赤マルソウと黒丸宗(3) 具志堅宗精さん

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    具志堅宗精さん(ぐしけん そうせい:1896-1979)は那覇市の生まれで、沖縄戦時の那覇警察署長。嶋田叡知事、荒井退造警察部長の時代ですね。



    沖縄戦後期。那覇警察署員を引き連れ南部に撤退しましたが、既にその時、警察が果たせる役割はありませんでした。

    糸満市伊敷の壕に署員らと共に身を潜めていた宗精は轟の壕に嶋田知事、荒井部長を訪ね、那覇警察署の解散を具申したのでした。

    役割を果たせない組織を維持するより、部下が生き延びる可能性を選択したことは、後に県庁を解散した嶋田知事と相通じるものがあったように見えます。


    宗精は米軍に捕らえられ、捕虜で終戦を向かえました。戦後、知念警察署長を務めた後、宮古民政府の知事に任命され、戦後の宮古島復興に尽力しました。

    昭和24年。宮古島での3年10ヶ月の務めを終え、那覇に帰って来た宗精は53歳。立派な人生でしたと言いたいところですが、彼の実業家としての人生はそこが起点となりました。


    宗精のお母さんの実家は、味噌・醤油を造る小さな工場を経営していたようです。その後を継いだのか、新たに興したのか、寄宮のトタン屋根工場で味噌・醤油を造っていたのが、宗精の弟、宗演でした。


    宗精は味噌・醤油の実業を本格的に立ち上げようとし、首里に新しい工場を建設しました。後の赤マルソウです。

    宗精、宗演の兄弟の関係はよくわかりません。会社を別々にしたのは、二人の仲が悪かったからのか、仲は良かったが経営方針が異なったからのか。(おそらく後者)

    いずれにせよ、兄弟は別々の味噌・醤油会社を経営し、社章はいずれも名乗り頭の「宗」を丸で囲んだマルソウ。宗精が社名を赤マルソウにしたことから、自然と宗演の会社は黒丸宗と呼ばれるようになったのでしょう。


    宗精の赤マルソウは快進撃を続けました。当時、沖縄の醤油はキッコーマン。赤マルソウはそれを追い上げ、ついに県内シェアを逆転しました。そして昭和40年には味噌で58%、醤油で70%の県内シェアを獲得したのでした。




    赤マルソウを沖縄のトップメーカーに育てた宗精が次に手がけた事業がビールでした。オリオンビールの設立は昭和32年。宗精が62歳の時でした。

    なんという人生。今の沖縄に、こんな人物が4、5人いれば、沖縄の経済自立も夢ではない気がします。

    (終わり)


    はあ、あの人が上原正稔さんなのか

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      農連市場でよく見かけるオジさんがいます。深く帽子を被りサングラスをかけ、顔は髭に覆われているので、見えてるのは鼻と耳だけ。市場で働く人ではないので、名前はもちろん、何をしている人なのかも知りませんでした。

      つい最近のこと。農連市場の再開発に断固反対している人がいると聞き、それを調べる過程で、そのオジさんが上原正稔さんだと知りました。沖縄ではそれなりに有名な作家です。

      彼は農連市場に住んでたんですね。


      (1)1フィート運動

      上原さんは沖縄の平和活動として有名な「1フィート運動」の創始者です。米国には、米軍が撮影した沖縄戦のフィルムが大量に保管されていています。「1フィート運動」はそのフィルムを買い取るための活動で、フィルム1フィートの単価にあたる100円の募金を、上原さんらが呼びかけたのです。33年前のことです。

      「1フィート運動」は大反響を呼びました。多くの沖縄県民から支持を得て、続々と募金が集まったそうです。

      それまで、沖縄戦の記録は主として戦争経験者の証言によるものでしたから、フィルムの威力は絶大で、そこから多くの事実が判明しました。

      また、ペリーに随行した画家が描いた沖縄の風景画を米国から持ち帰り、青い目が見た「大琉球」として出版したのも上原さんでした。

      彼が30代の頃だと思います。立派な業績と言えるでしょう。

      ところが、何故か上原さんは「1フィート運動」から離れてしまいます。上原さんは左翼勢力に乗っ取られたと言い、運動を継続した側は彼は自ら去ったと言ってます。


      (2)パンドラの箱

      上原さんはその後も、米国で収集した情報をもとに、沖縄タイムスや琉球新報の連載記事を執筆するなど、作家として活動を続けていました。

      そして10年ほど前のこと。彼が執筆し、琉球新報に連載中の「パンドラの箱を開ける時」が突然連載打ち切りとなったのです。

      上原さんは慶良間の集団自決に軍の関与は無かったと主張しており、その趣旨の原稿を用意していたところ、琉球新報がその掲載を拒んだのです。

      契約を途中で打ち切られた上原さんは訴訟を起こし、勝訴しました。彼は言論封殺に風穴を開けたとか、集団自決に関与したとされる大尉らの名誉を回復したとか述べていましたが、それは的はずれとしか言いようがありません。

      判決は琉球新報の債務不履行を認めたに過ぎず、風穴の話や名誉回復とは関係が無いのです。


      (3)1フィート運動の終了

      「1フィート運動」は3年前に活動を終えましたが、活動の終了を報告する記者会見の場に唐突に現れたのが上原さんでした。そして、記者席の最前列に立ち、1フィート運動のメンバーを糾弾したのです。

      30年来の恨みつらみを晴らそうとした行動なのでしょうが、他に手段は無かったものかと思います。

      今の上原さんとは無関係の組織が主催した記者会見です。上原さんは嘘つき達に鉄槌を下したと言っていますが、主催者側は乱入されたと言い、私にもそう見えました。


      (4)農連市場の再開発

      さて、再開発工事が進む農連市場北地区です。



      市場の建屋は解体され更地になりました。今は左手のコンクリート製の建屋に足場が組まれ、間も無く解体が始まります。

      その建屋の右手に、トタン屋根のアパートが残っており、そこに上原さんが今も住んでいます。彼は農連市場の再開発に反対だそうで、アパートは闘争小屋状態にあります。

      彼が市場で商売をしているとか、地権者ならばこの方法もアリかと思いますが、アパート住民の立場では無理筋と言わざるを得ません。


      (5)ドキュメンタリー作家

      仮に、上原さんが「1フィート運動」を継続していたとすれば、彼に対する評価は、現在のものとはまったく違っていたでしょう。

      また、沖縄タイムスや琉球新報を媒体とした執筆活動を続けていれば、作家として高い評価を得られたかもしれません。

      上原さんは自らをドキュメンタリー作家と称していますが、彼が表現したいものは何なのか。

      農連市場の再開発は、ドキュメンタリーの対象として、格好のテーマに思えますが、私は上原さんが市場の人達を取材しているところを見たことがありませんし、親しく話せる相手さえいないように見えます。

      虚構を排し、事実を積み上げることがドキュメンタリーの定義とすれば、今の彼の立ち位置は別な所にあると言わざるを得ず、少なくともドキュメンタリー作家とは呼べないと思いますね。


      平良とみさん御逝去

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        女優の平良とみさんが、今日、お亡くなりになりました。



        13歳の時、上の学校へ進みたい一心で劇団に入り、以来74年間、沖縄芝居一筋の生涯でした。

        本土復帰の年に44歳。女優としてピークを迎える一方、沖縄芝居は不遇の時代を迎えます。

        今、沖縄で、芝居だけで生計を立てている役者はほとんどいないでしょう。平良さんも結い髪を副業とするなど、必ずしも生活は豊かではなかったようです。


        1999年に中江裕司監督「ナビィの恋」に出演したことで、平良さんに転機が訪れます。71歳の時でした。

        この作品で全国区となった平良さんの人気は、2001年の「ちゅらさん」で不動のものとなりました。




        今でこそ誰もが口にする「オバぁ」は、本来、身内だけが使って良い言葉。

        その言葉を、沖縄のハーメーに向けた親しみを表す言葉として定着させたのは、平良さんの存在によるものと言って良いでしょう。


        「ナビィの恋」以降の多忙な16年間は、沖縄芝居一筋に生きた平良さんへのご褒美だったように思えます。

        そして、2003年に沖縄県文化功労賞、2014年に旭日双光章を受賞されました。


        どうかごゆっくりお休み下さい。


        沖縄トヨタのCM

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          沖縄トヨタのCM「琉球偉人シリーズ」



          オヤケアカハチ:アルベルト城間

          護佐丸新良幸人

          尚巴志下地勇

          阿麻和利:池田卓

          百十踏揚:麻乃

          さすがは沖縄トヨタ。広告宣伝費の桁が違います。


          う〜む。5人の偉人の中でこのブログで取り上げていないのがオヤケアカハチ。八重山だからなぁ。

          それを演じる沖縄の人気アーティスト。池田卓さんと麻乃さんはライブを観たことがありません。m(__)m


          過去の投稿をリンクさせつつ、読み返してみました。

          下地勇をクリックすると、投稿の最後にyoutubeへのリンクが貼ってあります。名曲「おばぁ」が流れ、その後絶品過ぎる”おまけ”が付いてます。面白いので、是非、見て下さい。


          しかし、新良幸人の護佐丸は、似合わんわぁ(笑)


          「太平橋」発掘中(3)

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            太平橋が完成した12年後の1609年。島津藩の軍隊が琉球に侵攻しました。

            読谷に上陸し南進を続けた島津軍は、浦添グスクを焼き払い、首里城に向かいました。そして、琉球軍が最後の抵抗を見せた場所が太平橋だったとされています。

            島津軍と琉球軍の兵力は、共に約3千人。陸路と海路に兵を分けた島津軍に対して、琉球軍は兵力の大半を那覇港に配置しました。島津軍は海から来る(陸からは来ない)と考えたんでしょう。

            そのため、太平橋で島津軍に対抗した琉球軍は僅かに百人。抵抗らしい抵抗もできず、首里に敗走したようです。

            この擁壁は、その様子を見ていたことになりますね。




            首里城は陥落し、尚寧王は江戸に連行されてしまいました。

            江戸城で将軍秀忠に謁見した尚寧王は「琉球は古来島津氏の附庸国である」と述べ、秀忠は島津藩に琉球支配権を与えたのでした。


            第二尚氏王統の直系に跡継ぎが得られず、浦添で機嫌良く暮らしていた尚寧が王の座に就くことになりました。尚寧にとって、それはまさに晴天の霹靂。

            でもまあ、琉球は平和な世が長く続いており、交易も順調でしたから、尚寧は何事もなく王の役目を果たすはずだったんですよねぇ。こんな目に会うとは、思ってもいなかったことでしょう。


            江戸に向かう途中、尚寧王は駿府で家康に謁見しましたが、家康と会った琉球王は後にも先にも、彼一人でした。

            尚寧王は、

            「だからなんやねんっ!!」

            と言うでしょうけどね(笑)


            ヒゲのボースン、南極から帰還す

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              初代南極観測船の宗谷です。



              1956年11月、第一次南極観測隊を乗せて日本を立ち、翌年1月に日本の観測船としては初めて、南極大陸に接岸しました。

              以降、宗谷は毎年、南極大陸への航海を続け、1961年に第六次観測隊を南極に運び、その役目を終えています。

              過酷を極めたのは1957年の第二次観測隊でした。悪天候に見舞われ、第一次観測隊の収容には成功したもの、第二次観測隊の南極上陸は断念せざるを得ませんでした。

              その時、南極に取り残され、厳しい冬を生き抜いたカラフト犬のタロとジロはあまりにも有名です。


              タロとジロが発見された年の翌年、1959年10月のこと。第四次観測隊を乗せた宗谷の甲板長は、津堅島出身の嘉保博道(かほひろみち)さん。宗谷の乗組員、観測隊員を通して唯一のウチナーンチュでした。



              嘉保さんは立派なヒゲの持ち主で「ヒゲのボースン」と呼ばれていたそうです。(ボースンは甲板長の意味)


              嘉保さんが乗船した宗谷の最初の寄港地はシンガポール。つまり、宗谷が津堅島の沖を通ります。

              その日の朝、津堅島の子供達は丘に登り、港から出た多くの船が、宗谷に伴走しました。

              嘉保さんを激励する島の人たちと、甲板からそれに応える嘉保さん。見送る側の誇らしい気持と、見送られる側の喜び。

              米国統治下の沖縄ですから、宗谷が伊豆大島の沖を通るのとは、訳が違います。

              私はその光景を思い浮かべ、早くもウルウルモードですが、話は続きます。


              宗谷は南極に第四次観測隊を無事に送り届け、日本への帰路、那覇に寄港したのです。1960年4月16日のことでした。

              その時の古い写真がありました。



              那覇に到着した宗谷は大歓迎を受けました。5万人が泊港に押し寄せたそうです。日の丸の小旗が振られ、万歳の声が止みませんでした。

              宗谷が那覇に滞在したのは、わずか2泊3日。嘉保さんは迎えに来た兄弟達と共に、一晩だけ津堅島に帰り、それが26年ぶりの帰省となりました。


              嘉保さんが帰って来ると知り、島は沸き返りました。嘉保さんの小さな実家に島民が集まり、同級生達は「歓迎嘉保博道君」と書いた幟を立てました。

              両親の仏前で手を合わせ、涙を流す嘉保さん。そこへ「これでクンチグワー(栄養)をつけなさい。」と刺身を持って来た近所のオバぁ(笑)。風邪で寝込んでいたはずの嘉保さんの叔母が現れ、手拍子に合わせてカチャーシーを始めました。


              当時の津堅島には公民館が無かったのか、嘉保さんの歓迎会は御嶽の原っぱで行われたようです。

              夜遅くまで続いた歓迎会で、嘉保さんが披露したのは沖縄民謡「浜千鳥」でした。

              旅や浜宿り 草の葉の枕
              寝ても忘ららぬ 我親の御側
              千鳥や浜居てチュイナチュイナ

              (旅は浜に宿り、草の葉を枕に寝ているが、寝ても忘れられないのは、親の側で暮らした日々のこと)


              この曲を選んだ嘉保さんは素晴らしいけれど、その日の状況にピタッとくる曲を用意できる沖縄民謡の厚みが凄い。

              これから先、浜千鳥(ちじゅやー)を聞く度に、私は津堅島の御嶽を思い浮かべるでしょう。


              さて、短い滞在を終え、宗谷は那覇を後にしましたが、その夜、宗谷から一通の電報が沖縄の新聞社に送られて来ました。

              そこに記されていたのは、嘉保さん自作の琉歌でした。

              天からがやゆら神からがやゆら
              志情きぬ雨に濡りてうれしや

              (天が降らせたのか、神が降らせたのか。人情の雨に濡れてどんなに嬉しかったことか)


              嘉保さん、やりますねぇ。

              津堅島の暮らし、オバぁのウチナーグチ、叔母さんのカチャーシー、御嶽の歓迎会、沖縄民謡・・・。

              この素晴らしい琉歌を沖縄の文化や伝統が、しみじみと下支えしていますよねぇ。


              民謡で今日拝なびら

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                「民謡でちゅーうがなびら」と読みます。

                琉球放送のラジオ番組で、「拝なびら」を直訳すると「お目にかかります」。番組のタイトルとしては「民謡でこんにちは」くらいの意味でしょう。

                1961年に始まった超長寿番組で、放送時間は平日16時からの1時間。

                放送内容は、日替わりのパーソナリティが葉書によるリクエストに応えて、沖縄民謡5〜6曲を流すもの。このシンプルさが長寿の秘訣と言えるでしょう。

                番組開始以来、ず〜っとパーソナリティを務めているのが八木政男(はちきまさお)さん。



                沖縄芝居の役者さんで85歳。八木さんを知らないウチナーンチュはいないでしょう。今も現役で、舞台や映画で活躍されています。

                私が八木さんを初めて見たのは、新春民謡紅白の審査員席。ナマではなく、10年くらい前、大阪の大正駅前で買ったVHSのビデオでした。

                美しいウチナーグチを話す人だなぁ、と思いました。アナウンサーのような発音ではなく、親しみのある暖かな美しさ。


                昨日の独演会。進行役が八木さんでした。出演者が一人ですから演目の間が空きます。その時間に舞台に上がってユンタクし、観客の熱気を「保温」する役目です。

                緊張と緩和。場内は大いにわきました。


                今年の5月、嘉手納町に沖縄演芸学園が開校し、八木さんが学長に就任されたそうです。

                八木さんのコメントです。

                「芸大ができて組踊や琉舞の若手は育っているが、芝居ではウチナーグチの基礎が十分でない。ウチナーグチは沖縄の肝心(ちむぐくる)だ。今やらないと(ウチナーグチの話芸が)なくなってしまう」


                「民謡で今日拝なびら」は、構えて聴くのではなく、何か用事をしながら聴く番組と言えるでしょう。

                日常生活に溶け込む番組。そこから流れるウチナーグチ。

                私は決して熱心なリスナーとは言えませんが、それでもある日、この番組が流れなくなったとしたら、その喪失感は半端ではないでしょう。

                それを想像すると、番組に週2回の出演を続け、ウチナーグチを伝承しようとする八木さんの熱意、あるいは危機感が伝わってきます。


                羽地朝秀の改革(3)

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                  羽地朝秀(1617-1676)による「羽地仕置」第4項の内容です。

                  4.役人の不正を取り締まり、疲弊した農村の復興をはかるため農民にも開墾を奨励する


                  当時の国の財政は極度に悪化し、人心は乱れていました。役人は不法な税徴収を行い、ワイロも横行していたので、嫌気が差した農民達は畑を捨て、その結果、農作物の収穫量が減り、国の収入は減る一方でした。

                  朝秀は、従来の地割制度を改め、農民が自ら開墾した土地の所有や売買することを認めたので、農地は拡大し、農作物の収穫量が増えたのです。


                  朝秀にとって追い風になったのは、儀間真常(1557-1644)が中国から導入した製糖技術でした。

                  サトウキビから抽出した黒砂糖は、高値で売れに売れ、製糖は琉球の基幹産業となりました。その結果、琉球王府は莫大な借金を完済することにができたのです。

                  更に、1605年に野国総管が中国が持ち帰ったさつまいもは琉球全土に広まり、農民を餓えから解放しました。


                  羽地朝秀の改革は、琉球の基幹産業を交易から農業へ大転換することに成功したのです。

                  今、沖縄の各地で見られるサトウキビ畑の風景もまた、朝秀の以降のものと言えますね。


                  中山世鑑は、王命により朝秀が編纂した、琉球で初めての正史です。

                  その内容は、朝秀が進めた改革のポリシーを色濃く反映しており、日琉同祖論と関係付けられた内容になりました。

                  その中に、源為朝(1139-1170)の伝説が記載されたのですね。

                  朝秀は500年前に生きた為朝の伝説を誰に聞いたのか知りませんが、琉球の伝統を否定する材料として都合が良かったのでしょう。


                  繰り返しになりますが、為朝の伝説は歴史研究者の間では否定されています。付会の説であり、より分かりやすく言えばでっち上げ。

                  朝秀の意図を理解せず、中山世艦から為朝伝説だけを取り上げることは、間違いです。

                  運天に建てられた為朝上陸の碑。





                  どんな意図があるのか知りませんが、史実と異なることを、さも事実であるかのように主張する姿勢はいかがなものかと思います。

                  不快感がつのり、とても私は見に行く気にはなれません。

                  (終わり)


                  羽地朝秀の生家跡

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                    羽地朝秀は羽地間切(現在の名護市)の按司の子孫にあたります。ここは首里大中町の生家跡。今は空き地です。



                    生家までの道順と、付近の様子を紹介します。

                    首里城から龍潭池の脇を抜けて、安谷川坂(アダニガービラ)を下ります。

                    20110511205446_0.jpg

                    安谷川は井戸の名前。井戸は今も残っています。

                    20110604064059_0.jpg

                    井戸に降りる石畳。

                    20110604064035_0.jpg

                    坂道の途中にある安谷川御嶽。

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                    生家跡へは、玉那覇味噌醤油工場の角を左折です。

                    工場の玄関と、

                    20110511205520_0.jpg

                    石垣。

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                    この工場の隣が生家跡で、そこを通り過ぎると松山御殿です。

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                    生家跡は空き地になっていますが、古都の景観が残る首里大中町は、散歩する価値がある町です。


                    あっ、この劇場(映画館)も町内にあります。

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                    (続く)


                    羽地朝秀の改革(2)

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                      羽地朝秀(1617-1676)の改革は「羽地仕置(はねじしおき)」に表現されています。それは、薩摩に支配されてしまった、琉球国のありかたを示したものでした。

                      「羽地仕置」

                      1.王家をはじめ庶民にいたるまで贅沢を禁じ、倹約を奨励する
                      2.遊女あそびを厳禁し、風紀の粛正をおこなう
                      3.神女や女官の政治的影響力を排除し、伝統的な宗教上の慣例を改める
                      4.役人の不正を取り締まり、疲弊した農村の復興をはかるため農民にも開墾を奨励する
                      5.士(サムレー)階層に諸芸を学ばせ、薩摩と交渉するには教養が必要であることを説く



                      「羽地仕置」の第3項は政教分離。

                      聞得大君を頂点とする神女組織を政治から遠ざけると同時に、不要と思われる祭礼を廃止しました。また、経費削減の観点から、国王の久高参拝などの行事も廃止しました。

                      羽地の狙いは「神の国」から「近代国家」への変革。当然、守旧派からの抵抗がありましたが、それを抑え込むために羽地が持ち出したのが日琉同祖論でした。

                      つまり、

                      「ヤマトと琉球の祖先は同じ。琉球独自の伝統にこだわることはない。」

                      と言うもの。

                      羽地自身には、日琉同祖に対するこだわりは無かったと思いますが、従来の慣習を破壊し、国の制度を変える上で、都合が良かったのでしょう。


                      話は少しそれますが、羽地の改革は一見、琉球の伝統破壊に見えますが、例えば、私達がイメージする琉球の伝統芸能は、そのほとんどが羽地以降のものです。

                      例えば、組踊。

                      玉城朝薫(1684-1734)は、1718年に踊奉行に任命され、中国からの冊封使をもてなすために、組踊を創作しました。「二童敵討」など、朝薫の五番はあまりにも有名です。

                      また、組踊の始まりは、組踊を構成する古典舞踊や古典音楽の始まりでもありました。

                      古典音楽の始祖と言われているのは、湛水流の幸地賢忠(1623-1684)。首里節、諸鈍節、作田節、揚作田節などは幸地の作で、野村流、安富祖流などは湛水流の分派にあたります。

                      次に、エイサー。

                      エイサーの原型に最も近い形式を継承しているのが平敷屋エイサーで、300年の歴史を有します。その300年前と言えば、丁度この時期にあたりますね。


                      「羽地仕置」の第5項にある、士族が身につけるべき教養とは、ヤマトの教養を意味しています。

                      これは、積極的にヤマトの文化を取り入れようとするもの。朝薫の組踊はヤマトの歌舞伎や能から強い影響を受けていますが、それは朝薫の嗜好だけではなく、琉球国の方針でもあったわけです。

                      朝秀の改革は伝統破壊ではなく、リビルド。国の立場に合った伝統を新たに構築したと言えるでしょう。


                      朝秀は「士族」の身分を再定義しています。それまでの士族が、自分の部下を勝手に士族に任命したことなどから、士族と平民の区別が曖昧になっていたのです。

                      朝秀は全ての士族に系図を求め、琉球王府がその系図を認めた者を士族としました。つまり、琉球王府に仕えるのは個人ではなく家ということ。

                      沖縄の門中制度はこの時に始まったもので、ウチナーンチュが系図を大切にする所以でもあります。


                      軍事力ではまったく歯が立たないヤマトに統治された琉球国が、その国のありかたを考える時、日琉同祖論を持ち出し、ヤマトの伝統を積極的に取り入れ、一見、ヤマトに対する迎合とも見える姿勢をとるしかありませんでした。

                      話は飛躍しますが、その行き着く先が、琉球併合や沖縄戦とするならば、あまりにも不条理と言うほかありません。

                      (続く)


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