照屋ウシさんのお孫さん(2)

0

    JUGEMテーマ:地域/ローカル

     

    照屋ウシさんのお孫さんから連絡をいただいたおかげで、投稿を訂正することができました。その続きをもう少し。

     

     

    こちらは、農連プラザから浮島通りへ向かう通りです。突き当たりが浮島通り。

     

     

    浮島通りに入って最初のスージを右に入ると香港通り。「糸満の三羽ガラス」と呼ばれた照屋ウシさん(照屋商事)、金城夏子さん(幸陽商事)、金城カネさん(金城商事)の店が、そこで軒を並べていました。

     

     

    某青果店のお父さん(90)は元貿易商で、三店それぞれと取引があったそうです。

     

    C「照屋商事の照屋ウシさんを覚えてますか?」

     

    父「覚えてるよ。(写真を見て)そうそうこの方だ」

     

    C「よく覚えてましたね」

     

    父「農連プラザから浮島通りへ行く通りに私が建てた家があってね。そこをウシさんに貸してたんだよ」

     

     

    驚くじゃないですか。上の写真の左側、手前から三軒目の場所にお父さんが建てた家があり、そこをウシさんが借りてたと。職住接近。香港通りまで徒歩2分です。

     

    それから、つい最近まで、この通りの中ほど左側に幸陽商事の事務所がありました。

     

    金城商事は浮島通りに入って徒歩3分。このブログに度々出てくるあの金城商事です。

     

     

    お孫さんにとって新しい発見が二つあったようです。一つは、オバァを知る人がまだ現役で働いていること。つまり、某青果店のお父さんね。もう一つは、オバァがヤチムンの里に住み、そこで働いていたこと。お孫さんはプロの陶芸家だそうです。

     

     

    香港通りの三羽ガラスは私にとって歴史上の人物でしたが、長い間に色々なことを知り、私の生活との接点が生まれてきました。そして、もっと深く知りたくなる。それが楽しくて私は沖縄に住み、このブログを書いてると言えますね。


    照屋ウシさんのお孫さん(1)

    0

      JUGEMテーマ:地域/ローカル


      戦後復興期の沖縄で実業家として活躍した金城夏子さん(1916-1954)と照屋敏子さん(1915-1984)。

      20120325135001_0.jpg

      そして、金城カネさん(1911-1985)。



      三人は「糸満の三羽ガラス」と呼ばれていました(出典:ナツコ 沖縄密貿易の女王)

       

      やがて、壺屋の香港通りで軒を並べて店を構え、競い合った金城夏子さん(幸陽商事)と照屋ウシさん(照屋商事)と金城カネさん(金城商事)。

       

      この三人を金城カネさんが「糸満の三羽ガラス」と呼んでしまったんですよ。(出典:私の戦後史第五集)

       

       

      それで私は、照屋敏子さんと照屋ウシさんは同一人物であろうと考えたんですね。例えば本名ウシさんで通称敏子さん。

       

      そしてその「糸満の三羽ガラス」の話題を投稿したのが三年前のことでした。

       

      香港通りはどこなのか?(1) 女王と女傑 

      香港通りはどこなのか?(2) 金城カネさん 

      香港通りはどこなのか?(3) お父さんの証言

       

      実は、その時チラッと思ったんですよ。敏子さんとウシさんは、本当に同じ人なのかと(^^)

       

      とは言え、既に投稿は済んでいて、仮に二人を別人とするならば、一から書き直しになるんですよ。

       

      だから「まぁ、いいか」と(^^)

       

      考えてみて下さいよ。実はカラスが四羽いて、時と場合によって三羽の選び方が違うなんてことがありますか?(笑)

       

       

      ところが、驚くじゃないですか。昨日、照屋ウシさんのお孫さんからメールをいただいたんですよ。私の投稿を読んだとのこと。

       

      それは実に優しい文面で私は大変にいい気持ちで読み終えましたが、その趣旨は「敏子さんとウチのオバァは別人でしょ?」というもの。

       

      そしてお母さん(ウシさんのお嬢さん)に確認したところ、ウシさんが敏子と呼ばれたことは無いと。

       

      はい。照屋敏子さんと照屋ウシさんは別人で確定しました。大変に申し訳ありませんでしたm(_ _)m

       

       

      お孫さんからいただいた写真で、照屋ウシさんとその隣にお孫さん。ウシさんのモザイクは私が入れました。

       

       

       

      (続く)


      コロナウイルスに負けないお母さん

      0

        JUGEMテーマ:地域/ローカル

         

        Mさんは沖縄を代表する民謡歌手の一人。年齢は40を過ぎたばかりですが、芸歴は30年になります。

         

        彼女が高校生の時に歌った曲が本土の幼児・子供向け番組で採用され、全国的なヒットになりました。

         

         

        彼女は週に一度のラジオ(民謡)番組を持ち、民謡教室を開き、県内外で民謡ライブを行う。つまり、民謡だけで食べていけてる歌手の一人です。

         

        ところがコロナウイルスのせいで、予定されていたライブがすべてキャンセルとなり、今、彼女は窮地に立たされています。

         

         

        「一人で子育てをして、いままで生計立ててたのが、不安に駆られ押し潰されそうですが、やっぱりそういう訳にもいかないので、前に進むしかありません。なので今日からダブルワークで仕事頑張ります」(彼女のFacebookから)

         

        そして、そのダブルワークがコンビニと居酒屋のアルバイト。

         

        驚きましたよ。

         

        ナイチの皆さんには、そのインパクトが伝わらないと思うのでナイチ換算しますと、コンビニへ入ったら元ちとせがレジに立ってたり、居酒屋へ入ったら石嶺聡子が厨房で皿を洗ってたりしてたようなものです。

         

        わかる?(^^)

         

         

        困った時には困ったと言わないと、助けてもらえません。手を上げるって大切なことです。

         

        彼女は小中学校が休校の間は、民謡教室を休みにすべきと考えましたが、それでは月謝がもらえません。そこで「自分からは休みにできないので、各家庭の判断にお任せします」と。

         

        そしたら次の稽古の日。子供達全員が教室に集まったんです。「ウチに閉じこもってばかりなので、週に一度の教室には来たい」と。彼女は泣きながら稽古を始めたようです。

         


        彼女は賢明なやり方で、窮地を乗り越えようとしているように見えます。


        私も何か協力したいと思いますが、コンビニで買い物しても居酒屋で飲んでも彼女の得にはなりません。やはり、CDを買うべきですかね。



        あっ、彼女は誰?ってことね。

         

        「ここは沖縄!(ユイ)」のお方です(^o^)/


        ウチナーアスリート喜納翼さん

        0

          JUGEMテーマ:地域/ローカル

           

          JTAの機内誌をパラパラとめくっていたら、インパクトのある笑顔が現れました。彼女は女子車いすマラソンの日本記録保持者喜納翼さん(29)。

           

           

          世界の一流選手が集まる大分国際車いすマラソン。昨年の大会は1位から3位までが世界新記録というハイレベルなレースになりました。自己ベストを大きく更新した喜納さんは、1位と8秒差の2位。彼女は間違い無く世界の頂点を狙える位置にいます。

           

           

          喜納さんの練習場所はうるま市の海中道路や沖縄市の陸上競技場。月に800kmを走ることもあるそうです。

           


          豊富な練習量に加えて、彼女のアドバンテージは海外の選手をも上回る体格(身長173cm)にあります。

           

          レーサー(競技用車いす)のホイールを回転させる際、一般的な選手はハンドリムを180度回転させる(掴んでから離すまで)ところ、腕の長い彼女はプラス30度掴んでいられるとのこと。

           

          車のエンジンに例えれば高出力、高燃費。彼女のレーサーは男性仕様だそうです。

           

           

          高校卒業までバスケットボールの国体選手だった喜納さんでしたが、大学1年の時、トレーニング中の事故で下半身の自由を奪われてしまいます。

           

          第2の人生を歩み始めた彼女を周囲の人達が支え、彼女はレーサーと共に結果を出し続けました。更に広がる応援の輪。


           

          東京パラリンピックで結果を出せば、彼女を応援する人達は世界中に広がるでしょう。彼女の第二の人生は神がかっているようにさえ見えます。

           

          まあ、神様に文句を言うのもアレですが、彼女を応援するのなら最初からそうしなさいよ。二十歳前の女の子に、いったい何てことをするんですか。まったく。


          喜納昌吉はどうしたいのか

          0

            JUGEMテーマ:地域/ローカル

             

            喜納昌吉が新曲「富士山Japan」を発売しました。39年ぶりだそうです。



            39年前に発売した曲は「花〜すべての人の心に花を〜」ですから、それ以来ってことになります。それにしても、何で歌謡曲なのか。何で「富士山Japan」なのか。いくら考えても、さっぱり分かりません。

             

             

            最近、喜納昌吉が目立ったのは5年前の県知事選でした。「私が出馬しないと県民の顰蹙を買う」と出馬表明しましたが、それを聞いた私は直ちに「いや、買わん」と思いました。選挙の結果、得票率は僅かに1.1%。彼よりも私のほうが、先を見通せたってことでいいのかな。

             

            県民にまったく支持されていないことが分かって、「ほんなら、もうええわ」と思ったんですかね。それで「富士山Japan」でしょ。彼は沖縄に愛想をつかして、ナイチャーになろうとしてるのかもしれません(^^)

             

             

            喜納昌吉は音楽家、平和運動家、政治家とウキペディアに書いてあります。音楽家として、彼の才能を疑う人はいないでしょう。沖縄の音楽を世に知らしめた功績は誰もが認めるところです。もちろん私もその一人。

             

            だからね。彼が平和運動家、あるいは政治家として何か変なことを言っても、「いや、あれほどの人が言うことだから、私が理解できないだけかもな」と思ってしまうんですよ。

             

             

            喜納昌吉は「富士山Japan」で何を目指すのか。これがコケたとしても、音楽家としての彼の立場がゆるぎないことは確か。とは言え、わざわざ変なことをしなくても。ねぇ(^^)

             

            いやいや、彼が変なことをするはずないから、私が理解できないだけかもな。うん、うん。


            光の国から僕らのために・・

            0

              JUGEMテーマ:地域/ローカル

               

              金城哲夫さん(南風原町生まれ)の半生を描いた芝居「光の国から僕らのために」。劇団民藝による本土5都市での公演が終わり、沖縄公演が始まりました。

               

               

               

              9月22日(土)、23日(日)の南風原町中央公民館を皮切りに、沖縄市、名護市、うるま市、浦添市と公演が続きます。

               

              そして、南風原町中央公民館では金城哲夫展(生誕80周年記念企画)を開催中です。金城哲夫資料館(生家の自室)で保管されている写真や脚本などの展示に加えて、彼が脚本、監督を務めた映画「吉屋チルー物語」が上映されていました。

               

               

               

              金城哲夫は7歳で終戦を迎えました。沖縄芝居が大好きな少年だったそうです。那覇の劇場に侵入しヌギバイ(ただ見)を繰り返していたところ、劇場従業員に可愛がられ、無料で入場を許されるようになったと(笑)

               

              高校進学で上京し、大学卒業後、円谷英二氏と出会い、脚本家の道を歩むことになります。脚本家として脚光を浴びたウルトラシリーズが始まる前の一時期、24歳の彼は一旦沖縄へ帰り、映画「吉屋チルー物語」を製作しています。

               

              沖縄の一流役者(島正太郎、清村悦子、瀬名波孝子ら)を揃えた映画の製作費を捻出したのは、料亭(現存)を経営していた彼の母親でした。戦後初の沖縄映画でしたが、県内で上映する映画館は無く、この作品が高い評価を得たのはずっと後のことでした。

               

               

              そして、ウルトラシリーズの放送開始。

               

              ウルトラセブンのモロボシ・ダンと。

               

               

              ウルトラマンのイデ隊員、アキコ隊員と。

               

               

              ウルトラシリーズにより人気脚本家の仲間入りを果たした金城哲夫でしたが、沖縄戦で深刻なダメージを受け、今なお米軍占領下にある沖縄を何とかしたいという想いから、円谷プロを辞め、沖縄に帰る決心をします。沖縄本土復帰の3年前、彼が31歳の時でした。

               

               

              沖縄に帰り、沖縄芝居の脚本家として精力的な活動を始めましたが、彼はウチナーグチを上手く脚本に乗せることができないことに悩んでいました。芝居の場面ごとに、ベストなウチナーグチを選べているのか。それが確信できなかったんですね。

               

              さらに、沖縄海洋博開(閉)会式の演出を引き受けたことにより、悩みが増すことになりました。海洋博に対する自分の想いと、地元住民の想いとのギャップを解消できず、「お前はそれでもウチナーンチュかっ!!」と罵倒されることに。

               

              愛してやまない沖縄で、自らのアイデンティティを問われてしまう事態に、酒の量が増えました。

               

               

              金城哲夫は37歳でこの世を去りました。死因は自宅2階からの転落による脳挫傷。泥酔状態だったそうです。

               

              自宅の鍵が見当たらず、鍵のかかってない窓に外階段から移ろうとして、誤って転落したと聞いてますが、訃報を受けた金城哲夫の妹は、兄の自殺を直感したそうです。

               

              もちろんこれは事故死なんでしょうが、窓枠にぶら下がり、「もういいや」と自ら手を離すシーンを、私もつい思い浮かべてしまいます。

               

               

              「沖縄のために」と思えば思うほど、上手くいかないのが沖縄。それが何故かなんて、私ごときでは説明できません。「吉屋チルー物語」はYouTubeにアップされてるようなので、近々観ようと思います。


              シュワッ!!


              農連に護得久栄昇現る

              0

                JUGEMテーマ:地域/ローカル 

                 

                今朝、市場で仕入れをしていたら、護得久栄昇がテレビの収録してました。生放送の待ち時間なのかもしれません。

                 

                 

                写真のせいかもしれんけど、

                 

                「何で俺はこんな朝早くからニラを持って立たされてんの?」

                 

                みたいな顔でした(笑)

                 

                「わかるよねぇ」と声をかけたら、こっちを向いて嬉しそうにしてから。

                 

                「新唄の大衆賞おめでとう」と言うのを忘れてたな。かなり頑張って唄三線の練習をしたそうで、当日は緊張でガチガチだったらしいです。

                 


                香港通りはどこなのか?(3) お父さんの証言

                0

                  JUGEMテーマ:地域/ローカル


                  香港通りの場所を概ね特定できたつもりですが、まだ確信は持てません。



                  そこで登場いただくのが某青果店のお父さん(86)です。

                  C「お父さんは香港通りを知ってますか?」

                  父「ああ、知ってるはずよ。どのあたりだったかな」

                  C「壺屋の大シーサーの近くです」

                  父「あっ、そうだ。あそこから浮島通りに入って右側の最初のスージだ」

                  C「おっし!!(よぉ言うた)」

                  父「貿易商が集まってた場所でね。私の父親が貿易商をやってたから、私はそれを手伝ってたんだよ」

                  C「糸満の女社長がいたでしょ」

                  父「いたね。幸陽、金城、照屋」

                  C「おっし!!(完璧やん)。で、お父さんはその人達と話をしたことがあるんですか?」

                  父「話をしたことがあるもなにも、取引相手だったからね。あの人達は私と父親の間の年代だったね」

                  C「はぁ、もう最高(笑)」


                  貴重な証言を得られたと言うか、最初っからお父さんに聞けば良かったような気がしなくもないですが、まあそこは、三冊の本を読み、あれこれ考えたプロセス重視で行きましょう。


                  最後に残った疑問が一つ。



                  グダグタβ氏はこの地図を知っているんですよ。香港通りを投稿した翌年、丸国マーケット関連の投稿で、この地図を使ってるんです。その時、何故、“糸満三羽ガラス”の並びに気付かなかったのか。

                  金城や照屋がどこにでもある名前だからとか、丸國マーケットに頭がいってたとか、そんな理由ではないと思います。

                  思い当たるのは、金城商事のホームページに創業場所が那覇市樋川48-25と記載されていること。だから、グダグタβ氏は壺屋に香港通りがあるとは思わず、「おそらく仏壇通り」と考えたのではないでしょうか。

                  現在、那覇市樋川48-25の住所はありません。樋川は1丁目か2丁目なんです。これは図書館に行き、当時の樋川の境界を調べる必要がありますね。


                  だけど、すぐには調べませんよ(笑)

                  考えてもごらんなさい。例えば、今日の夕方、私が図書館に行ったとします。そして、那覇市樋川48-25が地図の場所でなかったら、私はせっかく書いた3本の投稿を公開できませんやん。それはイヤなので、「そのうちに」調べます(笑)

                  このあたりの無責任さが“三羽ガラス”を本に書き、収入を得た人達と私との違いです。


                  長々と、多分に自己満足的な投稿でご退屈様でした。それでは、サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ (^o^)/

                  (終わり)


                  香港通りはどこなのか?(2) 金城カネさん

                  0

                    JUGEMテーマ:地域/ローカル


                    琉球新報の書評(7)に名前が出た金城カネさん(1911-1985)は、私がいつもお世話になってる金城商事の創業者です。



                    沖縄タイムスが出版した「私の戦後史(第5集)」にカネさんの自伝が掲載されていて、そこに次の一節がありました。

                    戦後の混乱期は、食糧確保が第一でキビ作は後回し。また製糖工場も戦火にやられ、ほとんど皆無だった。この悪条件を克服し、昭和26年に大東糖業(宮城仁四郎社長)が戦後真っ先に操業を開始。その翌年には琉球製糖(金城金保社長)が設立された。

                    この2社の砂糖を独占的に扱ったのが“糸満三羽ガラス”と呼ばれていた糸満の三人の女だった。幸陽商事の金城慶子氏と照屋商店の照屋ウシ氏、そして私である。香港通りで私の店の両脇にこの2つが並び、3店で競い合っていた。

                     

                    (2020.5.30追記)

                    私は照屋敏子さんと照屋ウシさんを同一人物と誤解してました。一つ前の投稿以降ここまでは照屋敏子さん。これ以降は照屋ウシさんです。申し訳ありませんでしたm(_ _)m


                    さて、この投稿の本題です。

                    昭和27年頃、金城夏子さん、照屋ウシさん、金城カネさんの“糸満三羽ガラス”が軒を並べた香港通りはどこにあったのか?。

                    そこで、私が尊敬してやまないブログを紹介します。

                    グダグタβ
                    (http://gdgdwktk.blog.shinobi.jp)

                    戦前、戦後の那覇に関しては、比較する相手が見つからないブログで、グダグタβ氏により、あらゆる資料が調べ尽くされています。私は全ての投稿を読み終えていまして、その時代の那覇に関する私の知識の基本はこのブログにあると言えます。(残念ながら現在は更新停止中)

                    そこに、香港通りに関する投稿がありました。



                    グダグタβ氏は、「私の戦後史」を引用しつつ、香港通りの場所を特定しようと試み「おそらく仏壇通りのことではないかと思う」と述べています。

                    この投稿を読んだ時の私は、香港通りがどこなのか興味が湧きましたが、グダグタβ氏に分からないものが、私に分かるはずがないと考えていました。


                    ところがですね。地図があったのですよ。



                    地図の右端。上から4軒目に金城商事とあります。そして、その2軒上に金城夏子さんの幸陽商事が、2軒下に照屋ウシさんの照屋商事があります。この筋道が香港通りで間違いないでしょう。

                    その場所は超簡単。まず、浮島通りの壺屋側入口に立ちます。



                    次の筋道を右折すると、そこが香港通り。



                    地図にある「みつや呉服店」は「みつや繊維」に名前を変えて現存していました。地図では旭通りとなっていますが、香港、台湾などを相手にする貿易商が集まったことから、通称「香港通り」と呼ばれたようです。

                    次の写真は「私の戦後史」に掲載されていた創業期の金城商事(商店)です。



                    建物の配置が同時とは異なるので正確とは言えませんが、ほぼ同じアングルの写真が撮れたはずです。



                    (続く)


                    香港通りはどこなのか?(1) 女王と女傑

                    0

                      JUGEMテーマ:地域/ローカル


                      糸満の金城夏子さん(1916-1954)と照屋敏子さん(1915-1984)。

                      20120325135001_0.jpg

                      5年ほど前に、二冊同時に読みました。

                      本が発売された頃の琉球新報の書評に、この二冊が取り上げられていますので、少し長いのですが引用します。(番号は私)

                      (1)先に講談社ノンフィクション賞を受賞した奥野修司の『ナツコ 沖縄密貿易の女王』(文藝春秋社刊)が、糸満市の女性団体を中心に大きな話題となった。今度も東京で沖縄料理の店を開くヤマトゥンチューが、また一人糸満出身の女傑「照屋敏子」の生き様をつづった本を出し、小学館ノンフィクション大賞に輝いた。糸満に生を受けた者として大いに喜びたい。

                      (2)著者の高木凜は、シャンソン歌手の石井好子が語る「照屋敏子」に興味を持ち、その石井から「照屋敏子を書いてごらんなさい」といわれ、「大宅壮一が、石井好子が出会い、愛してやまなかった照屋敏子とはいかなる女性だったのだろう」か知りたくなり、「敏子を訪ねる旅に出ることにした」という。

                      (3)照屋敏子は、24年前の1984年に68歳で亡くなっているが、生存中にいろんなところで、いろんな人と、多くのことを語っている。その語りが新聞雑誌等に記され、敏子の言動は多くの人の知るところである。

                      (4)本書は、照屋敏子の生涯を多くの新聞雑誌の記事や関係者の証言、資料等から時代背景を踏まえながら整理されているので、敏子が「沖縄の自立」を叫んで次々と事業を拡大していったことにうなずける。

                      (5)しかしながら、本書が『婦人公論』の「間貸し国『沖縄』の女たち」、『オキナワグラフ』の「糸満女傑の土根性 照屋敏子さんの自立経済論」、『女性自身』の「音に聞く沖縄の女傑 照屋敏子さんの二度の涙」、『時代を彩った女たち 近代沖縄女性史』等の照屋敏子の記録に依拠しすぎる感は否めない。

                      (6)「夫が獲ってきた魚を妻が現金で買い」、その売り上げが「ワタクサー」となるということや「糸満漁師の勇敢さは(中略)過酷な年期奉公によって作りだされたものである」など、誤解を招く記述がまたしてもあることには、「糸満市の歴史と文化」を語る者として、もっと説明していかなければならないと感じた。

                      (7)糸満出身の女傑は、ナツコや照屋敏子だけではない。金城カネもおり、今後新たな発掘がなされ、ノンフィクション大賞につながる著作が出てくることを期待したい。

                      (金城善・糸満市教育委員会生涯学習振興課長)


                      ク〜〜!!

                      (5)と(6)がグサッとくるわぁ。二冊の本の著者はいずれもナイチャー。お二人と比較するのはおこがましいけれど、私のブログもまったくそのようなことでございます。m(_ _)m

                      (続く)


                      calendar
                         1234
                      567891011
                      12131415161718
                      19202122232425
                      262728293031 
                      << July 2020 >>
                      プロフィール
                      profilephoto


                      念願の沖縄生活を始めて10年になりました。
                      沖縄の生活、文化、風土、音楽、政治などの話題を投稿しています。 (y_mizoguchi@i.softbank.jp)
                      Twitter
                      お勧めの本と映画
                      selected entries
                      categories
                      archives
                      recent comment
                      recent trackback
                      profile
                      search this site.
                      others
                      mobile
                      qrcode
                      powered
                      無料ブログ作成サービス JUGEM