(訃報)ゆたかはじめさん、中山きくさん

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    季節ごとの死亡率を見ると、注意すべきは夏よりも冬。沖縄の冬が暖かいことは確かですが、気温よりも寒暖差ですからね。25℃夏日の翌日に15℃まで一気に気温が下がってしまうと、血圧への影響は避けられないでしょう。

     

    今年になってから、ゆたかはじめさんと中山きくさんの訃報を聞きました。お二人とも94歳でした。

     

     

    ゆたかさんは東京高裁長官を退官されると沖縄に移住され、沖縄生活は30年になりました。熱心な鉄道ファンで「沖縄軽便鉄道」、「沖縄に電車が走る日」など、多数の著書を残されています。

     

    私はこれまでにゆたかさんの著書を手に、沖縄軽便鉄道の遺構をすべて見てまわりました。そして、3年前に浮島通りで偶然お会いして、短時間でしたが、お話しさせていただきました。

     

    若く見られればいいってものではないの 

     

    私が「沖縄好きが高じて、沖縄に移住しました」と伝えると「私と同じですね」と。東京高裁元長官に同じと言われては恐縮するほかありませんが、その自然な口調にいたく感激したものでした。

     

    もし私が90代まで生きられるなら、ゆたかさんのような90代を目指したいと。

     

     

     

    中山きくさんは補助看護婦として従軍した体験を後世に伝えることに尽力されました。中山さんが学んだ沖縄県立第二高等女学校の校章は白梅。動員された生徒達は白梅学徒隊と呼ばれました。

     

    白梅学徒隊が軽便鉄道国場駅に集合し、看護実習を受けるために東風平国民学校に向かったのは1945年3月6日のことでした。私は国場駅跡を起点に、終戦に至る学徒隊の4ヶ月を追いかけることにしたのでした。

     

    中山きくさんら白梅学徒隊の生存者が語った4ヶ月はまさに地獄。それは私などが想像もできないような真の地獄だったでしょう。

     

    白梅学徒隊の4ヶ月(7) 天皇の沖縄訪問 

     

    初代白梅の塔に刻まれた歌は「散りてなほ 香りハ(は)高し 白梅(うめ)の花」

     

     

    亡くなった学徒隊を「散りてなほ 香りハ高し」と詠むのは結構ですが、彼女達はまだ16歳でした。

     

    「国のため」と言うのなら、国のために何としても守らなければならなかった若い命でした。


    闘牛女子。久高幸枝追悼写真展

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      タイムスギャラリーで開催中の久高幸枝追悼写真展へ出かけました。

       

       

      昨年6月、若くしてこの世を去った幸枝さん。先月、ボーダーインクが発行した「闘牛女子。3」が彼女の遺作となりました。

       

       

      会場に着くと受付に妹さんが、会場内にはご両親と弟さんがいらして、お父さんと15分ほど話し込んでしまいました。

       

       

      会場内は写真撮影を禁止されていましたが、お父さんを撮ると解釈して一枚(^^)

       

       

      後でよく見ると、偶然、一枚の写真が写ってました。

       

      この牛は幸枝さんが世話をしていた闘牛のハートです。写真のタイトルを付けるとするなら「かくれんぼ」。笑わせてくれますねぇ。

       

       

      来週月曜日までの開催で、入場無料です。


      闘牛女子久高幸枝さん

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        最近読んだ3冊の本。中川陽介さんの「唐船ドーイ」はコザの探偵物語。私が知ってる街角の描写が続くのでリアリティがありました。

         

        後ろの二冊は久高幸枝さんの写真集「闘牛女子」と「闘牛女子2」。今日の投稿はこちらがテーマです。

         

         

         

        闘牛女子を読んでる最中に見かけたポスターがこちら。いいコピーですねぇ。

         

        「闘牛のルールはただひとつ、逃げたら負け」

         

         

        私は石川多目的ドームで闘牛を観戦したことがあります。まさにこのコピーの通りで逃げたら負け。勝った牛は逃げた牛を追いませんから、負けた牛が大怪我を負うことはありません。

         

         

        久高さんは牛飼いの一家に生まれ、幼い頃から牛の世話をしてきました。

         

         

        久高さんが特に可愛がっていたチビ。

         

         

        18歳になったチビは老いてしまい、立ち上がることも難しくなっていました。チビとの別れの日。久高さんは「チビが無理をするから牛舎に来るな」と言われたそうです。

         

        とは言え、そうもいかず、牛舎に向かった久高さんと、久高さんを迎えるために立ち上がり、牛舎の外に出てきたチビ。そのシーンを久高さんの妹が写真に収めました。

         

        この写真集は闘牛の写真中心の構成ですが、それぞれの牛が牛飼いの一家によって家族同様に育てられていることが理解できる仕掛けになっています。

         

         

        闘牛を広く知ってもらおうと牛の写真を撮り始めた久高さん。

         

         

        ところがねぇ。「ウチの牛を撮るな」になるわけですよ。そこで久高さんは勝った牛の写真をプリントして、牛主に贈ることを続けたそうです。牛が勝った時は嬉しいですからね。そしたらやがて「負けた時も撮っていい」と、そして「いつ撮ってもいい」と(笑)

         

         


        ボーダーインクから発売された「闘牛女子」は闘牛ファンはもちろん、闘牛を観たことがない人達にも売れ、発売1ヶ月を待たずに増刷が決まりました。闘牛ファンの裾野が広がり、闘牛場へ足を運ぶ女性は闘牛女子と呼ばれるようになりました。

         

        写真集「闘牛女子」は一部のファンによって形成されていた闘牛をパブリックな場所に導いたと言えます。うるま市は2018年に闘牛を無形民族文化財に指定し、その翌年「闘牛のまち」を宣言しました。

         

         

        ところが、今年の6月。持病が悪化した久高さんは46歳でその生涯を終えてしまいました。

         

        動物愛護の観点から起きる反発にどう対応すれば闘牛を守り抜けるかを考える日々。道半ばとは言え、うるま市が「闘牛のまち」を宣言したことは彼女にとっていいニュースだったと思います。

         

         

        牛を愛し続けた久高さんでしたが、自分が牛によって生かされているとも感じていました。「牛がいないと私はいない」と。

         

        おすすめの写真集です。また闘牛場へ行ってみたいと思いました。


        照屋ウシさんのお孫さん(2)

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          照屋ウシさんのお孫さんから連絡をいただいたおかげで、投稿を訂正することができました。その続きをもう少し。

           

           

          こちらは、農連プラザから浮島通りへ向かう通りです。突き当たりが浮島通り。

           

           

          浮島通りに入って最初のスージを右に入ると香港通り。「糸満の三羽ガラス」と呼ばれた照屋ウシさん(照屋商事)、金城夏子さん(幸陽商事)、金城カネさん(金城商事)の店が、そこで軒を並べていました。

           

           

          某青果店のお父さん(90)は元貿易商で、三店それぞれと取引があったそうです。

           

          C「照屋商事の照屋ウシさんを覚えてますか?」

           

          父「覚えてるよ。(写真を見て)そうそうこの方だ」

           

          C「よく覚えてましたね」

           

          父「農連プラザから浮島通りへ行く通りに私が建てた家があってね。そこをウシさんに貸してたんだよ」

           

           

          驚くじゃないですか。上の写真の左側、手前から三軒目の場所にお父さんが建てた家があり、そこをウシさんが借りてたと。職住接近。香港通りまで徒歩2分です。

           

          それから、つい最近まで、この通りの中ほど左側に幸陽商事の事務所がありました。

           

          金城商事は浮島通りに入って徒歩3分。このブログに度々出てくるあの金城商事です。

           

           

          お孫さんにとって新しい発見が二つあったようです。一つは、オバァを知る人がまだ現役で働いていること。つまり、某青果店のお父さんね。もう一つは、オバァがヤチムンの里に住み、そこで働いていたこと。お孫さんはプロの陶芸家だそうです。

           

           

          香港通りの三羽ガラスは私にとって歴史上の人物でしたが、長い間に色々なことを知り、私の生活との接点が生まれてきました。そして、もっと深く知りたくなる。それが楽しくて私は沖縄に住み、このブログを書いてると言えますね。


          照屋ウシさんのお孫さん(1)

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            戦後復興期の沖縄で実業家として活躍した金城夏子さん(1916-1954)と照屋敏子さん(1915-1984)。

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            そして、金城カネさん(1911-1985)。



            三人は「糸満の三羽ガラス」と呼ばれていました(出典:ナツコ 沖縄密貿易の女王)

             

            やがて、壺屋の香港通りで軒を並べて店を構え、競い合った金城夏子さん(幸陽商事)と照屋ウシさん(照屋商事)と金城カネさん(金城商事)。

             

            この三人を金城カネさんが「糸満の三羽ガラス」と呼んでしまったんですよ。(出典:私の戦後史第五集)

             

             

            それで私は、照屋敏子さんと照屋ウシさんは同一人物であろうと考えたんですね。例えば本名ウシさんで通称敏子さん。

             

            そしてその「糸満の三羽ガラス」の話題を投稿したのが三年前のことでした。

             

            香港通りはどこなのか?(1) 女王と女傑 

            香港通りはどこなのか?(2) 金城カネさん 

            香港通りはどこなのか?(3) お父さんの証言

             

            実は、その時チラッと思ったんですよ。敏子さんとウシさんは、本当に同じ人なのかと(^^)

             

            とは言え、既に投稿は済んでいて、仮に二人を別人とするならば、一から書き直しになるんですよ。

             

            だから「まぁ、いいか」と(^^)

             

            考えてみて下さいよ。実はカラスが四羽いて、時と場合によって三羽の選び方が違うなんてことがありますか?(笑)

             

             

            ところが、驚くじゃないですか。昨日、照屋ウシさんのお孫さんからメールをいただいたんですよ。私の投稿を読んだとのこと。

             

            それは実に優しい文面で私は大変にいい気持ちで読み終えましたが、その趣旨は「敏子さんとウチのオバァは別人でしょ?」というもの。

             

            そしてお母さん(ウシさんのお嬢さん)に確認したところ、ウシさんが敏子と呼ばれたことは無いと。

             

            はい。照屋敏子さんと照屋ウシさんは別人で確定しました。大変に申し訳ありませんでしたm(_ _)m

             

             

            お孫さんからいただいた写真で、照屋ウシさんとその隣にお孫さん。ウシさんのモザイクは私が入れました。

             

             

             

            (続く)


            コロナウイルスに負けないお母さん

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              Mさんは沖縄を代表する民謡歌手の一人。年齢は40を過ぎたばかりですが、芸歴は30年になります。

               

              彼女が高校生の時に歌った曲が本土の幼児・子供向け番組で採用され、全国的なヒットになりました。

               

               

              彼女は週に一度のラジオ(民謡)番組を持ち、民謡教室を開き、県内外で民謡ライブを行う。つまり、民謡だけで食べていけてる歌手の一人です。

               

              ところがコロナウイルスのせいで、予定されていたライブがすべてキャンセルとなり、今、彼女は窮地に立たされています。

               

               

              「一人で子育てをして、いままで生計立ててたのが、不安に駆られ押し潰されそうですが、やっぱりそういう訳にもいかないので、前に進むしかありません。なので今日からダブルワークで仕事頑張ります」(彼女のFacebookから)

               

              そして、そのダブルワークがコンビニと居酒屋のアルバイト。

               

              驚きましたよ。

               

              ナイチの皆さんには、そのインパクトが伝わらないと思うのでナイチ換算しますと、コンビニへ入ったら元ちとせがレジに立ってたり、居酒屋へ入ったら石嶺聡子が厨房で皿を洗ってたりしてたようなものです。

               

              わかる?(^^)

               

               

              困った時には困ったと言わないと、助けてもらえません。手を上げるって大切なことです。

               

              彼女は小中学校が休校の間は、民謡教室を休みにすべきと考えましたが、それでは月謝がもらえません。そこで「自分からは休みにできないので、各家庭の判断にお任せします」と。

               

              そしたら次の稽古の日。子供達全員が教室に集まったんです。「ウチに閉じこもってばかりなので、週に一度の教室には来たい」と。彼女は泣きながら稽古を始めたようです。

               


              彼女は賢明なやり方で、窮地を乗り越えようとしているように見えます。


              私も何か協力したいと思いますが、コンビニで買い物しても居酒屋で飲んでも彼女の得にはなりません。やはり、CDを買うべきですかね。



              あっ、彼女は誰?ってことね。

               

              「ここは沖縄!(ユイ)」のお方です(^o^)/


              ウチナーアスリート喜納翼さん

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                JTAの機内誌をパラパラとめくっていたら、インパクトのある笑顔が現れました。彼女は女子車いすマラソンの日本記録保持者喜納翼さん(29)。

                 

                 

                世界の一流選手が集まる大分国際車いすマラソン。昨年の大会は1位から3位までが世界新記録というハイレベルなレースになりました。自己ベストを大きく更新した喜納さんは、1位と8秒差の2位。彼女は間違い無く世界の頂点を狙える位置にいます。

                 

                 

                喜納さんの練習場所はうるま市の海中道路や沖縄市の陸上競技場。月に800kmを走ることもあるそうです。

                 


                豊富な練習量に加えて、彼女のアドバンテージは海外の選手をも上回る体格(身長173cm)にあります。

                 

                レーサー(競技用車いす)のホイールを回転させる際、一般的な選手はハンドリムを180度回転させる(掴んでから離すまで)ところ、腕の長い彼女はプラス30度掴んでいられるとのこと。

                 

                車のエンジンに例えれば高出力、高燃費。彼女のレーサーは男性仕様だそうです。

                 

                 

                高校卒業までバスケットボールの国体選手だった喜納さんでしたが、大学1年の時、トレーニング中の事故で下半身の自由を奪われてしまいます。

                 

                第2の人生を歩み始めた彼女を周囲の人達が支え、彼女はレーサーと共に結果を出し続けました。更に広がる応援の輪。


                 

                東京パラリンピックで結果を出せば、彼女を応援する人達は世界中に広がるでしょう。彼女の第二の人生は神がかっているようにさえ見えます。

                 

                まあ、神様に文句を言うのもアレですが、彼女を応援するのなら最初からそうしなさいよ。二十歳前の女の子に、いったい何てことをするんですか。まったく。


                喜納昌吉はどうしたいのか

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                  喜納昌吉が新曲「富士山Japan」を発売しました。39年ぶりだそうです。



                  39年前に発売した曲は「花〜すべての人の心に花を〜」ですから、それ以来ってことになります。それにしても、何で歌謡曲なのか。何で「富士山Japan」なのか。いくら考えても、さっぱり分かりません。

                   

                   

                  最近、喜納昌吉が目立ったのは5年前の県知事選でした。「私が出馬しないと県民の顰蹙を買う」と出馬表明しましたが、それを聞いた私は直ちに「いや、買わん」と思いました。選挙の結果、得票率は僅かに1.1%。彼よりも私のほうが、先を見通せたってことでいいのかな。

                   

                  県民にまったく支持されていないことが分かって、「ほんなら、もうええわ」と思ったんですかね。それで「富士山Japan」でしょ。彼は沖縄に愛想をつかして、ナイチャーになろうとしてるのかもしれません(^^)

                   

                   

                  喜納昌吉は音楽家、平和運動家、政治家とウキペディアに書いてあります。音楽家として、彼の才能を疑う人はいないでしょう。沖縄の音楽を世に知らしめた功績は誰もが認めるところです。もちろん私もその一人。

                   

                  だからね。彼が平和運動家、あるいは政治家として何か変なことを言っても、「いや、あれほどの人が言うことだから、私が理解できないだけかもな」と思ってしまうんですよ。

                   

                   

                  喜納昌吉は「富士山Japan」で何を目指すのか。これがコケたとしても、音楽家としての彼の立場がゆるぎないことは確か。とは言え、わざわざ変なことをしなくても。ねぇ(^^)

                   

                  いやいや、彼が変なことをするはずないから、私が理解できないだけかもな。うん、うん。


                  光の国から僕らのために・・

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                    金城哲夫さん(南風原町生まれ)の半生を描いた芝居「光の国から僕らのために」。劇団民藝による本土5都市での公演が終わり、沖縄公演が始まりました。

                     

                     

                     

                    9月22日(土)、23日(日)の南風原町中央公民館を皮切りに、沖縄市、名護市、うるま市、浦添市と公演が続きます。

                     

                    そして、南風原町中央公民館では金城哲夫展(生誕80周年記念企画)を開催中です。金城哲夫資料館(生家の自室)で保管されている写真や脚本などの展示に加えて、彼が脚本、監督を務めた映画「吉屋チルー物語」が上映されていました。

                     

                     

                     

                    金城哲夫は7歳で終戦を迎えました。沖縄芝居が大好きな少年だったそうです。那覇の劇場に侵入しヌギバイ(ただ見)を繰り返していたところ、劇場従業員に可愛がられ、無料で入場を許されるようになったと(笑)

                     

                    高校進学で上京し、大学卒業後、円谷英二氏と出会い、脚本家の道を歩むことになります。脚本家として脚光を浴びたウルトラシリーズが始まる前の一時期、24歳の彼は一旦沖縄へ帰り、映画「吉屋チルー物語」を製作しています。

                     

                    沖縄の一流役者(島正太郎、清村悦子、瀬名波孝子ら)を揃えた映画の製作費を捻出したのは、料亭(現存)を経営していた彼の母親でした。戦後初の沖縄映画でしたが、県内で上映する映画館は無く、この作品が高い評価を得たのはずっと後のことでした。

                     

                     

                    そして、ウルトラシリーズの放送開始。

                     

                    ウルトラセブンのモロボシ・ダンと。

                     

                     

                    ウルトラマンのイデ隊員、アキコ隊員と。

                     

                     

                    ウルトラシリーズにより人気脚本家の仲間入りを果たした金城哲夫でしたが、沖縄戦で深刻なダメージを受け、今なお米軍占領下にある沖縄を何とかしたいという想いから、円谷プロを辞め、沖縄に帰る決心をします。沖縄本土復帰の3年前、彼が31歳の時でした。

                     

                     

                    沖縄に帰り、沖縄芝居の脚本家として精力的な活動を始めましたが、彼はウチナーグチを上手く脚本に乗せることができないことに悩んでいました。芝居の場面ごとに、ベストなウチナーグチを選べているのか。それが確信できなかったんですね。

                     

                    さらに、沖縄海洋博開(閉)会式の演出を引き受けたことにより、悩みが増すことになりました。海洋博に対する自分の想いと、地元住民の想いとのギャップを解消できず、「お前はそれでもウチナーンチュかっ!!」と罵倒されることに。

                     

                    愛してやまない沖縄で、自らのアイデンティティを問われてしまう事態に、酒の量が増えました。

                     

                     

                    金城哲夫は37歳でこの世を去りました。死因は自宅2階からの転落による脳挫傷。泥酔状態だったそうです。

                     

                    自宅の鍵が見当たらず、鍵のかかってない窓に外階段から移ろうとして、誤って転落したと聞いてますが、訃報を受けた金城哲夫の妹は、兄の自殺を直感したそうです。

                     

                    もちろんこれは事故死なんでしょうが、窓枠にぶら下がり、「もういいや」と自ら手を離すシーンを、私もつい思い浮かべてしまいます。

                     

                     

                    「沖縄のために」と思えば思うほど、上手くいかないのが沖縄。それが何故かなんて、私ごときでは説明できません。「吉屋チルー物語」はYouTubeにアップされてるようなので、近々観ようと思います。


                    シュワッ!!


                    農連に護得久栄昇現る

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                      JUGEMテーマ:地域/ローカル 

                       

                      今朝、市場で仕入れをしていたら、護得久栄昇がテレビの収録してました。生放送の待ち時間なのかもしれません。

                       

                       

                      写真のせいかもしれんけど、

                       

                      「何で俺はこんな朝早くからニラを持って立たされてんの?」

                       

                      みたいな顔でした(笑)

                       

                      「わかるよねぇ」と声をかけたら、こっちを向いて嬉しそうにしてから。

                       

                      「新唄の大衆賞おめでとう」と言うのを忘れてたな。かなり頑張って唄三線の練習をしたそうで、当日は緊張でガチガチだったらしいです。

                       


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                      念願の沖縄生活を始めて14年になりました。
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