百十踏揚の墓(再訪)

0

    JUGEMテーマ:地域/ローカル 

     

    白梅の井泉に続いて、南城市玉城の百十踏揚の墓 を再訪しました。実は、私は大変な間違いを犯してたんです。

     

    かつて私が踏揚の墓として紹介したこのお墓は仲栄真腹門中の墓で、

     

     

    踏揚の墓はその奥なのでした。

     

     

    踏揚と三津葉多武喜の墓であることを示す石碑が両方の墓の間にあり、私は大きなほうを踏揚の墓と決めつけてたんですね。

     

    昨年の4月に、玉城の女性(大学生)に間違いを指摘されて早9ヶ月。遅ればせながら、過去の投稿に遡って訂正させていただきました。大きな墓には彼女の曽祖父母が入ってらっしゃるとのこと。申し訳ないことをしました。また、同門中の皆様にも大変失礼致しました。

     

    考えてみれば、大きな墓は踏揚のお父さん(尚泰久王)の墓と同等サイズ。王女の墓としては大き過ぎます。そのくらい最初に気づけよって話です。

     

     

    踏揚の墓が玉城にある理由については過去にも投稿してますが、簡単におさらいしておきましょう。

     

    尚泰久王と王妃(護佐丸の娘)との間には三男一女がいました。長男安次富金橋、次男三津葉多武喜、四男八幡加那志、そして百十踏揚。本来なら、長男である安次富金橋が継承するはずの王位には、側室の子である三男尚徳王が就きました。謀反を起こした護佐丸の血を引く子に王位を継がせるわけにはいかないということ。三人の王子は首里を去り、玉城に居を移したのでした。

     

    尚徳王が王位を継承した9年後、金丸のクーデターにより第一尚氏王統は途絶えることになります。越来グスクの大城賢勇は金丸に討たれ、その妻踏揚は兄弟が暮らす玉城に逃げのびました。4人の兄弟はその死後、別々の墓に葬られていましたが、最近の公共工事などの影響を受け、踏揚と三津葉多武喜の墓が現在の場所に移されました。

     

     

    さて、慶座絶壁、白梅の井泉、百十踏揚の墓と三ヶ所をまわり、私は宿題を済ませた気分です。だけど、踏揚の墓にはまいった。


    真和志小学校に突然現れたシーサー

    0
      JUGEMテーマ:地域/ローカル

      沖縄タイムスの記事を見て、真和志小学校へ向かいました。今年4月のこと。学校の裏手に、一夜にして、62体ものシーサーが並んでたそうです。



      どこかで見たようなキャラクターですが、いかにも手作り。どなたかが制作し、この場所にこっそり並べたものでしょう。



      少しさみしい場所ですが、シーサー達が賑やかな雰囲気に変えています。


      写真を撮っているとオバぁが歩いて来ました。

      オ「はーっさみよ。子供達が作ったのかねぇ」

      C「違うみたい。誰かが持って来て、校長も驚いたって」

      オ「こんなに並んでると賑やかで、歩くのが楽しみになるね。だけど、盗まれないかね」

      C「ちゃんと固定されてるから大丈夫」

      オ「そうね。良かったさぁ」


      私の見立てでは、小学生にはちょっと無理で、プロには及ばない出来栄え。これがヤチムン通りで買ってきたシーサーなら盗難が心配になりますが、程よく盗まれないレベルと言えるでしょう(笑)



      学校に寄贈するとかではなく、こっそり並べたところが素敵です。


      寄宮十字路を三原方面に進み、最初の信号を右折してすぐ、右側にいます。


      浜比嘉島の散歩(2) アマミチューの墓

      0
        JUGEMテーマ:地域/ローカル

        浜比嘉島の比嘉集落には、2つの重要な聖地があります。

        アマミチューの墓とシルミチュー。

        アマミチューは琉球の創造神で、アマミク、アマミキヨとも呼びます。漢字をあてると阿摩美久。阿摩美久はテンペストで、聞得大君の辞世の句に使われてました。

        阿摩美久の根国ふさよわる真石懐に詰めて風になゆん
        (祖神アマミクが創造したこの国、祝福されたこの大地、その全てを包んで今、私は風になる)


        久高島に降臨したアマミチューは夫のシルミチューと共に浜比嘉島に住んだと、浜比嘉島では伝えられています。


        この小島に、アマミチューの墓があります。



        コンクリート製の道を渡ると、右手に船着場のような入江があります。



        そして、お墓のある左手には、この道を進みます。



        岩がせり出していてご窮屈様ですが、以前は干潮時に海を歩いたそうですから、濡れるよりはマシと思って下さい。


        お墓に着きました。





        琉球特有の風葬墓です。

        琉球王朝の時代、墓を持てたのは王族や士族に限られていたため、庶民は洞窟などに遺体を安置しました。死者の魂は海の彼方のニライカナイに還ると考えられていたので、小島の断崖にある洞窟は良い場所と言えます。


        ところで、お墓に賽銭箱がありますね。

        ナイチャーの私にとって、賽銭箱は神社やお寺にあるのが常識で、賽銭は祈願成就のお礼(あるいはその前払い?)です。お墓に賽銭箱なんて初めてです。

        一方、ウチナーンチュにとって神とは先祖神。御嶽で拝みをするのは、先祖に語りかけているのであり、それはお墓まいりでも同じです。ですから、御嶽やお墓に賽銭箱があっても、理屈は通るのかもしれません。

        浜比嘉島は、島をスピリチュアルな場所としてPRしていますから、アマミチューの墓には多くの観光客が訪れます。ですから、主として観光客が入れた賽銭を、墓周辺の整備などに使うのかなとも思います。


        ところで、お墓の真ん前にあるこのノッチ。



        あと数十年もすれば、倒れてしまうような気もしますが、かつては大きな岩で、アマミチューが葬られるのを見てたんでしょうかね。

        (続く)


        浦添市沢岻「浦添御殿の墓」

        0
          JUGEMテーマ:地域/ローカル

          浦添市沢岻にある浦添御殿(ウラシーウドゥン)の墓です。



          沖縄の「御殿」は琉球王朝の王族、または王族の住む屋敷を意味します。

          王族をその地位で呼ばず、住居の名で呼ぶことは、天皇を御所や御門(みかど)と呼ぶことに似ています。

          浦添御殿は第二尚氏の分家で、代々、浦添間切の按司を務めた家系です。18世紀末に見事な亀甲墓を築きました。


          分厚い袖垣(スディガチ)と、



          相方積みのヒンプン。



          広いお庭(ハカヌナー)。



          敷地面積は1,200坪だそうです。

          墓室の入口両側にある袖石(スディイシ)が三段構えになっていて、墓室に重厚感を与えていますね。墓室正面の石が広いこと。


          長く門中に守られてきましたが、沖縄戦の疎開などで子孫がバラバラになり、最近、門中の代表が墓所の管理を浦添市に任せました。

          浦添市は、この市内最大級の亀甲墓を史跡に指定し、墓を修理の上で周辺を公園風に整備しました。




          もちろん、墓所であることに変わりはありませんが、よそ様のお墓に立ち入るよりは、気持ちが楽です。

          建造物として観察したり、県外からのお客さんに亀甲墓を紹介するには、良い場所と言えるでしょう。


          門中の皆さんは、この広いお庭でシーミーをされるんですね。

          いや、羨ましい。


          張献功の墓

          0
            JUGEMテーマ:地域/ローカル

            ニューパラダイス通り北側の緑ヶ丘公園



            水色の部分が現在の公園ですが、緑色とピンク色の部分に拡張されるようです。

            一昨日投稿したスージは、概ね、緑ゾーンとピンクゾーンにあります。私は緑ゾーン北側のジュンク堂からスタートし、東側を南下。ニューパラダイス通りに出たところに上等トイレがあり、それからピンクゾーンに入りました。


            私はそこで16世紀の陶工、張献功(ちょうけんこう)の墓を探しましたが、見つけることができませんでした。

            それは私の勘違い。張献功の墓は水色ゾーンの西端あたりにあり、私は訪ねたことはないものの、だいたいの場所を知っていたのでした。にもかかわらず、違う場所で探すところがアホですねぇ。ちょっとショックでした。


            探すまでもなく、張献功の墓所はわかりました。



            墓前の石碑には「張氏元祖一六仲地麗伸」とあります。

            張献功は腕の良い陶工で、16世紀に当時の高麗から琉球に渡り、当初は国場に住んでいました。湧田村(現在の泉崎付近)に窯を開き、多くの後継者を育てました。

            後に、湧田窯は壺屋に移り、その陶芸作品はヤチムンとして知られています。ヤチムンのルーツをたどれば張献功に到達するということ。仲地麗伸は彼の和名です。祖国の名前が入っていますね。


            墓所は緑ヶ丘公園の端にあり、墓前のスペースは駐車場です。

            いつもなら「ああこんな所で、おいたわしや」と思うのでしょうが、この日、墓前に花が供えられていました。

            それだけで、お墓の佇まいが違って見えるから不思議です。良い子孫に恵まれて、お墓が大切にされているのだなぁと安心します。今更ですが、お墓参りをして、花を供えることは大切なことですねぇ。

            私は張献功と縁もゆかりもありませんが、何でしょう、この暖かな気持ち。


            獅子松尾の獅子

            0
              JUGEMテーマ:地域/ローカル

              松尾は那覇の地名にもありますが、本来の意味は松林。発音はマーチューです。

              那覇市泉崎の周辺はかつての湧田村。そこにあった松林の名が獅子松尾(シーシマーチュー)です。そのお隣の松林は仲里松尾。

              張献功(ちょうけんこう)は高麗出身の陶工で、国場から湧田村に移り窯を開きました。現在の県庁からハーバービューホテル、壷川にかけては、壺屋に移るまでの間、ヤチムンの生産地だったのです。


              ハーバービューホテルの近くに獅子がいると聞き、寄ってみました。







              コンクリート製ですから、どんなに古くても戦後の獅子。獅子に歴史的な価値は無さそうです。


              以下は仮説です。

              湧田村に陶工が集まりヤチムンの生産地となった。そのシンボルとしてヤチムンの獅子が据えられ、獅子周辺の松林が獅子松尾と呼ばれるようになった。その後、ヤチムンの獅子は失われたが、陶工の子孫がその場所にコンクリート製の獅子を据えた。

              だとすれば、獅子の据えてある場所には意味があります。


              獅子は短い階段の上にいて、階段の上り口にこんなことが書いてありました。



              ここが拝所であるとわざわざ書く必要があるんでしょうか。「長命富を司る」や「祈願成就」などの文言も拝所には似合わず、神社と勘違いしているかのようです。

              先ほどの仮説が当たっているとすれば、この壁の文言は場違いな気がしますが、とは言え、それを余計なお世話だと言われれば、まったくその通りでございます。


              志多伯集落の散歩(1) 村獅子と馬場跡

              0
                JUGEMテーマ:地域/ローカル

                八重瀬町東風平の志多伯(したはく)集落に来ました。



                こちらは、集落の南端にあった八重瀬町の看板。



                この獅子舞の獅子が、志多伯の獅子加那志(しーしがなし)。加那志は尊敬の意味を表す言葉で、直訳すれば獅子様です。

                志多伯の獅子舞は300年の歴史があるそうで、その存在はもはや神です。


                志多伯集落の地図を見ましょう。ピンの位置が公民館です。



                集落は南向きの斜面にあり、南北に二本の筋が通っています。おそらく、左がナカミチで右がクシミチ。

                わかりやすいです。

                おおよそですが、根屋、井戸、村獅子などの位置が予想できます。


                志多伯公民館に着きました。



                この裏手に村獅子がいます。午ヌ端の獅子。



                牛(うま)は南ですから、南の獅子。八重瀬岳に向かってヒーゲーシしています。




                集落の西側に馬場跡がありました。今は集落の広場として使われていて、集落の催しはここか、公民館のどちらかで行われます。




                馬場跡の西端にいたのが、酉ヌ端の獅子。酉(とり)は西ですから、西の獅子。



                ううっ。

                ちょっと扱われかたが、南の獅子とは違うのか?

                馬場のフェンスの外にいて、台座は割れています。



                集落の守り神として、実績がイマイチだったか?(笑)

                (続く)


                東方の村獅子

                0
                  JUGEMテーマ:地域/ローカル

                  与那原と佐敷の村獅子を3ヶ所見て歩きました。

                  本島南部の東海岸は東方(あがりかた)と呼ばれ、ニライカナイの方角に向くことから、古くから多くの聖地があります。

                  ところが、沖縄戦の初期。この海に米国の大艦隊が押し寄せ、各集落は無数の砲弾を浴びてしまいます。鉄の暴風の中、形のあるものが残っていることが不思議です。


                  先日投稿した「よーんなあ道路」の近く。板良敷集落の村獅子です。



                  広い国道が開通すると、集落が分断されるばかりか、国道に沿った街づくりが行われるので、集落の形が曖昧になります。

                  この村獅子の立つ場所が、かつての集落入口だったのか。あまり居心地が良さそうには見えません。



                  石灰岩が朽ちることは仕方ありませんが、この村獅子は顔の左側に何かの衝撃を受けていますね。

                  足を見れば、後にコンクリートで整形された形跡がありました。



                  こんな内股にしなくても(笑)。

                  まったくの想像ですが、この村獅子は沖縄戦で左方向から何らかの衝撃を受け、倒れてしまったのではないでしょうか。

                  地面に転がった(あるいは地中に埋まった)村獅子が後に整形され、この場所に置かれたように見えました。


                  次に向かったのは、佐敷冨祖崎の村獅子です。



                  このあたりの村獅子はちゃんと獅子の形をしていますね。ウェストがありますからね(笑)。



                  足に指がある獅子は珍しいなと思ったら、



                  どうやらこの足も、後から整形されたようです。


                  最後は、冨祖崎獅子のすぐ近くにいる、外間集落の村獅子です。



                  ああ、こいつも左足をケガしていますね。



                  そして、左の首筋に銃弾の跡が二つ。


                  私の勘違いもあるでしょうが、どの村獅子も、戦火をくぐり抜けてきた様子がうかがえました。

                  村獅子は、集落の守護神として、その場所に立ち続けることが役目です。その役目を果たそうとして、酷い目に合いました。


                  板良敷から冨祖崎までの間で、私は他の村獅子を知りません。この日の村獅子達は、転がされたり、銃で撃たれたりはしましたが、粉々になることは免れたわけです。

                  つまり、多くの村獅子が跡形もなく消えてしまったのだと思います。


                  何しろ、村獅子は動くわけにはいきませんからねぇ。

                  「よく頑張ったな。」って気持ちになります。


                  大里平良集落のプライド(4) 平良の村獅子

                  0
                    JUGEMテーマ:地域/ローカル

                    さて私は、字平良の東入口から南入口へ向かうことにしました。そこには平良の村獅子がいるはずです。

                    以前投稿した、お隣、南風原集落の村獅子がこちら。



                    かなりユニークな獅子ですよねぇ。またこんなのが現れるんじゃないかと、楽しみです。


                    いました(笑)。



                    (笑)

                    _| ̄|◯

                    (笑)

                    「おまえ、子供にボールをぶつけられたりするやろ。」

                    「八重瀬岳のヒーゲーシか?」

                    「で、返したことはあんのかいな。」



                    「大里按司は八重瀬按司に討たれてしもたやん。おまえ、何してた。」

                    「まだ生まれてなかったんか。ふ〜ん。」

                    「おっ、そうや。平良の字昇格おめでとう。」

                    「おまえは字平良の獅子や。良かったな。」

                    「じゃあな。またゆっくり来るわ。」


                    海の見える家

                    0
                      JUGEMテーマ:地域/ローカル

                      那覇で暮らしていると、海を眺めることがありません。

                      相棒のAに付き合って、中央卸売市場の岸壁で弁当を食べる時か、その帰りに泊大橋を渡る時か、普段はそんなもんです。

                      その代わり、たまに海に出ると、旅行者の気持ちになれるので、それはそんでエエやんって気もします。


                      一方、本土の仕事をリタイヤするなどして、沖縄移住を決心した皆さんは、これはもう、何が何でも海の見える家が欲しいところ。

                      沖縄本島のあちこちで、海の見える家が建売りされています。


                      今、私は南城市大里の某所に立ち、知念の海を眺めています。



                      毎朝、目を覚ましてカーテンを開けるとこの景色。海の見える家としては最高の立地と言えるでしょう。

                      と思ったら、斬新なデザインのお宅がありました。



                      ちょっと角度を変えると、このお宅が平屋建てだとわかります。抜群の採光が望めそうです。庭は芝生が良いと思いますが、コンクリートになってますね。まあ、掃除が楽でいいか(笑)。



                      玄関に回ります。



                      う〜む。堂々としています。間取りは1LDKでしょうか?

                      窓が少ないところが気になりますが、こんな家で、海を眺めながら暮らすのもエエなぁ、と思いました。

                      アハハ(笑)。


                      calendar
                      1234567
                      891011121314
                      15161718192021
                      22232425262728
                      293031    
                      << July 2018 >>
                      プロフィール
                      profilephoto


                      念願の沖縄生活を始めて8年になりました。
                      沖縄の生活、文化、風土、音楽、政治などの話題を投稿しています。
                      Twitter
                      お勧めの本と映画
                      selected entries
                      categories
                      archives
                      recent comment
                      recent trackback
                      profile
                      search this site.
                      others
                      mobile
                      qrcode
                      powered
                      無料ブログ作成サービス JUGEM