光の国から僕らのために・・

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    金城哲夫さん(南風原町生まれ)の半生を描いた芝居「光の国から僕らのために」。劇団民藝による本土5都市での公演が終わり、沖縄公演が始まりました。

     

     

     

    9月22日(土)、23日(日)の南風原町中央公民館を皮切りに、沖縄市、名護市、うるま市、浦添市と公演が続きます。

     

    そして、南風原町中央公民館では金城哲夫展(生誕80周年記念企画)を開催中です。金城哲夫資料館(生家の自室)で保管されている写真や脚本などの展示に加えて、彼が脚本、監督を務めた映画「吉屋チルー物語」が上映されていました。

     

     

     

    金城哲夫は7歳で終戦を迎えました。沖縄芝居が大好きな少年だったそうです。那覇の劇場に侵入しヌギバイ(ただ見)を繰り返していたところ、劇場従業員に可愛がられ、無料で入場を許されるようになったと(笑)

     

    高校進学で上京し、大学卒業後、円谷英二氏と出会い、脚本家の道を歩むことになります。脚本家として脚光を浴びたウルトラシリーズが始まる前の一時期、24歳の彼は一旦沖縄へ帰り、映画「吉屋チルー物語」を製作しています。

     

    沖縄の一流役者(島正太郎、清村悦子、瀬名波孝子ら)を揃えた映画の製作費を捻出したのは、料亭(現存)を経営していた彼の母親でした。戦後初の沖縄映画でしたが、県内で上映する映画館は無く、この作品が高い評価を得たのはずっと後のことでした。

     

     

    そして、ウルトラシリーズの放送開始。

     

    ウルトラセブンのモロボシ・ダンと。

     

     

    ウルトラマンのイデ隊員、アキコ隊員と。

     

     

    ウルトラシリーズにより人気脚本家の仲間入りを果たした金城哲夫でしたが、沖縄戦で深刻なダメージを受け、今なお米軍占領下にある沖縄を何とかしたいという想いから、円谷プロを辞め、沖縄に帰る決心をします。沖縄本土復帰の3年前、彼が31歳の時でした。

     

     

    沖縄に帰り、沖縄芝居の脚本家として精力的な活動を始めましたが、彼はウチナーグチを上手く脚本に乗せることができないことに悩んでいました。芝居の場面ごとに、ベストなウチナーグチを選べているのか。それが確信できなかったんですね。

     

    さらに、沖縄海洋博開(閉)会式の演出を引き受けたことにより、悩みが増すことになりました。海洋博に対する自分の想いと、地元住民の想いとのギャップを解消できず、「お前はそれでもウチナーンチュかっ!!」と罵倒されることに。

     

    愛してやまない沖縄で、自らのアイデンティティを問われてしまう事態に、酒の量が増えました。

     

     

    金城哲夫は37歳でこの世を去りました。死因は自宅2階からの転落による脳挫傷。泥酔状態だったそうです。

     

    自宅の鍵が見当たらず、鍵のかかってない窓に外階段から移ろうとして、誤って転落したと聞いてますが、訃報を受けた金城哲夫の妹は、兄の自殺を直感したそうです。

     

    もちろんこれは事故死なんでしょうが、窓枠にぶら下がり、「もういいや」と自ら手を離すシーンを、私もつい思い浮かべてしまいます。

     

     

    「沖縄のために」と思えば思うほど、上手くいかないのが沖縄。それが何故かなんて、私ごときでは説明できません。「吉屋チルー物語」はYouTubeにアップされてるようなので、近々観ようと思います。


    シュワッ!!


    農連に護得久栄昇現る

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      今朝、市場で仕入れをしていたら、護得久栄昇がテレビの収録してました。生放送の待ち時間なのかもしれません。

       

       

      写真のせいかもしれんけど、

       

      「何で俺はこんな朝早くからニラを持って立たされてんの?」

       

      みたいな顔でした(笑)

       

      「わかるよねぇ」と声をかけたら、こっちを向いて嬉しそうにしてから。

       

      「新唄の大衆賞おめでとう」と言うのを忘れてたな。かなり頑張って唄三線の練習をしたそうで、当日は緊張でガチガチだったらしいです。

       


      木田大時(ムクタウフトキ)と渡名喜島の子孫達

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        木田大時は15世紀の占い師です。時(トキ)は現在のユタ。大時と呼ばれたのですから、それはもうトキの中のトキ。大時は次々と予言を的中させ、王子の病気を治したりしたので、国王に重用されました。

        こちらは木田大時の屋敷跡(南城市前川)。



        手入れが行き届いた空間に祠が置かれていました。


        大時の子孫が渡名喜島で暮らしているそうで、渡名喜のことなら知念精肉店のお母さんに確かめましょう。

        C「渡名喜にはムクタとかムクタヤーって屋号の家があるの?」

        母「はぁ、よく知ってるね。あるよ」

        C「ちょっと、そこの貴女。また、Cがおかしなことを言い出したって顔はやめなさい」

        三女「えっ、そんな顔してな〜い。してないわよ。で、ムクタさんがどうしたの?」

        C「超能力者だわけよ」

        三女「うっそ〜(笑)」

        C「ムクタさんが奄美かどっかに行った時『あっ、山が崩れたっ!!』って言ったんだって。それで島に戻ったら本当に裏山が崩れてたって」

        三女「えっ?。それ本当?」

        母「本当よ」

        C「そしてこのムクタ一族は、2、3年おきに首里に来て、玉陵(タマウドゥン)で拝みをするらしい」

        三女「えっ、何で?」

        C「それが分からんかったわけよね。あそこは王族のお墓だろ。ムクタの皆さんは『王族の子孫でもないのに、なんで俺らが拝むわけ?』って思ってたんだけど、先祖代々やってることだからやめれんかったわけよ」

        三女「ふ〜ん」

        C「ところが、昭和50年頃の調査でムクタ一族の祖先が玉陵に葬られていることが分かったのね。民間人でたった一人だけよ。それが木田大時さんって人なのよ」

        三女「へぇ〜、お母さん、そうなの?」

        母「そうよ」

        三女「で、その人は何で玉陵に入れたの?」

        C「超能力者だからね。予言が当たったり、王子の病気を治したりで、国王に気に入られてたのね。ところが、それを妬む人達がいてね。箱の中にネズミを入れて、国王の前で大時に『何匹入ってるか当てろ』ってなったのね。そしたら大時は『5匹』って言ったの。ところが箱を開けたらネズミは一匹で、大時は国王の前で嘘をついたってことで、処刑されることになったのよ」

        三女「ひど〜い」

        C「大時が安謝の処刑場に連れて行かれたあと、さっきの箱からネズミの鳴き声が聞こえてね。もう一度箱を開けたら子供が4匹産まれてたのよ」

        三女「えっ!!。それ、当たりじゃないの?。当たってるわよね」

        C「国王は慌てて処刑の中止を命じたんだけど、うまく伝らなくて、大時は処刑されてしまったのよ。国王はそれを悔いて、大時をこれまで通りそばに置こうって意味で、玉陵に葬ることにしたと」

        母「そう。Cさんが話したことは、全部本当よ」

        三女「へぇ〜、知らなかった」

        C「で、俺はお母さんのお墨付きをいただいたので、大きな顔して、これをブログに投稿すると。あっ、そうや。(収賄で逮捕された)渡名喜村の(前)教育長は執行猶予になったね」

        母「あの子は自分からは絶対そんなことはしないから。周りに上手く利用されたのよ」

        C「執行猶予がついたのは、そういうことなんだろうね」


        本島で長く暮らしていても、生まり島のことは、皆さん、本当によく分かっています。

        島のことは島人(しまんちゅ)に聞け。

        これは至言と言えますね。


        赤マルソウと黒丸宗(3) 具志堅宗精さん

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          具志堅宗精さん(ぐしけん そうせい:1896-1979)は那覇市の生まれで、沖縄戦時の那覇警察署長。嶋田叡知事、荒井退造警察部長の時代ですね。



          沖縄戦後期。那覇警察署員を引き連れ南部に撤退しましたが、既にその時、警察が果たせる役割はありませんでした。

          糸満市伊敷の壕に署員らと共に身を潜めていた宗精は轟の壕に嶋田知事、荒井部長を訪ね、那覇警察署の解散を具申したのでした。

          役割を果たせない組織を維持するより、部下が生き延びる可能性を選択したことは、後に県庁を解散した嶋田知事と相通じるものがあったように見えます。


          宗精は米軍に捕らえられ、捕虜で終戦を向かえました。戦後、知念警察署長を務めた後、宮古民政府の知事に任命され、戦後の宮古島復興に尽力しました。

          昭和24年。宮古島での3年10ヶ月の務めを終え、那覇に帰って来た宗精は53歳。立派な人生でしたと言いたいところですが、彼の実業家としての人生はそこが起点となりました。


          宗精のお母さんの実家は、味噌・醤油を造る小さな工場を経営していたようです。その後を継いだのか、新たに興したのか、寄宮のトタン屋根工場で味噌・醤油を造っていたのが、宗精の弟、宗演でした。


          宗精は味噌・醤油の実業を本格的に立ち上げようとし、首里に新しい工場を建設しました。後の赤マルソウです。

          宗精、宗演の兄弟の関係はよくわかりません。会社を別々にしたのは、二人の仲が悪かったからのか、仲は良かったが経営方針が異なったからのか。(おそらく後者)

          いずれにせよ、兄弟は別々の味噌・醤油会社を経営し、社章はいずれも名乗り頭の「宗」を丸で囲んだマルソウ。宗精が社名を赤マルソウにしたことから、自然と宗演の会社は黒丸宗と呼ばれるようになったのでしょう。


          宗精の赤マルソウは快進撃を続けました。当時、沖縄の醤油はキッコーマン。赤マルソウはそれを追い上げ、ついに県内シェアを逆転しました。そして昭和40年には味噌で58%、醤油で70%の県内シェアを獲得したのでした。




          赤マルソウを沖縄のトップメーカーに育てた宗精が次に手がけた事業がビールでした。オリオンビールの設立は昭和32年。宗精が62歳の時でした。

          なんという人生。今の沖縄に、こんな人物が4、5人いれば、沖縄の経済自立も夢ではない気がします。

          (終わり)


          はあ、あの人が上原正稔さんなのか

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            農連市場でよく見かけるオジさんがいます。深く帽子を被りサングラスをかけ、顔は髭に覆われているので、見えてるのは鼻と耳だけ。市場で働く人ではないので、名前はもちろん、何をしている人なのかも知りませんでした。

            つい最近のこと。農連市場の再開発に断固反対している人がいると聞き、それを調べる過程で、そのオジさんが上原正稔さんだと知りました。沖縄ではそれなりに有名な作家です。

            彼は農連市場に住んでたんですね。


            (1)1フィート運動

            上原さんは沖縄の平和活動として有名な「1フィート運動」の創始者です。米国には、米軍が撮影した沖縄戦のフィルムが大量に保管されていています。「1フィート運動」はそのフィルムを買い取るための活動で、フィルム1フィートの単価にあたる100円の募金を、上原さんらが呼びかけたのです。33年前のことです。

            「1フィート運動」は大反響を呼びました。多くの沖縄県民から支持を得て、続々と募金が集まったそうです。

            それまで、沖縄戦の記録は主として戦争経験者の証言によるものでしたから、フィルムの威力は絶大で、そこから多くの事実が判明しました。

            また、ペリーに随行した画家が描いた沖縄の風景画を米国から持ち帰り、青い目が見た「大琉球」として出版したのも上原さんでした。

            彼が30代の頃だと思います。立派な業績と言えるでしょう。

            ところが、何故か上原さんは「1フィート運動」から離れてしまいます。上原さんは左翼勢力に乗っ取られたと言い、運動を継続した側は彼は自ら去ったと言ってます。


            (2)パンドラの箱

            上原さんはその後も、米国で収集した情報をもとに、沖縄タイムスや琉球新報の連載記事を執筆するなど、作家として活動を続けていました。

            そして10年ほど前のこと。彼が執筆し、琉球新報に連載中の「パンドラの箱を開ける時」が突然連載打ち切りとなったのです。

            上原さんは慶良間の集団自決に軍の関与は無かったと主張しており、その趣旨の原稿を用意していたところ、琉球新報がその掲載を拒んだのです。

            契約を途中で打ち切られた上原さんは訴訟を起こし、勝訴しました。彼は言論封殺に風穴を開けたとか、集団自決に関与したとされる大尉らの名誉を回復したとか述べていましたが、それは的はずれとしか言いようがありません。

            判決は琉球新報の債務不履行を認めたに過ぎず、風穴の話や名誉回復とは関係が無いのです。


            (3)1フィート運動の終了

            「1フィート運動」は3年前に活動を終えましたが、活動の終了を報告する記者会見の場に唐突に現れたのが上原さんでした。そして、記者席の最前列に立ち、1フィート運動のメンバーを糾弾したのです。

            30年来の恨みつらみを晴らそうとした行動なのでしょうが、他に手段は無かったものかと思います。

            今の上原さんとは無関係の組織が主催した記者会見です。上原さんは嘘つき達に鉄槌を下したと言っていますが、主催者側は乱入されたと言い、私にもそう見えました。


            (4)農連市場の再開発

            さて、再開発工事が進む農連市場北地区です。



            市場の建屋は解体され更地になりました。今は左手のコンクリート製の建屋に足場が組まれ、間も無く解体が始まります。

            その建屋の右手に、トタン屋根のアパートが残っており、そこに上原さんが今も住んでいます。彼は農連市場の再開発に反対だそうで、アパートは闘争小屋状態にあります。

            彼が市場で商売をしているとか、地権者ならばこの方法もアリかと思いますが、アパート住民の立場では無理筋と言わざるを得ません。


            (5)ドキュメンタリー作家

            仮に、上原さんが「1フィート運動」を継続していたとすれば、彼に対する評価は、現在のものとはまったく違っていたでしょう。

            また、沖縄タイムスや琉球新報を媒体とした執筆活動を続けていれば、作家として高い評価を得られたかもしれません。

            上原さんは自らをドキュメンタリー作家と称していますが、彼が表現したいものは何なのか。

            農連市場の再開発は、ドキュメンタリーの対象として、格好のテーマに思えますが、私は上原さんが市場の人達を取材しているところを見たことがありませんし、親しく話せる相手さえいないように見えます。

            虚構を排し、事実を積み上げることがドキュメンタリーの定義とすれば、今の彼の立ち位置は別な所にあると言わざるを得ず、少なくともドキュメンタリー作家とは呼べないと思いますね。


            平良とみさん御逝去

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              女優の平良とみさんが、今日、お亡くなりになりました。



              13歳の時、上の学校へ進みたい一心で劇団に入り、以来74年間、沖縄芝居一筋の生涯でした。

              本土復帰の年に44歳。女優としてピークを迎える一方、沖縄芝居は不遇の時代を迎えます。

              今、沖縄で、芝居だけで生計を立てている役者はほとんどいないでしょう。平良さんも結い髪を副業とするなど、必ずしも生活は豊かではなかったようです。


              1999年に中江裕司監督「ナビィの恋」に出演したことで、平良さんに転機が訪れます。71歳の時でした。

              この作品で全国区となった平良さんの人気は、2001年の「ちゅらさん」で不動のものとなりました。




              今でこそ誰もが口にする「オバぁ」は、本来、身内だけが使って良い言葉。

              その言葉を、沖縄のハーメーに向けた親しみを表す言葉として定着させたのは、平良さんの存在によるものと言って良いでしょう。


              「ナビィの恋」以降の多忙な16年間は、沖縄芝居一筋に生きた平良さんへのご褒美だったように思えます。

              そして、2003年に沖縄県文化功労賞、2014年に旭日双光章を受賞されました。


              どうかごゆっくりお休み下さい。


              沖縄トヨタのCM

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                沖縄トヨタのCM「琉球偉人シリーズ」



                オヤケアカハチ:アルベルト城間

                護佐丸新良幸人

                尚巴志下地勇

                阿麻和利:池田卓

                百十踏揚:麻乃

                さすがは沖縄トヨタ。広告宣伝費の桁が違います。


                う〜む。5人の偉人の中でこのブログで取り上げていないのがオヤケアカハチ。八重山だからなぁ。

                それを演じる沖縄の人気アーティスト。池田卓さんと麻乃さんはライブを観たことがありません。m(__)m


                過去の投稿をリンクさせつつ、読み返してみました。

                下地勇をクリックすると、投稿の最後にyoutubeへのリンクが貼ってあります。名曲「おばぁ」が流れ、その後絶品過ぎる”おまけ”が付いてます。面白いので、是非、見て下さい。


                しかし、新良幸人の護佐丸は、似合わんわぁ(笑)


                「太平橋」発掘中(3)

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                  太平橋が完成した12年後の1609年。島津藩の軍隊が琉球に侵攻しました。

                  読谷に上陸し南進を続けた島津軍は、浦添グスクを焼き払い、首里城に向かいました。そして、琉球軍が最後の抵抗を見せた場所が太平橋だったとされています。

                  島津軍と琉球軍の兵力は、共に約3千人。陸路と海路に兵を分けた島津軍に対して、琉球軍は兵力の大半を那覇港に配置しました。島津軍は海から来る(陸からは来ない)と考えたんでしょう。

                  そのため、太平橋で島津軍に対抗した琉球軍は僅かに百人。抵抗らしい抵抗もできず、首里に敗走したようです。

                  この擁壁は、その様子を見ていたことになりますね。




                  首里城は陥落し、尚寧王は江戸に連行されてしまいました。

                  江戸城で将軍秀忠に謁見した尚寧王は「琉球は古来島津氏の附庸国である」と述べ、秀忠は島津藩に琉球支配権を与えたのでした。


                  第二尚氏王統の直系に跡継ぎが得られず、浦添で機嫌良く暮らしていた尚寧が王の座に就くことになりました。尚寧にとって、それはまさに晴天の霹靂。

                  でもまあ、琉球は平和な世が長く続いており、交易も順調でしたから、尚寧は何事もなく王の役目を果たすはずだったんですよねぇ。こんな目に会うとは、思ってもいなかったことでしょう。


                  江戸に向かう途中、尚寧王は駿府で家康に謁見しましたが、家康と会った琉球王は後にも先にも、彼一人でした。

                  尚寧王は、

                  「だからなんやねんっ!!」

                  と言うでしょうけどね(笑)


                  ヒゲのボースン、南極から帰還す

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                    初代南極観測船の宗谷です。



                    1956年11月、第一次南極観測隊を乗せて日本を立ち、翌年1月に日本の観測船としては初めて、南極大陸に接岸しました。

                    以降、宗谷は毎年、南極大陸への航海を続け、1961年に第六次観測隊を南極に運び、その役目を終えています。

                    過酷を極めたのは1957年の第二次観測隊でした。悪天候に見舞われ、第一次観測隊の収容には成功したもの、第二次観測隊の南極上陸は断念せざるを得ませんでした。

                    その時、南極に取り残され、厳しい冬を生き抜いたカラフト犬のタロとジロはあまりにも有名です。


                    タロとジロが発見された年の翌年、1959年10月のこと。第四次観測隊を乗せた宗谷の甲板長は、津堅島出身の嘉保博道(かほひろみち)さん。宗谷の乗組員、観測隊員を通して唯一のウチナーンチュでした。



                    嘉保さんは立派なヒゲの持ち主で「ヒゲのボースン」と呼ばれていたそうです。(ボースンは甲板長の意味)


                    嘉保さんが乗船した宗谷の最初の寄港地はシンガポール。つまり、宗谷が津堅島の沖を通ります。

                    その日の朝、津堅島の子供達は丘に登り、港から出た多くの船が、宗谷に伴走しました。

                    嘉保さんを激励する島の人たちと、甲板からそれに応える嘉保さん。見送る側の誇らしい気持と、見送られる側の喜び。

                    米国統治下の沖縄ですから、宗谷が伊豆大島の沖を通るのとは、訳が違います。

                    私はその光景を思い浮かべ、早くもウルウルモードですが、話は続きます。


                    宗谷は南極に第四次観測隊を無事に送り届け、日本への帰路、那覇に寄港したのです。1960年4月16日のことでした。

                    その時の古い写真がありました。



                    那覇に到着した宗谷は大歓迎を受けました。5万人が泊港に押し寄せたそうです。日の丸の小旗が振られ、万歳の声が止みませんでした。

                    宗谷が那覇に滞在したのは、わずか2泊3日。嘉保さんは迎えに来た兄弟達と共に、一晩だけ津堅島に帰り、それが26年ぶりの帰省となりました。


                    嘉保さんが帰って来ると知り、島は沸き返りました。嘉保さんの小さな実家に島民が集まり、同級生達は「歓迎嘉保博道君」と書いた幟を立てました。

                    両親の仏前で手を合わせ、涙を流す嘉保さん。そこへ「これでクンチグワー(栄養)をつけなさい。」と刺身を持って来た近所のオバぁ(笑)。風邪で寝込んでいたはずの嘉保さんの叔母が現れ、手拍子に合わせてカチャーシーを始めました。


                    当時の津堅島には公民館が無かったのか、嘉保さんの歓迎会は御嶽の原っぱで行われたようです。

                    夜遅くまで続いた歓迎会で、嘉保さんが披露したのは沖縄民謡「浜千鳥」でした。

                    旅や浜宿り 草の葉の枕
                    寝ても忘ららぬ 我親の御側
                    千鳥や浜居てチュイナチュイナ

                    (旅は浜に宿り、草の葉を枕に寝ているが、寝ても忘れられないのは、親の側で暮らした日々のこと)


                    この曲を選んだ嘉保さんは素晴らしいけれど、その日の状況にピタッとくる曲を用意できる沖縄民謡の厚みが凄い。

                    これから先、浜千鳥(ちじゅやー)を聞く度に、私は津堅島の御嶽を思い浮かべるでしょう。


                    さて、短い滞在を終え、宗谷は那覇を後にしましたが、その夜、宗谷から一通の電報が沖縄の新聞社に送られて来ました。

                    そこに記されていたのは、嘉保さん自作の琉歌でした。

                    天からがやゆら神からがやゆら
                    志情きぬ雨に濡りてうれしや

                    (天が降らせたのか、神が降らせたのか。人情の雨に濡れてどんなに嬉しかったことか)


                    嘉保さん、やりますねぇ。

                    津堅島の暮らし、オバぁのウチナーグチ、叔母さんのカチャーシー、御嶽の歓迎会、沖縄民謡・・・。

                    この素晴らしい琉歌を沖縄の文化や伝統が、しみじみと下支えしていますよねぇ。


                    民謡で今日拝なびら

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                      JUGEMテーマ:地域/ローカル

                      「民謡でちゅーうがなびら」と読みます。

                      琉球放送のラジオ番組で、「拝なびら」を直訳すると「お目にかかります」。番組のタイトルとしては「民謡でこんにちは」くらいの意味でしょう。

                      1961年に始まった超長寿番組で、放送時間は平日16時からの1時間。

                      放送内容は、日替わりのパーソナリティが葉書によるリクエストに応えて、沖縄民謡5〜6曲を流すもの。このシンプルさが長寿の秘訣と言えるでしょう。

                      番組開始以来、ず〜っとパーソナリティを務めているのが八木政男(はちきまさお)さん。



                      沖縄芝居の役者さんで85歳。八木さんを知らないウチナーンチュはいないでしょう。今も現役で、舞台や映画で活躍されています。

                      私が八木さんを初めて見たのは、新春民謡紅白の審査員席。ナマではなく、10年くらい前、大阪の大正駅前で買ったVHSのビデオでした。

                      美しいウチナーグチを話す人だなぁ、と思いました。アナウンサーのような発音ではなく、親しみのある暖かな美しさ。


                      昨日の独演会。進行役が八木さんでした。出演者が一人ですから演目の間が空きます。その時間に舞台に上がってユンタクし、観客の熱気を「保温」する役目です。

                      緊張と緩和。場内は大いにわきました。


                      今年の5月、嘉手納町に沖縄演芸学園が開校し、八木さんが学長に就任されたそうです。

                      八木さんのコメントです。

                      「芸大ができて組踊や琉舞の若手は育っているが、芝居ではウチナーグチの基礎が十分でない。ウチナーグチは沖縄の肝心(ちむぐくる)だ。今やらないと(ウチナーグチの話芸が)なくなってしまう」


                      「民謡で今日拝なびら」は、構えて聴くのではなく、何か用事をしながら聴く番組と言えるでしょう。

                      日常生活に溶け込む番組。そこから流れるウチナーグチ。

                      私は決して熱心なリスナーとは言えませんが、それでもある日、この番組が流れなくなったとしたら、その喪失感は半端ではないでしょう。

                      それを想像すると、番組に週2回の出演を続け、ウチナーグチを伝承しようとする八木さんの熱意、あるいは危機感が伝わってきます。


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                      念願の沖縄生活を始めて8年になりました。
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