沖縄軽便鉄道弾薬爆発事故

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    沖縄戦前年の1944年12月のこと。大量の弾薬やガソリンを積んだ8両編成の沖縄軽便鉄道が大爆発を起こし、220人が死亡する事故がありました。

     

    2005年のJR福知山線の脱線事故では107人が亡くなりましたが、その2倍。おそらく国内最悪の鉄道事故だと思います。私はこのような事故があったことを、これまでまったく知りませんでした。

     

     

    事故現場は軽便鉄道糸満線の喜屋武駅から稲嶺駅へ向かう途中でした。そのすぐ近くにあるファーマーズマーケットの「軽便駅かりゆし市」は稲嶺駅にちなんだ名前です。

     

    糸満線は国場駅を出た後、急勾配を避けるために東へ大きく迂回していましたが、それでも稲嶺駅に近づくにつれて勾配はきつくなっています。

     

    幸之一カーブを走ってみた(1) 

    幸之一カーブを走ってみた(2) 

    幸之一カーブを走ってみた(3)

     

     

    事故の原因は無蓋車(屋根の無い貨車)にガソリンや弾薬を積んだことにありました。機関車から火の粉が飛び、それがガソリンに引火したんです。

     

    列車が燃え始めたのを見て、多くの乗客は地面に飛び降りましたが、不運なことに付近のサトウキビ畑に大量の弾薬が野積みされていて、それが大爆発を起こしました。そして、わずか3人だけが生き残りました。

     

     

    今年6月。この鉄道事故の調査報道が日本テレビ系列で放送されました。その番組を今観ることはできませんが、他の番組にその一部が取り上げられていました。

     

    次の動画の9分30秒あたりから14分あたりまで。



    現場を訪ねた生存者と清水潔さん。清水さんは調査報道の第一人者です。

     

     

    清水さんは独自の調査で事故現場を特定していましたが、生存者にはそのことを言わずタクシーを走らせました。そして生存者が「あっ、ここだ」と声を出した場所が清水さんが特定した場所だったのです。

     

    そして「あぁ、このお婆さんの言うことは信憑性が高い」と。調査報道とはこういうことなんですね。

     

     

    もちろん、私も(笑)

     

     

    現場は稲嶺駅に向かう最後の急勾配。馬力の小さな軽便鉄道が喘ぎながら登ってゆく様子を想像してみました。

     

     

    輸送中にガソリンや弾薬を爆発させるなんて大失態です。沖縄の第32軍はこの事故を大本営には報告せず、緘口令を敷いたとのこと。事故があまり知られていないのはそのためでしょう。

     

    こちらは、事故を起こした列車の運転士の社員証。体調不良の運転士の代わりに乗務して事故に合いました。6年前、遺族が社員証を発見し、現在は与那原駅舎展示してあるようです。

     

     

    先ほどのお婆さんは事故当時15歳。社員証の運転士は18歳でした(泣)


    軽便鉄道那覇駅の転車台

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      軽便鉄道那覇駅の転車台です。那覇バスターミナルの建設工事中に発見されたもので、ターミナルの外へ移して保存、展示されています。

       

       

       

      転車台は機関車の向きを変える設備で、現役時代の写真が残っています。動力は無く、人力で回転させていたようです。

       

       

      軽便鉄道の施設は沖縄戦で破壊され、戦後の開発で駅舎はもちろん、レールも枕木も除去されたため、ほとんど何も残っていません。この転車台は軽便鉄道最大の遺構と言えます。

       

       

      新聞によれば、これが軽便鉄道唯一の転車台だそうです。そう言われて気がついたんですけど、嘉手納、与那原、糸満の各終着駅ではどうやって機関車の向きを変えてたんでしょう。

       

      こちらは与那原駅のジオラマ。那覇から到着した機関車は右を向いてますから、那覇へ向かうには左を向く必要があります。

       

       

      転車台が無いのなら、ジオラマの右手にこんなデルタ線が必要です。

       

       

      各終着駅にデルタ線があったなんて、聞いたことがありません。いや、聞いたことはあったけど覚えていないのかもね(^^)

       

      デルタ線は、列車を連結したまま向きを変えるためのもの。軽便鉄道の客車は向きを問わないはずなので、機関車の向きを変えるための、小さなデルタ線があったのかもしれません。

       

       

      二十歳前後をピークに記憶力は緩やかに下降しています。いくら緩やかでも40年も経てば、情報を次々に記憶することは無理。だけど、こうして疑問に思っておけば、それが解決した時に、答えが記憶に残るのよね。


      QAで覚える(^-^)/

       

      「大変だね」と思った貴方。貴方もまた緩やかに坂道を下っているわけだからね。すぐよ、ほんと、すぐ(笑)


      軽便那覇駅の転車台が見つかったか?

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        那覇バスターミナル跡の建設現場で、軽便那覇駅の転車台が見つかったようです。

        この写真は、先月撮ったものですが、左手の仲島大石の手前、つまり、バスターミナルの外周道路からモノレール旭橋駅前の歩道のあたりに埋まっていました。



        次の写真は戦前の軽便那覇駅です。



        右手の建物が駅舎。右手から順に、与那原線、嘉手納線、糸満線のホームがありました。

        その左手前。材木が転がってる先に、転車台の外周リングが見えます。


        次の写真は、戦後の那覇駅。



        戦火で駅舎は失われましたが、客車が転車台に乗っています。戦争で破壊されずに残ったのですね。

        後に、那覇駅は那覇バスターミナルになりましたが、転車台はそのまま埋められたのでしょう。

        今、転車台はブルーシートで覆われ、調査を待っているとのこと。高層ビルの建設は多少遅れるでしょうが、きちんと調査をして、できれば、その一部を(全部ならなお良し)保存してほしいものです。


        次の写真は那覇駅の駅舎を正面(南側)から撮ったもの。



        左半分は駅事務所で、右半分が待合室でした。待合室には売店があったそうです。中央奥に改札口が見えてますね。

        屋根は赤瓦だったそうで、いや〜、カラー写真で見てみたい。


        軽便那覇駅の痕跡は何一つ残っていませんでしたから、転車台の発見は画期的と言えます。

        他にも何か出てくるかもしれないので、高層ビルを建設している皆さんには、慎重な工事をお願いします。


        当然、見学会はありますよね。

        早くやってちょうだい(笑)


        新城集落のジオラマ(3) トロッコ馬車軌道跡

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          現在の新城集落は、戦後、普天間飛行場から押し出された新しい集落で、古い道筋は残っていません。

          一方、新城集落西隣の喜友名(きゅうな)は、普天間飛行場の建設からかろうじて逃れ、戦前から続いている集落です。


          軽便大山駅から坂道を登ってきたトロッコ馬車の軌道は、喜友名で新城・普天間方面と宜野湾・我如古方面に分岐しました。

          新城集落に軌道跡は残っていませんが、喜友名集落には残っているはずです。

          で、こちらのお方は、喜友名の村獅子さん。



          なかなかの男前です。




          この獅子の左手を抜けるスージ。これがトロッコ馬車の軌道跡です。

          獅子の位置が変わってなければ、そのすぐ横をトロッコを引いた馬が歩いていたことになります。だから、獅子はそれを知っています。


          では、私も歩きます。

          この分岐は右へ。



          次の分岐は左へ。



          そして、軌道跡は普天間飛行場の中に消えてゆきました。




          で、何が楽しいのかって話です(笑)

          そう思われても無理はありませんが、戦争で何もかもが破壊された沖縄で、昔を偲ぶには、いくらかの知識と想像力が必要です。逆にそれがあれば楽しくなります。


          喜友名集落は宜野湾の高台(つまり普天間飛行場)の西端に位置し、北谷の海がよく見えます。軽便大山駅からの急坂はトロッコを引く馬にとって、厳しかったはず。

          と思ったら、荷物を積んで下り、空で登りですから、小型の馬でも大丈夫だったかもしれません。逆に、サトウキビを満載したトロッコのブレーキは、オヤジ一人の力でなんとかなったんでしょうか。下手なオヤジだと、トロッコが馬のケツにぶつかりはしまいかと心配です。

          まあ、たいした想像力ですねぇ(笑)


          軽便大山駅の古い写真があります。



          沖縄戦の後、乗馬を楽しむ米兵が写っていますね。ひょっとすると、これがトロッコを引いていた馬かもしれません。

          この写真を撮った直後、馬が線路の枕木に蹴つまずき、振り落とされ悶絶した米兵は「にっ、二度と馬では遊ばないっ!!」と叫んだそうです。

          アハハ、ざまぁみろ(笑)


          まあ、最後のは作り話ですがね(笑)

          (続く)


          軽便鉄道「一日橋」の橋脚跡

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            先日、過去の沖縄県営鉄道(軽便鉄道)に関する投稿をまとめたところ、たゆさんから、一日橋の橋脚跡が残っていたはずと、コメントをいただきました。

            一日橋の橋脚は消滅したと聞いていましたが、念のため確認しましょう。

            ありました。



            この写真は、一日橋の南風原側から上間交差点側を撮ったものです。

            ズームすると。雑草に隠れそうになってる橋脚跡(レンガ)が見えます。




            橋を渡って、上間交差点側から覗いてみました。



            ズームすると。



            赤いレンガが確かにあります。これは間違いなく軽便鉄道「一日橋」の橋脚です。


            沖縄自動車道那覇ICに向かう県道82号線や、那覇東バイパスの開通で、上間交差点は交通量の多い大交差点になりました。

            では、戦前の上間交差点はどうなっていたのか。



            もちろん、県道82号線も那覇東バイパスもありません。

            識名から急坂を下りてきた道(現存しますね)が、真っ直ぐ国場川を越えて、それから与那原方向へ向かっています。

            つまり、旧一日橋は現在の一日橋より南に架かっていたことになります。上間交差点東南角にあるホンダの裏あたりです。

            一方、赤線で示した軽便鉄道与那原線は、西の国場方面から、道路と平行して道路の南側を走っています。

            上間交差点の西南角あたりに一日橋駅があり、道路を跨いだ後で国場川を渡ります。

            現在の一日橋は、かつての鉄道橋だったということ。鉄道橋があった場所に国道橋を架け、新しい河岸の傾斜に合うように、鉄道橋の橋脚を削ったんです。


            ムカつく(笑)。

            「失礼やろっ!!」と言いたい。

            鉄道橋に対する敬意のカケラも無いやないの。

            これまでに見た軽便鉄道の遺構には、「おお、こんな所にいたのか。よく残っていたな。」と、懐かしいような気持ちになったのに、一日橋では、哀れな気持ちにしかなりませんでした。

            コンクリートの節約に橋脚を使いやがって。こんな残し方をするくらいなら、いっそのこと、橋脚が見えないように、コンクリートを塗ってくれたほうがマシです。

            冷たいよなぁ、やることが。ったく。


            沖縄県営鉄道(軽便鉄道)まとめ

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              二つ前の投稿で、軽便鉄道の遺構巡りはほぼ終わりです。

              そこで、軽便鉄道の投稿をまとめました。軽便鉄道に興味がある方は、ご利用下さい。


              [1]嘉手納線

              沖縄の軽便鉄道(1)壺川〜古波蔵






              軽便鉄道の枕木(楚辺)


              沖縄の軽便鉄道(2)屋富祖
              __.JPG

              大山ターブックヮの営み(2)
              20110814135747_0.jpg


              [2]与那原線

              沖縄の軽便鉄道(3)大里、国場




              軽便鉄道の枕木(国場)


              復元された軽便鉄道与那原駅



              [3]糸満線

              幸之一カーブを走ってみた(1)
              幸之一カーブを走ってみた(2)
              幸之一カーブを走ってみた(3)




              糸満市与座の散歩(3) 軽便高嶺駅跡


              南城市大里「軽便駅かりゆし市」


              軽便糸満線の三角橋



              [4]書籍、資料

              辻真先著「沖縄軽便鉄道は死せず」


              ゆたかはじめ著「沖縄の鉄道と旅をする」


              軽便鉄道の時刻表が見つかった!!


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              軽便鉄道糸満線の三角橋

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                軽便鉄道の数少ない遺構のうち、一ヶ所だけ見ていない場所がありました。

                それが、糸満市照屋に残る通称三角橋です。





                まったく分かりづらいのですが、三角定規の形をしたコンクリートの構造物が、左右二枚あり、定規に挟まれた雑草部分が用水路に架かる橋になっています。



                二枚の三角定規ですが、右手は手前が垂直で、左手は橋の向こう側が垂直です。

                右手の定規に近づいてみます。

                手前の定規の奥に、もう一方の定規の頂点が見えていますね。



                なんなんすかね、これは。


                航空写真を見ましょう。



                ピンの位置が三角橋。左手は照屋東交差点です。

                ピンの位置から右上に抜ける道と左下に抜ける道。それが、軽便鉄道糸満線跡です。

                最初の写真でもわかりますが、三角橋の付近は窪地になっています。そのため、現在の県道から県道までの間を築堤し、その上に線路を敷設したようです。

                つまり、三角橋は築堤が用水路を跨ぐためのもの。定規の部分は橋の欄干ではなく、築堤の擁壁なのです。


                で?

                それが何故、四角ではなく三角なのか。何故、左右の定規が反対向きなのか。このスタイルが擁壁能力を向上させるってことなのか。

                私にはさっぱりわかりません。

                これは橋梁か築堤の技術者でないと。


                あっ!!

                「いなちち」のパパが橋梁技術者だったが・・・。

                彼は読んでくれているのか?

                読んでたら、教えてちょうだい。


                それから、線路跡が直進しているにも関わらず、三角橋は微妙に角度がついてるのよねぇ。つまり、用水路に直角に架かっています。

                それだと線路は緩やかなS字になってしまうが。

                何で線路が直進できるように橋を架けなかったのか。

                これまた、不思議です。


                三角橋を取り上げてるブログは沢山あるのに、私と同じような疑問を感じた人は、誰一人いない模様です。

                何で気にならないのか。


                イライラする(笑)。


                あっ、そうそう。

                三角橋から県道7号線を渡った先にあるJAいとまん。



                ここの駐車場が、かつての兼城駅跡です。兼城駅の次は糸満駅で、軽便鉄道糸満線の終点です。


                復元された軽便鉄道与那原駅

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                  沖縄県営鉄道(軽便鉄道)与那原線が営業を始めたのは1914年のことでした。

                  今年の1月、軽便鉄道開通100周年事業として、与那原駅が復元されました。事業主は与那原町です。



                  沖縄戦で軽便鉄道が失われて70年。復元された与那原駅には軽便鉄道30年の記録が展示されています。


                  開設時の駅舎は木造でした。



                  その後、1931年にコンクリート造りに建て替えられています。


                  (手前の線路は与那原・泡瀬間の馬車軌道。軽便鉄道の線路は駅舎の裏です。)

                  そして、沖縄戦直後の無惨な姿。



                  この駅舎を、与那原町やJAおきなわが、つい最近まで使っていたんです。



                  破壊され尽くしたかに見えた駅舎でしたが、きちんと修理すれば生き返るものなんですね。

                  そして、この度、JAおきなわが使用していた建物(旧駅舎)を取り壊し、与那原駅を新築・復元したということ。

                  以上が、これまでの経緯です。


                  さて、復元された与那原駅の中はどうなっているのか。私は、軽便鉄道の枕木が見つかったと聞けば、すぐに見に行くほどの軽便鉄道ファンです。

                  軽便鉄道の枕木(楚辺)
                  軽便鉄道の枕木(国場)

                  では、与那原駅が復元されると聞いて、オープン初日の入口に立っていたかと言えば、私にそんな気は、まったくありませんでした。

                  年表があって、ネットで拾える程度の写真があって・・・。そんな想像がつきましたからね。そして、まさにその通りの展示内容でした。

                  コンテンツが乏しいのなら、駅舎内も復元して欲しかった。切符売り場、待合室のベンチ、改札、ホームの一部。


                  いや、それが難しいことは私にもわかりますよ。沖縄戦で資料や図面が失われ、当時の与那原駅を知る人は高齢化していますからね。

                  しかしそれは、準備不足というだけのこと。ハコを造ることを決めた後で、コンテンツを集めようとするのは本末転倒です。駅舎の復元を決めたのは2年前と聞いていますが、本来、資料を集め、利用者の証言を集める作業は10年単位の時間がかかるはずです。

                  厳しい言い方ですが、10年、20年前から与那原駅を復元するプランがあり、相応の準備をしていたら、今とは違った展示内容になっていたはずですね。


                  ちょっといい話もあります。今回の復元工事の過程で、軽便鉄道の線路が見つかったんです。駅舎のすぐ裏です(当然ですが)。



                  このシートの下はこうなっています。



                  線路が敷設された状態で残っているのはここだけ。与那原駅復元事業は二期工事が予定されていて、この場所は公園になるようです。

                  是非、ホームを復元していただきたいですねぇ。


                  一括交付金は、まず総額が決まり、それが沖縄県内の市町村に分配されます。

                  その額に応じて、市町村が事業内容を決めるわけですが、翌年も一括交付金を受けようとすれば、当年度の交付金をなんとか使い切る必要があります。

                  この手順では、やはりハコモノが増え、中身が後から追いかけるかたちになります。

                  私が「あれっ」と思った事業は、概ね一括交付金事業でした。与那原駅復元事業もそう。

                  一括交付金は、本当に沖縄のタメになってるんかな、と思いますね。


                  どうよ。駅前のおっさん。




                  幸之一カーブを走ってみた(3)

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                    鉄道跡は舗装道路に戻りましたが、道幅は当時のままのようです。



                    そして、広い道路に合流しました。



                    広くなった道路をやや進んで振り返ると、黄金森が見えました。



                    陸軍病院壕跡や、ひめゆり学徒が水や食料を運んだ「飯上げの道」が残っている森です。


                    鉄道跡は右へ右へとカーブしながら登り坂になりました。ようやく、丘陵地を越えるようです。




                    切り通しが見えてきました。



                    もう一度振り返ると、遠くに運玉森が見えました。



                    糸満から那覇に向かう列車は、坂を登ってきて、ここからは下り坂。運転手はホッと一息ついて、この景色を眺めたと思います。


                    そして、幸之一カーブの最高地点に到着です。糸満線全線でも、最も高い場所かもしれません。初めて左カーブになり、幸之一カーブはお終いです。




                    次の写真のストレートは、軽便駅かりゆし市のすぐ近く。線路跡ではありません。



                    今はサトウキビの収穫期。あちこちでウージトーシ(倒し)をやってました。

                    サトウキビ畑を真っ直ぐに貫く道を1区画進んで左折すると、軽便駅かりゆし市の裏手にでます。



                    ここが、かつての稲嶺駅跡。山川駅跡からわずか3.5キロの短いドライブでした。

                    (終わり)


                    幸之一カーブを走ってみた(2)

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                      大城幸之一は、糸満線建設当時の県議会議員です。彼の地元に鉄道を通すため、政治力で糸満線を迂回させました。それで、この迂回部分を幸之一カーブと呼びます。


                      前方に国道507号線の高架が見えてきました。



                      山川駅跡を出て以降、鉄道跡は長堂川から離れず、川の向こうには、八重瀬町友寄から南風原町神里へかけて、丘陵地が続いています。



                      大城幸之一の政治力で糸満線を迂回させたことは事実ですが、この丘陵地を避ける目的もあったと言われています。

                      馬力の小さい軽便鉄道は、与那原線与那原駅近くの穏やかな坂道さえ、やっとのことで登ったようです。

                      こうして、神里の丘陵地を眺めてみれば、長堂川沿いに鉄道を敷設したことは、遠回りにはなりますが、確かに一理あると思えます。少し東に走って、丘陵地が低くなったら南に向かおうとしたということ。


                      鉄道跡は国道507号線の高架をくぐり、



                      喜屋武駅跡に向かいます。




                      那覇空港道の高架に到着しました。



                      この高架下が、かつての喜屋武駅です。もちろん、影も形もありません。

                      鉄道跡はすぐに高架下を離れ、信号待ちしている車のあたりから、再開します。



                      そこに、幸之一カーブで唯一の未舗装部分がありました。



                      ガードレールは、長堂川に架かる橋です。横からみると、鉄道跡が盛り土され、堤になっていることがわかります。



                      幸之一カーブは、道路として残っていはいますが、その道路は舗装され、拡張されています。

                      ですから、この未舗装部分だけが当時のまま。つまり軽便鉄道の遺構と言えます。

                      (続く)


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