こちらから)


    戦後写真展in中城「笑顔が戻った日」

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      中城村の護佐丸歴史資料図書館です。今年5月にオープンしました。



      中城村と言えば、護佐丸と中城城跡。村の歴史資料を散在させないためにも、こうした施設は大切です。

      その歴史資料図書館のホールで、戦後写真展が開催されていることを、読者のへそまがりさんから聞き、昨日、観てきました。

      写真展のタイトルは「戦後写真展in中城『笑顔が戻った日』」




      私は戦後12年が経った1957年に生まれました。その前年の経済白書に「もはや戦後ではない」と記載されたように、私の記憶に戦争の痕跡はありません。

      昨日展示されていた約500枚の写真は、終戦から私が生まれた頃までの期間に撮影されたものでした。


      活気を取り戻した市場、車が行き交う幹線道路、晴れ着を着た女性、中城城跡にあった遊園地など、戦後の復興を感じさせる写真が多かったものの、やはり沖縄戦のダメージが強く感じられ、「笑顔が戻った」のは明るい将来に向けられたものと言うより、戦争が終わったことによるものではなかったかと思います。安定ではなく安心。


      写真展の開催期間は約2週間でしたが、のべ4千人もの来場者があったそうです。昨日も駐車場に空きがありませんでした。

      終戦直後の家庭にカメラが普及しているはずはなく、ほとんどの県民はこの時期の写真を持っていないか、持っていたとしてもごく僅かでしょう。来場者は記憶の中にしかなかった当時の様子を、一枚一枚の写真から見出しているようでした。

      会場には付箋紙が用意されていて、来場者が写真の説明をそこに記入し、写真に貼り付けることができます。多くの写真に「この写真の二人は私の祖父と父です」とか、「右端に写っているのは私です」などと書かれた付箋紙が貼られていました。


      素晴らしく見ごたえがあった写真展に注文をつけるとすれば、写真撮影が禁止になっているということ。おそらく、写真の撮影者に了解がとれない(連絡もとれない)ことが理由だと思いますが、写真撮影を許可して、その写真がネットに公開されれば、付箋紙に書かれたような情報が多数得られるでしょう。

      そこは、主催者がリスクを被って、写真撮影を許可したほうが良かったのではないかと思いました。この時代を生きた人達は既に高齢者。やがて付箋紙を貼れる人がいなくなりますよね。


      小桜の塔と海鳴りの像(2) 海鳴りの像

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        旭ヶ丘公園にあるもう一つの慰霊碑が海鳴りの像。こちらは、対馬丸以外の戦時遭難船の犠牲者が祀ってあります。



        対馬丸ほど知られてはいませんが、沖縄県民を乗せた多くの輸送船が攻撃を受け、海底に沈みました。その数25隻(対馬丸を除く)。


        同じ戦時遭難船でありながら、対馬丸とそれ以外を区別することになってしまいましたが、それだけ対馬丸のインパクトが大きかったということでしょう。

        それにしても、対馬丸は船体もしくは遺骨の回収が検討されたり、対馬丸記念館が建設されたりで、海鳴りの像の遺族の気持ちとしては割り切れないものがあるでしょうね。

        天皇、皇后両陛下が対馬丸記念館と小桜の塔を訪問された際、海鳴りの像にも立ち寄って欲しいと声が上がったようですが、残念ながらそれは実現しませんでした。

        像の場所は対馬丸記念館のすぐ近くですから、記念館や小桜の塔を訪ねる際は、併せて立ち寄るよう心がけたいものです。


        さて、海鳴りの像の作者は宮良瑛子さん。首里在住の画家です。



        ナイチャー嫁の宮良さんは復帰前の沖縄に初めて来て、市場で働くアンマー達の躍動感に魅了されたそうです。以降、宮良さんの作品のキーワードは、沖縄、平和、アンマー。海鳴りの像を製作したのは1987年のことでした。



        次の写真は、海鳴りの像に似た構図の代表作「哭」。想像を絶する体験をした沖縄が、力強く歩き出していることへの感動が創作意欲をかき立てました。




        宮良さんは81歳の今も現役です。首里久場川町で創作活動の傍ら、絵画教室を開かれているそうです。

        この方が先生なら、是非、ウチの娘達を教室に通わせたいものですが、娘達はとっくに成人し、さすがにそれは遅かったか(笑)。

         


        小桜の塔と海鳴りの像(1) 小桜の塔

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          若狭の旭ヶ丘公園に来ています。



          若狭海岸の岩山の一部に波上宮があり、残りの部分が公園整備されています。岩山の頂上には展望台があり、若狭の海が見えます。




          公園内にはいくつかの顕彰碑などが設置されていて、中でもよく知られているのが小桜の塔です。

          悪石島沖で撃沈された対馬丸の犠牲者を祀った慰霊碑で、一昨年、天皇、皇后両陛下がここを訪れ、献花をされました。



          両陛下は対馬丸が沈没した8月22日には、毎年、黙祷を欠かさないと聞いています。対馬丸記念館と小桜の塔の訪問は両陛下が強く望まれたことのようです。


          両陛下が献花を行う式典には対馬丸の遺族が招かれましたが、式典に参列し両陛下に感謝した遺族と、参列を断った遺族がいたそうです。

          どちらが正しいかなどとはとても言えませんが、両陛下が訪沖される度に、そのことに感謝する(あるいは許す)空気が醸成されていることは確かです。やはり、両陛下が頭を下げる姿は人の心を動かします。


          小桜の塔を正面から見ましょう。



          石碑には沈没する対馬丸の船首部分が描かれていて、石碑に上る石段は、沈没する船が起こした波のようにも見えます。

          私は小桜の塔の名前の由来を知りません。船首に桜が描かれているので、対馬丸と桜に関係があるのか、もしくは、犠牲となった子供達を花弁の小さい薄色の桜に例えたのか。



          「春めぐり 花は咲けども悪石の 水底の子ら あの歳のまま」

           


          西原町翁長の「西原の塔」

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            西原町翁長の「西原の塔」を訪ねました。



            西原町(当時は村)は沖縄戦の激戦地で、村民の47%(5,106人/10,881人)が命を失いました。

            西原の塔には、戦後、村民が収集した遺骨が合祀されています。


            軍隊は国を護ろうとしますが、国民を護ろうとはしません。

            「戦争をするのなら、無人島か海でやってくれ」と言いたい。


            こちらは戦没者の刻銘碑。



            戦没者の氏名と年齢が刻まれていて、どうしても一桁の年齢に目が止まります。



            翁長三郎君3才。翁長春子ちゃん1才。

            戦争が無ければ、それぞれの人生を過ごし、今も健在だったはず。

            この子達の人生が奪われた理由を、誰か教えてあげて下さい。

            合掌


            東京の中高生が沖縄戦継承プロジェクト

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              次の日曜日、東京国際フォーラムで沖縄戦に関わるイベントが開催されるそうです。(→タイムス記事)

              主催者は東京の高校生と聞き「おお、頑張れ!!」と思ったものの、だんだんとそうは思えなくなっています。


              主催者の高校生(石井純さん)は学校の課題学習をきっかけに沖縄戦に関心を持ったそうです。その後、何度か沖縄を訪れ、沖縄戦体験者、大田元知事、ひめゆり平和祈念資料館の島袋館長などに会ったと。そして、東京で沖縄戦を学ぶ機会を作りたいと考えた。

              もちろん、高校生の平和学習には大賛成ですが、最初に引っ掛かったのは、イベントの開催場所が東京国際フォーラムってこと。高校生が募金(現在45万円)を頼りにイベントを開催するには上等過ぎます。

              主催者のホームページにスポンサーの記載が無く、どうなることかと思えば、今日になって、金秀グループがオフィシャルスポンサーに就きました。


              イベントは、映画「人魚に会える日」監督の仲村颯悟さんが制作した映像を軸に中高生がディスカッションする形式で進み、スペシャルゲストは「HY」。

              石井さんは自らをイベントプロデューサーと呼んでいます。




              私の勘違いなら良いのですが、石井さんは沖縄戦を次世代に継承することよりも、イベントを企画し実行するプロセスに興味があるように見えます。

              多くの中高生が沖縄戦に関心を持ってくれればイベントは成功と言えるのでしょうが、中途半端な情報が拡散するだけでは、新たな弊害が生まれるだけ。

              このイベントの結果、今後の展開を、心配しながら注目することにします。


              糸満市阿波根「潮平権現壕」

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                糸満市阿波根の「潮平権現壕」を訪ねました。



                潮平、阿波根、座波の三集落の中間にある自然壕で、住所は阿波根ですが潮平に属する地形です。


                農作業用の道を進むと、鳥居が見えました。



                この鳥居は戦後に建てられたもの。「潮平権現壕」はその時に付けられた名前で、それまでは「シータラーガマ」と呼ばれていたそうです。


                鳥居の奥に壕の入口がありました。





                壕内に入るには潮平区の許可が必要ですが、許可されても入る気になれないほど狭い入口です。ところが、中に入ると200m以上の奥行きがあるそうです。

                この壕には潮平集落の住民約560人が避難していました。200mに560人ですから、一人あたり35cm。壕の外には出れませんから、炊事は壕内で行われました。黒煙が壕内に充満し、生還後一年以上、黒い痰が止まらなかった人がいたそうです。飲み水は壕内を流れる泥水でした。


                この壕の前に立ち、救われた気持ちになるのは、この壕にいた全員が生還したことを私が知っているからです。

                沖縄戦集結間近の6月14日。米軍の呼びかけに応じた住民達は次々に壕から出てきました。潮平集落の住民をすっぽり飲み込んだ壕は、約3ヶ月、彼らの命を守り抜いたのです。

                それは、まさに奇跡。

                「潮平の住民全員は、あの壕から産まれてきた」

                いい言葉だぁ(泣)


                潮平集落の住民は、壕から生還した旧暦5月5日に集まり、壕に感謝の気持ちを伝えているそうです。




                避難した住民全員が生還できた南部の壕で、これほどの規模のものは他に無いと思います。

                壕内での3ヶ月。偶然や、人の意思や、様々な要因が積み重なって奇跡が起きました。とは言え、やはり決定打になったのは、そこに日本兵がいなかったということ。

                でもまあ、理由はどうであれ、集落の全員が生き延びた事実を喜びましょうか。


                糸満市真栄里の特攻艇掩体壕

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                  糸満市真栄里に、日本軍の特攻艇を格納した(掩体した)壕が残っています。



                  特攻艇とはこんな船です。通称はアマガエル。



                  操舵席後ろのフックで爆雷を懸架し、それを敵艦近くに落とし、急旋回して逃げるというもの。

                  しかし、その方法では操舵士に高度な技術が求められるため、後には、船首に起爆スイッチを設置し、体当たりする方法に変更されたようです。

                  しかし、沖縄戦で特攻艇が戦果をあげたという話を聞いたことがありません。


                  この特攻艇には自動車用のエンジンが転用され、その馬力は現在の軽自動車並でした。そのため、見た目ほどの速力が得られない上、搭載できる爆雷の量にも限度がありました。また、船体はベニア板でしたから、銃弾でも沈没しました。

                  つまり、速度、爆雷の威力、船体の強度など、どの項目においても戦艦には通用せず、相手が商船ならなんとか効果があるレベルだったようです。


                  その前に、沖縄戦で使用するには、本土から特攻艇を運ぶ必要があります。ところが日本軍は制海権を失っていたため、特攻艇を満載した輸送船は次々に沈められ、沖縄に到着した特攻艇は僅かでした。

                  さらにその前に、日本軍には空母も戦艦も残っておらず、まともな戦いはできなくなっていました。それで、特攻機や特攻艇に頼る戦闘しかなかったということ。


                  もちろん、今だから言えるのですが、米軍の艦隊が読谷沖に到着した時点で負け。こんな壕を掘って、何になるって話です。



                  特攻艇の戦果が上がらなかったことで、多くの命が救われたのだと考えるほかありませんね。


                  小波津家の弾痕跡

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                    西原町小波津集落に残る、小波津家南側の石塀です。



                    弾痕跡のある石塀は県内各地にありますが、これだけ弾痕跡が鮮明でボコボコの石塀は見たことがありません。


                    沖縄戦で亡くなった沖縄県民を市町村別に見た時、西原村(現在は西原町)の死亡率が47%と最も高いそうです。嘉数から首里に至る戦闘が注目されがちですが、ここもまた激戦区だったのです。

                    日本軍は米軍の上陸地点を本島南部と想定し、多くの兵力を南部に駐留させていました。ところが、米軍が上陸したのは中部の読谷。その時、南部の駐留部隊は首里以北の戦闘に加わらず、温存されました。

                    その、無傷の部隊が初めて戦闘に加わったのが首里東部地区、つまり西原村だったのです。

                    そんな、元気の良い部隊が来てくれなくても良かったんですけどねぇ。


                    小波津集落の北側、現在の西原運動公園から見た小波津集落です。



                    左手奥に見える円錐形の山は運玉森。だれが見ても円錐形ですから、米軍によるネーミングもConical Hillです。

                    地上戦は高地の奪い合い。私の立つ位置まで米軍が南下した時、ここから見えるすべての丘が日本軍の陣地でした。

                    そして、日米両軍がにらみ合う間に挟まれていたのが小波津集落でした。

                    まったく、戦争するなら海の上でやってほしいものです。


                    次の写真は小波津家東側の石塀。



                    南側に比べて弾痕跡が少ないようです。

                    小波津家南側は中城湾に面しているため、最初の写真で見た弾痕跡は、艦砲射撃による砲弾によるもの。破裂した砲弾の金属片が突き刺さったのです。

                    そう考えると、石塀の東側や北側(次の写真)は米軍地上部隊による銃弾によるものに思えます。




                    次の写真は、小波津集落に残る日本軍の壕です。



                    昼間は壕の中で米軍の猛攻に耐え、夜になると壕から出て反撃する。小波津集落の戦闘は、その繰り返しが一週間続きました。


                    小波津集落の住民の選択肢は、集落の壕にとどまるか、南部に逃げるか。

                    もっとも、壕にとどまった住民の多くは、日本軍により壕から追い出されてしまいましたから、結局は南部に向かうしかなかったようです。

                    逃げ場がある限りは、そこへ逃げようとするのは当然と言えます。そして、それが無駄とは思わなかったからこそ逃げたとも言えます。

                    最後は日本軍が勝利すると信じていたということなんでしょうね。


                    白梅学徒隊の足跡めぐり「ヌヌマチガマ」

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                      一つ前の投稿に続いて、八重瀬町新城の話題です。



                      白梅学徒看護隊の足跡めぐり
                      ヌヌマチガマ
                      県立第二高等女学校学徒看護隊軍属従軍の地
                      第24師団(山部隊)第一野戦病院新城分院の跡
                      白梅同窓会



                      今年の春、ガマの入口周辺が整備され、大型バスが駐車できるようになりました。



                      左手に石碑が二つ。奥の建物はトイレです。

                      石碑の裏にガマの入口があります。

                      ここを通って、



                      階段を降ります。



                      平和学習を目的とした団体であれば、予約制でガマへ入ることができます。残念ながら個人での見学は無理なようです。

                      ガマの長さは東西に500メートル。ピーク時には千人の患者が壕内にいました。両側に入口があり、西口をヌヌマチガマ、東口をガラビ壕と呼びます。


                      平和学習の資料などで、負傷した兵士の腕や脚を切り落とした話や、動けない重症患者に青酸カリが手渡され、死にきれない兵士を衛生兵が刺した話などが紹介されています。

                      戦争の悲惨さを訴える記述であり、そうした事実を知ることは重要なのですが、残酷なシーンばかりが強調されている印象があります。

                      言わば、映画の予告編。

                      もちろん、本編を観てもらうには、刺激的な予告編が必要です。しかし、予告編を観たからと言って、本編を理解したことにはなりません。


                      このブログの読者で名古屋在住のバルさんは、沖縄に来られるたびに糸満市国吉にある、白梅の塔を訪ねているそうです。

                      予告編をとっくにご存知のバルさんは、白梅の塔の前に立つたびに、何を想うのか。

                      それこそが本編。


                      ヌヌマチガマの周囲にはウージ畑が広がり、戦前の風景が残されています。

                      白梅学徒隊が、負傷者をガマに運び込む、あるいは一斗樽を担いで井戸に走る様子を思い浮かべてみます。

                      今、私が立っている場所に、白梅学徒隊の少女達がいたのです。



                      泥や汗で真っ黒に汚れた16歳の少女達は、沖縄の青い空を見上げ、ウージ畑を眺め、何を考えたのか。

                      今日を、そのことを振り返る機会にしたいと思います。


                      白梅学徒隊に関する過去の投稿はこちらから。

                      白梅学徒隊の4ヶ月(1) 第二高等女学校




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