中城御殿跡の発掘調査(2) 発掘現場

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    一つ前に投稿した琉球古地図。黄色の破線がかつての道路で、青く塗られた部分が発掘調査の区画です。

     

     

    地図では狭く見えますが、現場に来てみればこの広さ。中城御殿は大御殿だったんですねぇ。

     

     

    この場所にあった中城御殿が龍潭の向かいに移ったのは1875年のことでした。琉球藩設置が1872年、廃藩置県が1879年。

     

    ヤマトの松田処分官か誰かが、尚泰王にこんなことを言ったんでしょう。たぶん。

     

    「中城御殿の敷地は広いから学校かナニかにしましょうね。近々、首里城は明け渡してもらいますので、御殿を龍潭の向かいに移してから、貴方達はそこに住みなさいね。少し狭くなるけろ」

     

    首里城明け渡しの日。首里城継世門を出た尚泰王の一行は、龍潭向かいの中城御殿に向かったことになりますね。

     

     

    さて、いよいよ発掘現場に入ろうとしたら、この日はたまたま現地説明会の日。昼休みに急いで来た私は説明会に参加する時間がありません。「じゃあ、写真を2、3枚撮りましょうね」と言ったら、埋蔵センターの職員が「それは駄目です」と。

     

    「ヤッター(おまえ達)のヤー(家)なんかいっ!!」と言いたい。

     

    へそまがりさん。写真を使わせていただきます。え〜っと、職員が立っている平面が、黄色の破線で示されていた道路です。

     

     

    終わり(笑)

     

    別に怒ってるわけではありません。今回の発掘は道路の場所を特定して、御殿全体の位置関係を把握することが目的。中城御殿の全貌が明らかになるのは次回以降です。

     

    だから、怒ってるわけではありません。

     

     

    せっかく来たので、首里高校の話題を一つだけ。

     

    1958年。米軍統治下の沖縄から、首里高校が戦後初めての夏の甲子園出場を果たしました。残念ながら初戦で負けてしまいましたが、甲子園の土はちゃんと袋に詰めました。

     

    ところが、那覇港の検疫で止められてしまい、球児達は泣く泣く甲子園の土を海に撒くことに。

     

     

    そのニュースを聞いたのが、日本航空のスチュワーデスの皆さんでした。私達に何かできることはないかと考えた末、甲子園球場近くの浜で小石を拾い、首里高校へ届けることにしました。

     

    小石が届けられた首里高校では、球児はもちろん、校長から教頭から、皆さんがカチャーシー(笑)。嬉しかったと思います。

     

    その小石が今ここに(^^)

     

     

     

    それから52年。2010年に興南高校が沖縄県勢初の全国制覇を成し遂げ、那覇空港は球児達を迎える人々で溢れました。

     

    球児達が搭乗した便の機長が「今、真紅の優勝旗が、初めて太平洋を渡っています」とアナウンスした話が知られていますね。

     

    (終わり)


    中城御殿跡の発掘調査(1) 琉球古地図

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      中城御殿は琉球国王の世子(せし)殿。1875年に龍潭の向かいに移るまで、現在の県立首里高校の敷地にありました。

       

       

      その中城御殿跡の発掘調査を県立埋蔵文化財センターが進めています。先週土曜日の現地説明会に参加したへそまがりさんから、パンフレットと写真が送られて来ました。上下の写真はそのパンフレットを撮ったもの。

       

      へそまがりさん、ありがとうございました。

       

       

      御殿跡の航空写真に引かれた黄色の破線は、今回発掘された、当時の道路を示しています。そして、右下に琉球古地図。

       

       

      古地図を拡大しました。1700年代初頭に琉球王府が作成した地図で、首里の歴史散歩に重宝します。こちらにも道路に黄色の破線が引かれています。

       

       

      この古地図の優れている点が2つあります。

       

      一つ目は、縮尺が正確であること。

       

      古地図の縮尺が正確なので、航空写真と古地図、両方の黄色い破線を重ねると、遺構の位置が正確に分かります。発掘すべき場所がピンポイントで分かるので、調査を効率良く進めることできます。

       

      二つ目は、古地図に記載された建物などの名称が、ある程度の時間幅を持たせて記されていること。

       

      例えば、現在の那覇地図を作るとすれば、三越百貨店跡には最近オープンした「琉球王国市場」、那覇バスターミナル跡には「カフーナ旭橋」と記すことになります。そこに時間幅を持たせて「三越百貨店」、「那覇バスターミナル」と記すのが、この琉球古地図の流儀です。

       

      その時代の理解を深めるために、外せない名前があります。琉球古地図はそのあたりの取捨選択が実に上手です。

       

       

      さて、首里高校に着きました。

       

       

      電柱の右に、那覇の文化財を示す小さな石碑が見えます。石碑が案内してるのは大美御殿(うふみうどぅん)跡。中城御殿の隣にあったと、琉球古地図に記されています。

       

      かつてはこちらも琉球国王の世子殿でしたが、後に、城内の女性の休憩所、産所、冠婚葬祭の場として使われるようになりました。

       

       

      日本に開国を迫ったペリーは、那覇を燃料や食料の補給基地とし、那覇から浦賀へ2度、香港と小笠原に各1度航海しました。そして、将来は沖縄を米国の軍事基地にしようと目論んでいました。ペリーは沖縄の基地問題の源流なのです。

       

      ペリーは琉球と琉米修好条約を締結しましたが、交渉が決裂した場合は、軍事力で琉球を制圧するつもりでした。ペリーは琉球王府にとって、大変危険な人物だったのです。

       

       

      ペリーの意図を察知していた琉球王府は、ペリーを国王に合わせたり、首里城内に招き入れることで生じるリスクを極力避け、一方で、ペリーの機嫌を損ねない工夫をしました。

       

      そこで、休憩所として使用していた大美御殿を「摂政の屋敷である」と嘘をつき、宴会場に仕立てたのでした。

       

      王国から丁重な扱いを受けたと勘違いしたペリーは大いに喜び、随伴の絵師にその様子を描かせました。

       

       

      絵のタイトルは「DINNER AT THE REGENTS LEW CHEW(琉球摂政邸での歓待)」。

       

      ユー・シッ・タイ・ヤサ!!

       

      琉球王府だって、やる時はやるんです(笑)

       

      (続く)


      中城グスクで見つかった謎の刻印石

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        先日、中城グスクで、護佐丸が転封する前の城壁を見てきました。今から600年前の城壁です。

         

        その古い城壁の積み石に刻印(写真の石では、赤くマークされたL字)が多数見つかっています。これを刻印石と呼びます。

         

         

        ヤマトでは大阪城など各所で見つかっているそうですが、沖縄では首里城に続いて2例目。何種類もある記号が何を意味するのか、それがまったく分からないそうです。謎です。謎。

         

        単なるキズという可能性もありましたが、中城村によると、表面の粗さが刻印とキズではまったく異なり、人為的に刻んだものに間違い無いとのこと。

         

        ヤマトでは各地の大名が積み石を寄進する際に付けたマークという見方もあるそうですが、もしそうだとしても、それで全てが説明できるわけではないでしょう。

         

         

        中城村は、刻印石の記号をすべて記録するとともに、城壁における刻印石の位置をマッピングするそうです。

         

        首里城で刻印石が見つかったのは、沖縄戦で爆破された後の城壁から。一方、中城グスクの刻印石は150年程前に築かれた新しい城壁の内側に、完全な姿で残っていた古い城壁から。これでは情報量がまるで違います。

         


        それで、刻印石の位置が適度にバラついていれば、これは城壁の強度を保つための要石ではないかとか、集まっているのなら、やはり寄進した者が刻んだのではないかとか、あーでもないこーでもないと。


        いやぁ、楽しそうです(笑)。

         

         

        この刻印には宗教的な意味があるんじゃないかと私は予想します。第一尚氏の時代に既にノロはいましたから、ノロから指示された積み石に指示された記号を刻んだのではないかと。そのことで、積み石に霊力が備わり、決して崩れず、敵を寄せ付けない城壁になると(^^)

         

        イメージの話ですが、例えば、首里の松山御殿の庭にある世果報御井小(ゆがふー・うんかー・ぐわー)と、

         

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        指司笠樋川(さしかさひーじゃー)

         

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        こうした古く由緒正しい井戸の積み石にも、ひょっとしたら刻印があるような気がします。これは私の予想ですから、間に受けてはダメです(笑)

         

         

        新聞記事風には「中城村による徹底解明が待たれる」のではありますが、こんな話は、わかったようなわからないような局面が楽しいので、中城村はそのあたりを忖度して、程よい感じの究明をお願いしたいと思います(^^)


        護佐丸が転封する前の中城グスク

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          護佐丸が読谷から中城に転封(国替え)したのは、1440年のことでした。ヤマトでは室町時代。

           

          築城家としても評価が高い護佐丸ですが、築城したのは座喜味グスクで、中城グスクは増改築。両者の佇まいに違いがあるのはそのためです。

           

           

          中城グスク跡で、護佐丸が転封する前の按司(先中城按司)が築いた城壁が見つかったと聞き、見てきました。

           

           

           

           

          白い部分が先中城按司が築いた城壁で、その上の黒い部分は、おそらく護佐丸がかさ上げしたもの。両者を覆う外側の石積みは、1853年にペリーが調査した時には無かった(絵に無かった)もので、近代になって築かれたようです。

           

           

          中城村がその石積み(外壁)を修復する過程で、先中城按司の築いた城壁が見つかりました。つまり、今生きてる人は誰も見たことが無く、修復が終わると二度と目にすることが無い城壁です。

           

           

          首里を北山から守るために座喜味グスクを築き、勝連から守るために中城グスクに転封した忠臣護佐丸は、勝連と首里の軍団にグスクを包囲されて自害を決意します。この白い城壁はその時のもの。私達がモノではなく、そのストーリーに想いを馳せるからこそ、古い城壁に心を動かされるのだと思います。

           

          沖縄の行政は古いモノを壊し、新しいモノを一から作ろうとします。古いモノをなんとか活用して、ストーリーを感じさせる都市景観を造って欲しいといつも思いますが、県庁や那覇市役所の庁舎を見るにつけ、それは無理だろうなぁとため息をつくしかありません。


          農連プラザをいくら案内しても、農連市場の歴史は説明できません。てば。


          公事清明祭(クージヌシーミー)

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            沖縄は清明祭の季節です。

             

            先週、玉陵では尚家の清明祭が40年ぶりに、しかも琉球王朝時代の古式に則って行われたようです。

             

            途絶えていた清明祭を40年ではなく、140年前に遡って復活させるって、いったいどうしたのかと思ったら、その答えは伊是名島にあったんですね。

             

             

            伊是名島は第二尚氏の始祖である尚円王が生まれた島で、伊是名玉陵には尚円王の両親らが眠っています。

             

             

            琉球王朝の末期。琉球王府は伊是名島の銘苅家に公事清明祭を行うように命じ、什器などの道具一式と、清明祭の手順を記したマニュアルを与えました。そのマニュアルが「伊是名銘苅家文書(もんじょ)」。

             

            伊是名島ではその文書に従って、公事清明祭を行ってきました。

             

             

            清明祭にはつきものの重箱が見あたりませんが、元々重箱は弁当箱ですからね。公事清明祭では、一皿一皿に料理を盛り付けます。

             

            文書に記載された料理の種類と位置。一枚目が上の写真の左側。二枚目が右側です。

             

             

             

             国宝級の什器が使用されていたものの、痛みが激しく、最近は新しい什器に更新されたようです。

             

            先週、玉陵で行われた尚家の清明祭は、伊是名島の公事清明祭に習ったということ。これは、公事清明祭を引き継いできた伊是名島の皆さんと「伊是名銘苅家文書」のおかげです。

             

             

            何事も記録に残すことは大切ってことが良く分かるニュースでしたが、大切な記録を捨てたり改竄したりしても平気な男がヤマトにいますね。爪の垢を与えるのも惜しいので、伊是名の浜の砂でも食わせればどうでしょうね。


            うりずんの糸数グスク

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              暑い日が続いていた沖縄でしたが、今日は最高気温が20度ほどで、気持ちの良い一日でした。それはうりずんの気候。どこかに出かけたくなったので糸数グスクに向かいました。

               

              東側の頑丈な城壁と、

               

               

              その内側。

               

               

              城壁を登って来る敵兵を、この出っ張りから左右方向に撃ちます。

               

              そして、城壁内側を兵が移動するための武者走り。

               

               

              大手門から城内に入りましょう。

               

               

              城門の切石積みが厚いこと。

               

               

              城内に入り、城廓のあった場所から東側の城壁を見上げます。

               

               

              そうなんです。自然の絶壁により防御に優れた西側に比べて、東側は城内が城外より低く、グスクの大きな欠点でした。そのため、糸数按司は東側に頑丈な城壁を築いたんですね。

               

               

              糸数グスクを攻めた上間按司の兵は東側の城壁を登ることはせず、空気が乾燥し、東風の強い日に火を放ちました。

               

              糸数グスク陥落にまつわる二つのお話(2) 

               

              高い位置から次々に投げ込まれた火により城廓は燃え上がり、糸数グスクはあっけなく落城してしまいます。

               

              最近の調査で東側の城壁をより頑丈にするための工事跡が見つかりました。それは糸数按司の「怯え」の表れでもありました。城壁のはるか上空を飛んで来る火を見た時に、糸数按司は落城を覚悟したことでしょう。

               

              この城壁を「あだ花」と呼んでしまうのは失礼でしょうが、「実を結ぶことなく、はかなく散り去る花」と言われれば、その通りに思えます。


              首里城から延びる道(9) 国頭・中頭方西海道1

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                首里城を起点とする五本の宿道を歩く。三本目は国頭・中頭方西海道です。

                (国頭・中頭方西海道)
                久慶門、龍淵橋、松崎馬場、当蔵カジマヤー、安谷川御嶽、平良橋


                スタートは久慶門。



                美しい御門です。左右の城壁が羽根を広げたように見え、その姿に胸がすく思いがします。

                いや、実に美しい。


                円鑑池(えんかんち)に沿って、龍潭に下ります。

                円鑑池の天女橋(てんにょばし)と、

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                龍潭への水路に架かる龍淵橋(りゅうえんきょう)。



                かつて、国内最古の石造アーチ橋は長崎眼鏡橋(1634年架橋)でしたが、琉球が日本に併合された日から、最古の石造アーチ橋は天女橋と龍淵橋になりました。

                二つの橋が同時に造られたのは1502年。長崎眼鏡橋の架橋より130年も前のことでした。


                龍淵橋をアップで撮りました。



                アーチを構成する石材を迫石(せりいし)と呼びますが、龍淵橋の迫石は左右に一つずつ。アーチの頂点が迫石の接点となる合掌形です。

                これはつまり、グスクの城門。いくつもの迫石を半円形に積み、アーチ頂点に楔石を打ち込む形式とは異なります。



                「じゅあ、楔形の石造アーチ橋では長崎眼鏡橋が最古じゃん。やっぱ、石造アーチ橋と言えば楔形でしょ。」

                と言いたいでしょうが、国内最古の楔形石造アーチ橋は浦添の安波茶橋。架橋は1597年のことでした。

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                フッフッフ。

                まあ、どっからでもかかって来なさい(笑)


                この時代、文化の流れはすべからく西から東。長崎眼鏡橋が大和の西端にあることは偶然ではありません。

                国頭・中頭方西海道を歩けば、歴史的石造アーチ橋トップ3を体感できます。


                さて私は、龍潭東岸を歩きたいのですが、遊歩道が通行止め。仕方ないので西岸を歩きます。



                龍潭の東岸から突き出た小さな半島には松が植えられ、松崎と名付けられました。



                冊封使を歓待する爬龍船競漕の際には、ここに桟敷き席が用意され、その後方には松崎馬場がありました。


                龍潭をぐるっと周り、龍潭通り側から馬場跡へ入ろうとしましたが、県立芸大の敷地ってことで通行止め。門の位置から写真に撮りました。



                松崎馬場は私の位置から、写真左奥の森に向かって延びていたようです。石垣が見えているので、あそこまで行ってみたいのに、「関係者以外おことわり」って貴方。芸大は松崎馬場の関係者なんでしょうか。

                松崎馬場は、石灰岩を細かく砕いて舗装され硬く締まっていたそうで、今も当時のまま地中に眠っています。

                そのうち馬場が復興されるでしょうから、馬場と関係の無い芸大は、この門を後ろに下げなさい。


                宿道は首里城を出て龍潭通りに出ました。当蔵カジマヤーと呼ばれる交差点です。

                (続く)


                首里城から延びる道(4) 真珠道3

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                  真珠道について2本の投稿をしながら、まだ私は首里城の中。この調子では真珠道だけで年が明けてしまいます。

                  私は随分前に真珠道のマップを作成し、投稿しました。



                  そして、真珠道を幾つかのパートに分けて紹介しています。沖縄に来て間もない時期で内容の薄さは否めませんが、真珠道の基礎コースにはなっているでしょう。

                  真珠道を歩く(1) 金城橋〜識名坂
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                  真珠道を歩く(2) 真玉橋〜石火矢橋
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                  真珠道を歩く(3) 識名坂上〜識名宮
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                  真珠道を歩く(4) 山下南〜小禄
                  20110310193124_0.jpg

                  真珠道を歩く(5) 首里城〜赤マルソー通り
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                  その後、冒頭のマップを読者から求められ、拡大版を投稿しています。

                  真珠道マップをどうぞ

                  このマップは、石火矢橋から小禄までのルートが欠落していますが、後にわかりましたので、ここで追記します。



                  石火矢橋を渡った真珠道は、豊見城グスクを迂回するルートと城内を抜けるルートに分かれていたんですね。

                  当時の豊見城グスクは機能していて、必要があれば城内に入り、屋良座森グスクに直行する場合は迂回したようです。


                  それにしても豊見城グスクは立派なグスクだったようです。広い敷地と三層の城壁。城門は北と南に2ヶ所と、城内に一つ。次の写真は城内の門だそうです(今は無い)。



                  城壁の一部は残っているそうですが、私有地のため城内には入れません。

                  いや、入れます(笑)

                  城内の御嶽で拝みをする人は出入りできるそうですからね。

                  だから私が、

                  「拝んできましょ〜ね」

                  と言えればいいわけです。

                  最近、「あんたもウチナーンチュみたいな顔つきになってきたね」と言われることが増えましたが、半分はお愛想。

                  私の「拝んできましょ〜ね」は通用しないのですよ。たぶん。

                  (真珠道は終わり)


                  首里城から延びる道(3) 真珠道2

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                    坂本万七写真集「沖縄・昭和10年代」に収録されている守礼門です。



                    坂本万七さんは戦前の「沖縄の風景」を数多くの写真に収めています。

                    真玉橋(まだんばし)

                    __.JPG

                    石火矢橋(いしびゃーし)

                    20110226124912_0.jpg

                    いずれも真珠道の通る橋です。


                    先ほどの守礼門の写真に戻ります。

                    守礼門の先の右手に見える石造物を石門(いしじょう)と呼びました。今はありません。



                    そこが真珠道の起点です。


                    今朝の守礼門です。



                    緑色のカバーが施された正方形のスペースに、戦前まで、真珠湊碑文がありました。



                    碑文は石室の中にあり、石室の開口部は右を向いていました。その左手に2メートルほどの間を空けて同じような石室があり、そこに国王頌徳碑文がありました。その石室の開口部は左。

                    すると、二つの石室の壁が並ぶことになり、それが石門のように見えたんですね。

                    真珠道は二つの石室の間に挟まれた石段を上ることで始まったのでした。


                    次の写真は綾門大道(あやじょううふみち)の発掘調査を行っているところ。二枚上の写真と同じアングルで、奥に守礼門が見えます。



                    真珠湊碑文のあった場所(左上)で男性が作業しています。

                    守礼門に向かう綾門大道と排水溝がわかりますね。その排水溝を跨いで左手に向かう石畳道が1メートルほど露出しています。

                    嗚呼、おいたわしや。真珠道の起点です。

                    「もっと左手に掘り進みなさい!!」と言いたい(笑)

                    やはり、本物の首里城は地中に埋まっているんですねぇ。


                    真珠道(地中ですが)を少し進むと、島添ビラ(シマシービラ)の入口があります。



                    今は、この場所が真珠道の起点と思われていますね。

                    そこから守礼門方向を振り返ります。



                    この車道の歩道部分が、概ね、真珠道と重なっていると考えて良いでしょう。


                    話は変わりますが、この車道は守礼門の後ろや円覚寺の前を抜けて、龍潭通りに繋がっています。以前は車で通り抜けることができました。

                    首里城を車から見える場所は案外少なく、龍潭の脇から数秒見える程度です。首里城をゆっくり歩く時間が無い観光客にとって、先ほどの車道は便利でした。夜は首里城のライトアップが美しく「まあ素敵」と喜んでいただけたものです。

                    ところが、数年前から通行止めになってしまいました。そもそも首里城に無かった車道を造っておきながら、今度はそれを通行止めにする。

                    「何しとんねんっ!!」

                    と言いたい。

                    通行止めにした理由は知りませんが、交通整理が面倒くさくなったのではないかと思います。そんなことなら、最初から造らなけりゃあいいのに。

                    「真珠道を元どおりに戻せ!!」

                    と言いたい。


                    真珠湊碑文と国王頌徳碑文のレプリカを本来の位置に戻す予定があるそうですから、その時は車道を無くして、真珠道を掘り返していただきたい。

                    ボロクソに言っておきながらではありますが、何卒、よろしくお願い致します。m(__)m


                    首里城から延びる道(2) 真珠道1

                    0
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                      首里城を起点とする五本の宿道を歩く。最初は真珠道です。

                      (真珠道)
                      真珠湊碑文、島添ビラ、金城町石畳、金城橋


                      真珠道の起点は真珠湊碑文(まだまみなとひもん)。沖縄戦で失われましたが、首里城の首里杜館(すいむいかん)前の公園にレプリカがあります。



                      左手が国王頌徳碑文(こくおうしょうとくひもん)。

                      「首里おきやかもいかなしの御代に、ミやこよりち金丸ミこしミ玉のわたり申候時にたて申候ひのもん」

                      第二尚氏王統の第三代国王尚真の神名が於義也嘉茂慧(おぎやかもい)。加那志(かなし)は様ですね。宮古島から(宝剣)治金丸と真珠が献上された際に建てられた碑文とあります。

                      そこには、尚真王が立派な王だということが記してあります。

                      何が立派かと言うと、それまでの王は、自分が死んだ時に家臣を同道させていたが、尚真王はそれを禁止させたと。

                      同道って、グソー(あの世)に同道させるってことです。

                      うぇ〜!!

                      無茶苦茶しますねぇ。

                      尚真王はそれを「非道の義」と見なしたと。

                      そりゃそうでしょ。

                      ところで、同道させる家臣はどうやって選ばれたのか。

                      王の言うことを良く聞いて、真面目に仕事をした家臣が選ばれたのか。王の言うことをまったく聞かず、「こいつは生かしておいても役に立たんな」と思われた家臣が選ばれたのか。

                      真面目にやってもやらなくても殺されたってことじゃないですか。_| ̄|◯

                      それは非道と言うより、極悪非道。よくもまあと思ったら、この碑文には「男女とも競いすすんで同道し、その数二、三十人に及ぶ」と記されています。

                      「本当かっ!!」と言いたい。


                      呆れかえりますが、気を取り直して真珠湊碑文に進みましょう。





                      「首里の王、おきやかもいかなし天のみ御ミ事に、ま玉ミなとのミちつくり、はしわたし申候時のひのもん」

                      尚真様のご命令により、真玉湊の道をつくり、橋を渡した時の碑文とあります。

                      有事の際はこの道を通り那覇港を守れと。


                      さて、国王頌徳碑文と真珠湊碑文のレプリカは首里杜館(つまり駐車場の上)前の芝地にありますが、そこが真珠道の起点のはずがありません。

                      真珠道の起点を守礼門の近くで見つけました。

                      (続く)


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                      念願の沖縄生活を始めて8年になりました。
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