豊見城殿内の墓

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    読者のへそまがりさんから、識名霊園にとんでもなく大きな墓があると聞き、さっそく墓マイラーしてきました。

     

    豊見城殿内の墓。

     

     

    識名霊園の管理事務所のすぐ近くでありながら、森の中にあるかのようなお墓です。

     

    背後の森は豊見城森(ティミグスクムイ)と呼ばれているそうなので、やはり、森ごとお墓なのかもしれません。

     

     

    毛氏豊見城殿内(もううじとみぐすくどぅんち)は、首里士族の五大姓の一つである毛氏豊見城の宗家。元祖は護佐丸(?-1458)です。

     

    私は沖縄に来て以来、何人か、護佐丸の子孫と仰る方と会ってます。その方たちの門中は毛氏豊見城かその分家ということになりますが、何しろ分家した門中の数が百を超えるそうなので、大変な人数になりそうです。

     

     

    袖垣に沿ってお墓に近づいてみました。

     

     

     

    やはり、石造の亀甲墓は風格がありますね。

     

    こちらは、中城村にある護佐丸の墓

     

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    琉球最古の亀甲墓だそうで、識名のお墓とよく似ています。毛氏豊見城の7代目までの遺骨がこちらに、8代目以降が識名に安置されているとのこと。

     

     

    読者のうちなーんちゅさんが、識名にお墓が多いのは何故だろうとコメントされてました。調べたわけではありませんが、多分、こんなことかと思います。

     

    狭い首里の丘に、首里城があって士族の屋敷があると、お墓に使える土地がありません。一方、識名台地には、北側に繁多川、南側に上間と識名園があるものの、真ん中のあたりに土地が空いていて、首里の士族がそこを墓所にしたんじゃないかと。

     

    首里から識名へは真珠道があり、ヒジガー橋から識名園へ繋がる道もあったので、墓参りも便利だったと思います。


    お墓の写真が辞典に載るそうです

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      5年程前に羽地朝秀の墓を訪ねたことがありました。場所は首里平良町。

       

       

       

      羽地朝秀は琉球王府の摂政として数々の改革を成し遂げた人物で、「中山世鑑」を編纂したことでも知られています。

       

      琉球五偉人、羽地朝秀の墓 

      羽地朝秀の改革(1) 

      羽地朝秀の改革(2) 

      羽地朝秀の改革(3) 

      羽地朝秀の生家 

       


      東京の出版社がこのお墓の写真を見つけて、近々出版する小学生(高学年)向けの辞典に使いたいとのこと。

       

      「ど〜ぞ、ど〜ぞ」と(笑)

       

      いやぁ、墓マイラーも少しは役に立つことがあるんですねぇ。巻末のクレジットに私の名前が載るそうです。

       

      ◇ 書誌名:ポプラディア プラス『都道府県別日本地理』

       ◇ 巻数:全7巻(本編6巻/学習資料集・索引1巻) 

      ◇ 監修 寺本潔(玉川大学教育学部)

      ◇ 本体価格(予価):56,000円 

      ◇ 発売日:2020年4月(予定)

      ◇ 仕様/頁数:上製・290×220 弌審憧280〜352頁/オールカラー(予定)

       

       

      羽地朝秀はなかなか立派な人物だったのですが、「中山世鑑」にはウソが多いのよね。

       

      そのウソがあたかも史実であるかのように、この辞典が書くようなら、ちょっと私はうるさいかもよ(笑)


      玉城グスクの格式が高いのは何故か

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        南城市玉城の玉城グスク。標高180mの岩山に築かれたグスクは「天空の城」とも呼ばれています。

         

         

        尚巴志が琉球を統一する前の三山時代。琉球は北山、中山、南山の三国が統治していました。

         

        南山には、北山の今帰仁グスク、中山の浦添グスクや首里城に匹敵するような大規模なグスクがありません。それは、南山が現在のEUのような国家統合体だったことに関係しています。各地の王(按司)が勢力を争う群雄割拠の国。

         

        その中で、聖地巡礼「東御廻り(あがりうまーい)」の重要な拝所の一つでもある玉城グスクは、南山の他のグスクに比べて、グスクとしても御嶽としても、格上に扱われている印象があります。何故でしょう?

         

         

        先日探検(?)した玉城グスクの南壁に、玉城王英昭の墓がありました。誰でしょう?

         

         

        アマミキヨが創造した琉球の島々。神が降臨させた男女が三男二女を産み、ウチナーンチュの始祖となりました。

         

        その子孫から琉球王が生まれました。その王統は天孫氏(てんそんし)と呼ばれ、1万数千年にわたって琉球を統治したと伝えられています。これは神話の世界の出来事。

         

        天孫氏王統は家臣の利勇に滅ぼされ、その利勇を討ったのが舜天(しゅんてん)でした。以降、舜天王統(1187-1259)は三代目の王義本が英祖に王位を譲るまで続きました。このあたりが、神話と歴史の境界。

         

        英祖を始祖とする英祖王統(1259-1349)の居城は浦添グスク。英祖は太陽の子(てだこ)と呼ばれ、今も浦添の英雄です。英祖王統の統治範囲は、沖縄本島の中南部から本部半島にまで及びました。三山時代以前に、緩やかながらも琉球に統一国家があったということになります。

         

         

        前段が長くなりましたが、玉城王英昭は英祖王統4代目の王で、英祖のひ孫にあたります。

         

        彼の時代には、英祖が築いた王国は既に衰退し、統治範囲は玉城グスクを中心とした一角にしか過ぎませんでした。そして琉球は三山時代を迎えていたのです。

         

        玉城グスクは英祖王統の重要なグスクであり、琉球国王(玉城王英昭)の居城でした。玉城グスクが南山の他のグスクに比べて格式が高いのは、そのためと言えます。

         

         

        玉城グスクは岩山の上の限られた敷地に築かれたため、兵力は限られたものでした。そのため、玉城王英昭は次男を城主とする大城グスクと、三男を城主とする糸数グスクを築き、玉城グスクの防御にあたらせました。

         

        大城グスクは南山の島添大里按司に、糸数グスクは中山の上間按司に滅ぼされ、英祖王統は玉城王英昭の次の代で途絶えてしまいます。

         

        大城グスク、糸数グスクの戦いについては過去に投稿しています。英祖王統の最期を感じさせる戦いに興味があれば是非どうぞ。

         

        糸数グスク陥落にまつわる二つのお話(1) 

        糸数グスク陥落にまつわる二つのお話(2)


        百按司墓と源為朝上陸記念碑

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          1929年に京都(帝国)大学医学部が、運天の百按司(ももじゃな)墓から研究目的で持ち出した琉球人の遺骨。

           

          琉球人の遺骨は帰って来るのか? 

           

          遺骨の返還を求めていた第一尚氏の子孫らは、交渉に応じない京都大学に対して、とうとう訴訟を起こすことになりました。

           

           

          先日訪ねた、運天集落背後の崖上にある運天森園地展望台。

           

            

          そのすぐ近くに百按司墓があります。久しぶに墓マイラーになりました(^^)

           

           

          京都大学は、当時の沖縄行政から許可を得ているとして争う姿勢で、26体の遺骨を保管していることを初めて認めました。

           

          この訴訟は、英国がかつての植民地から持ち帰り、大英博物館に保管・展示している文化財を、持ち出された側の国が「返せ」と訴えることに似ているかもしれません。「持ち出したものはさっさと戻せ」とは思いますが、法的にはそう簡単ではないということ。

           

          なお、遺骨の一部は台湾大学にも保管されていて、こちらは既に同大学が返還に応じ、先週、63体の遺骨が沖縄県立埋蔵文化財センターに戻されています。

           

           

          墓に葬られている遺骨の持ち出しを、当時の沖縄行政が認めたことについては、時代背景が影響しているようです。ウチナーンチュがヤマトから忠君愛国の精神を叩き込まれていた時期だったということ。

           

          偶然か必然か、百按司墓のすぐ近くにあるのが源為朝上陸記念碑。京都大学が遺骨を持ち出した年の7年前(1922年)、国頭郡教育部会という組織(行政ではない)が建立したものです。

           

          日琉同祖論の象徴とも言える源為朝が運天に上陸したことを記念する石碑で、刻字は石碑の権威づけを目的に東郷平八郎(1848-1934:元薩摩藩の武士で、日清・日露戦争の海軍軍人)に書かせたそうです。

           

           

          国頭郡教育部会とは、沖縄教育会(当時)の下部組織で、ウチナーンチュの愛郷心を愛国心に昇華させる活動をしていました。ヤマトからの指示があったとは言え、活動の主体はウチナーンチュです。

           

           

          この記念碑は百按司墓のすぐ近くにありますが、気分が悪くなるだけなので寄りませんでした。

           

          先日、遺骨返還訴訟のニュースを聞き、思いついたことがあります。それは、この石碑を為朝の上陸を記念したものではなく、約百年前に盛んに行われた沖縄同化政策の痕跡と見なせば、それなりに存在意義があるのではないかということ。

           

          この次、近くを通りかかった時には「ケッ!!」と思いつつも、寄ってみようかと思います。

           

          寄らんかもしれんけど(^^)


          琉球人の遺骨は帰って来るのか?

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            ナイチの人類学者らが、昭和の初期に沖縄から持ち去った琉球人の遺骨(26体)が、今も保管されているらしく、第一尚氏の子孫らが、その返還を求める訴訟を起こすようです。(→こちらから) 

             

             

            遺骨は1929年に京都(帝国)大学医学部の金関丈夫(1897-1983)当時助教授らが、今帰仁の百按司(ももじゃな)墓から持ち去ったもの。金関氏はその翌年の論文「琉球人の人類学的研究」により博士号を取得し、後に人類学の大家と呼ばれるような研究実績を残しています。

             

            日本人はどこから来たのか、何故、琉球人は大和人よりアイヌ人に近いのかなど、実に興味深いテーマだと思います。ところが、その研究には遺骨が必要ということ。アイヌ人、朝鮮人、中国人、台湾人などの遺骨も同じように持ち去られていたんですね。

             

             

            かねてより、遺骨返還に向けて今帰仁村教育委員会が京都大学と協議していたようですが、訴訟に移行するということは、協議が決裂したということ。

             

            「グダグダ言わずにさっさと返せ」と思いますが、そう簡単にはいかないようです。

             

            原告の主張は「行政や警察から遺骨を持ち出す許可を得ていたとしても、子孫は許していない」というもの。私はその詳細を知りませんが、京都大学の行為を直ちに違法とは言えないようです。

             

            そのため、百按司墓に納められていた遺骨が原告の先祖のものと言えるのかとか、(国連が認めた)先住民族が遺骨の返還を求める権利が琉球民族に適応されるのかとか、つまり、原告側(持ち去られた側)が、遺骨返還の正当性を示す立場にあります。

             

             

            日清戦争の終結が1895年。かつての宗主国に「勝ってしまった」日本は、強国と呼ばれるようになりました。その時期に琉球民族に対する同化政策が加速し、沖縄県民もそれに応じようとしました。方言札が使われるようになったのもこの頃です。

             

            1903年に大阪で開催された内国勧業博覧会の学術人類館では、琉球人(辻の尾類)が展示(?)されました。今なら「なんてことをするんだ」と頭にきますが、尾類は拉致されたわけではなく、沖縄の行政が要請に応じたんですよ。

             

            百按司墓から遺骨が持ち去られたのは、そんな時代でした。

             

             

            京都大学は遺骨を持ち去る上での体裁は整えていたようで、裁判ではそれを主張するのでしょうが、それは失礼というもの。

             

            例えば、読谷の尚巴志の墓でその子孫が拝んでいる時に「そこに尚巴志の遺骨が本当にあるのか」なんて言えますか?。ウチナーンチュにとって先祖は神。拝みの行為は単なる墓参りではなくて信仰なんですよ。

             

            京都大学は裁判などせずに、遺骨を自主的に返還するべきだと思います。そして、人類学の研究試料として、今後も遺骨が必要と言うのなら、改めてその一部をお借りできるようお願いするべきでしょう。

             

            「人類学者なのに、そんなことも分からんのか」と言いたいわ。ったく。


            百十踏揚の墓(再訪)

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              白梅の井泉に続いて、南城市玉城の百十踏揚の墓 を再訪しました。実は、私は大変な間違いを犯してたんです。

               

              かつて私が踏揚の墓として紹介したこのお墓は仲栄真腹門中の墓で、

               

               

              踏揚の墓はその奥なのでした。

               

               

              踏揚と三津葉多武喜の墓であることを示す石碑が両方の墓の間にあり、私は大きなほうを踏揚の墓と決めつけてたんですね。

               

              昨年の4月に、玉城の女性(大学生)に間違いを指摘されて早9ヶ月。遅ればせながら、過去の投稿に遡って訂正させていただきました。大きな墓には彼女の曽祖父母が入ってらっしゃるとのこと。申し訳ないことをしました。また、同門中の皆様にも大変失礼致しました。

               

              考えてみれば、大きな墓は踏揚のお父さん(尚泰久王)の墓と同等サイズ。王女の墓としては大き過ぎます。そのくらい最初に気づけよって話です。

               

               

              踏揚の墓が玉城にある理由については過去にも投稿してますが、簡単におさらいしておきましょう。

               

              尚泰久王と王妃(護佐丸の娘)との間には三男一女がいました。長男安次富金橋、次男三津葉多武喜、四男八幡加那志、そして百十踏揚。本来なら、長男である安次富金橋が継承するはずの王位には、側室の子である三男尚徳王が就きました。謀反を起こした護佐丸の血を引く子に王位を継がせるわけにはいかないということ。三人の王子は首里を去り、玉城に居を移したのでした。

               

              尚徳王が王位を継承した9年後、金丸のクーデターにより第一尚氏王統は途絶えることになります。越来グスクの大城賢勇は金丸に討たれ、その妻踏揚は兄弟が暮らす玉城に逃げのびました。4人の兄弟はその死後、別々の墓に葬られていましたが、最近の公共工事などの影響を受け、踏揚と三津葉多武喜の墓が現在の場所に移されました。

               

               

              さて、慶座絶壁、白梅の井泉、百十踏揚の墓と三ヶ所をまわり、私は宿題を済ませた気分です。だけど、踏揚の墓にはまいった。


              真和志小学校に突然現れたシーサー

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                沖縄タイムスの記事を見て、真和志小学校へ向かいました。今年4月のこと。学校の裏手に、一夜にして、62体ものシーサーが並んでたそうです。



                どこかで見たようなキャラクターですが、いかにも手作り。どなたかが制作し、この場所にこっそり並べたものでしょう。



                少しさみしい場所ですが、シーサー達が賑やかな雰囲気に変えています。


                写真を撮っているとオバぁが歩いて来ました。

                オ「はーっさみよ。子供達が作ったのかねぇ」

                C「違うみたい。誰かが持って来て、校長も驚いたって」

                オ「こんなに並んでると賑やかで、歩くのが楽しみになるね。だけど、盗まれないかね」

                C「ちゃんと固定されてるから大丈夫」

                オ「そうね。良かったさぁ」


                私の見立てでは、小学生にはちょっと無理で、プロには及ばない出来栄え。これがヤチムン通りで買ってきたシーサーなら盗難が心配になりますが、程よく盗まれないレベルと言えるでしょう(笑)



                学校に寄贈するとかではなく、こっそり並べたところが素敵です。


                寄宮十字路を三原方面に進み、最初の信号を右折してすぐ、右側にいます。


                浜比嘉島の散歩(2) アマミチューの墓

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                  浜比嘉島の比嘉集落には、2つの重要な聖地があります。

                  アマミチューの墓とシルミチュー。

                  アマミチューは琉球の創造神で、アマミク、アマミキヨとも呼びます。漢字をあてると阿摩美久。阿摩美久はテンペストで、聞得大君の辞世の句に使われてました。

                  阿摩美久の根国ふさよわる真石懐に詰めて風になゆん
                  (祖神アマミクが創造したこの国、祝福されたこの大地、その全てを包んで今、私は風になる)


                  久高島に降臨したアマミチューは夫のシルミチューと共に浜比嘉島に住んだと、浜比嘉島では伝えられています。


                  この小島に、アマミチューの墓があります。



                  コンクリート製の道を渡ると、右手に船着場のような入江があります。



                  そして、お墓のある左手には、この道を進みます。



                  岩がせり出していてご窮屈様ですが、以前は干潮時に海を歩いたそうですから、濡れるよりはマシと思って下さい。


                  お墓に着きました。





                  琉球特有の風葬墓です。

                  琉球王朝の時代、墓を持てたのは王族や士族に限られていたため、庶民は洞窟などに遺体を安置しました。死者の魂は海の彼方のニライカナイに還ると考えられていたので、小島の断崖にある洞窟は良い場所と言えます。


                  ところで、お墓に賽銭箱がありますね。

                  ナイチャーの私にとって、賽銭箱は神社やお寺にあるのが常識で、賽銭は祈願成就のお礼(あるいはその前払い?)です。お墓に賽銭箱なんて初めてです。

                  一方、ウチナーンチュにとって神とは先祖神。御嶽で拝みをするのは、先祖に語りかけているのであり、それはお墓まいりでも同じです。ですから、御嶽やお墓に賽銭箱があっても、理屈は通るのかもしれません。

                  浜比嘉島は、島をスピリチュアルな場所としてPRしていますから、アマミチューの墓には多くの観光客が訪れます。ですから、主として観光客が入れた賽銭を、墓周辺の整備などに使うのかなとも思います。


                  ところで、お墓の真ん前にあるこのノッチ。



                  あと数十年もすれば、倒れてしまうような気もしますが、かつては大きな岩で、アマミチューが葬られるのを見てたんでしょうかね。

                  (続く)


                  浦添市沢岻「浦添御殿の墓」

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                    浦添市沢岻にある浦添御殿(ウラシーウドゥン)の墓です。



                    沖縄の「御殿」は琉球王朝の王族、または王族の住む屋敷を意味します。

                    王族をその地位で呼ばず、住居の名で呼ぶことは、天皇を御所や御門(みかど)と呼ぶことに似ています。

                    浦添御殿は第二尚氏の分家で、代々、浦添間切の按司を務めた家系です。18世紀末に見事な亀甲墓を築きました。


                    分厚い袖垣(スディガチ)と、



                    相方積みのヒンプン。



                    広いお庭(ハカヌナー)。



                    敷地面積は1,200坪だそうです。

                    墓室の入口両側にある袖石(スディイシ)が三段構えになっていて、墓室に重厚感を与えていますね。墓室正面の石が広いこと。


                    長く門中に守られてきましたが、沖縄戦の疎開などで子孫がバラバラになり、最近、門中の代表が墓所の管理を浦添市に任せました。

                    浦添市は、この市内最大級の亀甲墓を史跡に指定し、墓を修理の上で周辺を公園風に整備しました。




                    もちろん、墓所であることに変わりはありませんが、よそ様のお墓に立ち入るよりは、気持ちが楽です。

                    建造物として観察したり、県外からのお客さんに亀甲墓を紹介するには、良い場所と言えるでしょう。


                    門中の皆さんは、この広いお庭でシーミーをされるんですね。

                    いや、羨ましい。


                    張献功の墓

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                      ニューパラダイス通り北側の緑ヶ丘公園



                      水色の部分が現在の公園ですが、緑色とピンク色の部分に拡張されるようです。

                      一昨日投稿したスージは、概ね、緑ゾーンとピンクゾーンにあります。私は緑ゾーン北側のジュンク堂からスタートし、東側を南下。ニューパラダイス通りに出たところに上等トイレがあり、それからピンクゾーンに入りました。


                      私はそこで16世紀の陶工、張献功(ちょうけんこう)の墓を探しましたが、見つけることができませんでした。

                      それは私の勘違い。張献功の墓は水色ゾーンの西端あたりにあり、私は訪ねたことはないものの、だいたいの場所を知っていたのでした。にもかかわらず、違う場所で探すところがアホですねぇ。ちょっとショックでした。


                      探すまでもなく、張献功の墓所はわかりました。



                      墓前の石碑には「張氏元祖一六仲地麗伸」とあります。

                      張献功は腕の良い陶工で、16世紀に当時の高麗から琉球に渡り、当初は国場に住んでいました。湧田村(現在の泉崎付近)に窯を開き、多くの後継者を育てました。

                      後に、湧田窯は壺屋に移り、その陶芸作品はヤチムンとして知られています。ヤチムンのルーツをたどれば張献功に到達するということ。仲地麗伸は彼の和名です。祖国の名前が入っていますね。


                      墓所は緑ヶ丘公園の端にあり、墓前のスペースは駐車場です。

                      いつもなら「ああこんな所で、おいたわしや」と思うのでしょうが、この日、墓前に花が供えられていました。

                      それだけで、お墓の佇まいが違って見えるから不思議です。良い子孫に恵まれて、お墓が大切にされているのだなぁと安心します。今更ですが、お墓参りをして、花を供えることは大切なことですねぇ。

                      私は張献功と縁もゆかりもありませんが、何でしょう、この暖かな気持ち。


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