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さて、人間国宝の故 安部榮四郎さんは弟子を持たないことで有名だったそうですが、あまりの熱意に折れ、生涯、たった一人だけ、弟子入りを許した人がいました。
その方が、(2)で紹介した、神奈川県生まれの故 勝公彦さんだったのです。
正倉院で発見された芭蕉紙の製法を探るべく、勝さんは沖縄へやってきました。ところが、芭蕉の紙漉き技術を有する人物はもちろん、それを記した文献も無く、当時二十代の勝さんは、自ら芭蕉紙を復興することを決意したんですね。
沖縄に移り住んだ勝さんは、さくの川下流の、つまり、琉球王府の芭蕉園があった土地に居(て言うか小屋)を構え、芭蕉紙の復興に没頭しました。
ところが、草から紙を漉くことは予想以上に難しく、芭蕉はさっぱり紙になりません。
ある日、勝さんは、大宜味村喜如嘉(きじょか)に、重要無形文化財「芭蕉布」の保持者、平良敏子(1921-)さんを訪ねました。

勝さんとの議論の中で、平良さんが「ひょっとしたら、これじゃないの?」と手にしたのは、芭蕉布の製造過程で生じる繊維屑でした。
これが、正解だったんですね。
ヤマトと沖縄、二人の人間国宝から助言を得て、勝さんの熱意は実を結びました。40歳の若さで他界した勝さんは、生涯をかけて、芭蕉紙の復興を果たしたと言えます。
さくの川を訪ねる機会があれば、その下流の谷を、是非、眺めてみて下さい。そこは既に住宅地になっていますが、わずかに残された緑地に、風になびく芭蕉が見えますよ。