那覇空港が「飛び安里空港」と呼ばれる日は来るのか?

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    週末に南風原町立公民館で開催される劇団「海」の公演を予約しました。

     

     

    演目は「ヒュート誕生物語」。ヒュートは飛勇人で「飛び安里」がモチーフのようです。脚本・演出はFEC仲座健太さん(喜屋武)。

     

    仲座さんとFECただのあきのりさん(与那覇)は昨年南風原町観光大使に就任し、お二人が運営しているYouTube「兼城十字路チャンネル」は私を含めた一部(?)のファンに根強い人気です。

     

     

    先ほどの「飛び安里」は18世紀に南風原町の空を飛んだ人で、町内では金城哲夫さんと並ぶ有名人。

     

    そこで、南風原町の町長や町議会は那覇空港の愛称を「飛び安里(那覇)空港」として欲しいと、沖縄県に陳情しています。

     

     

    空港の愛称は「地域住民にとって身近な存在として、今後の幅広い利用促進や需要喚起が期待される愛称」と国が示しています。

     

    例えば、高知龍馬空港やコウノトリ但馬空港などですね。龍馬と言えば高知、但馬と言えばコウノトリですから国が示す要件を満たしていると言えるでしょう。

     

    問題は沖縄と言えば飛び安里、飛び安里と言えば沖縄と言えるかどうか。県は沖縄本島の各自治体から意見を聞くでしょうが、皆さんやんわりと反対しそうな気がしなくもありません(笑)

     

     

    とは言え、空港の愛称として陳情したり、ヒュート誕生物語を上演したりすることは、飛び安里を広く知らしめることに繋がるでしょう。

     

    私はこれから「ヒュート誕生物語」を観る立場にあり、極力南風原町の意向に沿う内容で投稿してます。皆さんもモノゴトを決めつけた言い方をすることなくですね。そのようにお願い致します(^^)


    南風原町本部の謝名門中宗家

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      FEC仲座先輩のYouTube。最初の数十秒に現れる古民家に注目して下さい(もちろん本編も)。


       

      この古民家に心当たりがあったので買物のついでに寄ってみたら、正解で嬉しい(笑)

       

       

       

      沖縄県の市町村で唯一、南風原町には海がありません。那覇のベッドタウンとして宅地が広がり、それ以外はカボチャやヘチマの畑。

       

      だから長い間、南風原町の観光案内には「飛び安里」と「ウルトラマン」くらいしか書くことが無かったんですよ。

       

       

      南風原町にはいくつかの古い集落があり、楽しく散歩ができます。町役場もやっとそのことに気づいたのか、空き家になっていた本部の古民家を観光コースに組み込み、イベント会場としても使うことにしました。

       

       

      iPhoneの広角レンズが役に立ちます。

       

       

      貯水タンク完備。

       

       

       

      そして、古民家のそばを抜ける「かすりの道」。

       

       

      このタイル状の道を歩くと、チャン(喜屋武)、ティーラ(照屋)、ムトゥブ(本部)を一回りできます。あちこちに琉球かすりの模様が組み込んであり、これはトゥイガー(鳥小)。

       

       

      沖縄を訪れる観光客が一千万人を超えるなんて、私はちょっと腑に落ちないんですよ。実力以上の結果が出てるんじゃないかと。

       

      南風原町には海が無いので、リゾートホテルや人工ビーチに頼れません。だからこそ、今あるモノを整備して、魅力あるコンテンツに仕上げるしかありません。

       

      南風原町には、近い将来、ビーチだけが頼りの他市町村のお手本になって欲しいと思います。


      南風原町照屋集落の散歩(3)

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        南風原町本部集落の石獅子です。

         

         

        石獅子の視線はこうなっています。彼の仕事は八重瀬岳へのフーチゲーシ(邪気返し)。

         

         

        八重瀬岳、ガーナ森運玉森を三火山(ヒーザン)と呼ぶそうです。本島南部の石獅子はそのうちの一つに睨みをきかせてるか、集落の入口で番犬(ではなくて番獅子)をやってます。

         

         

        上の写真の坂道を下ったところが照屋集落。石獅子の視線の先は八重瀬岳なのに、照屋の皆さんが「何でこっちを見てんねん」と(笑)

         

        かつて、照屋と本部は仲が悪かったらしく、本部に対抗して照屋も石獅子を彫りました。

         

        照屋の石獅子(B)です。本部の石獅子へのケーシが彼の仕事です。

         

         

        上の写真は男前な角度で撮りましたが、正面からはこんな感じ。集落の守護神としてどうなんだと思いますね(笑)

         

         

        こちらが照屋の石獅子(A)。かつて本部には2基の石獅子がいたらしく、これで2対2です。

         

         

        沖縄の石獅子がちっとも獅子らしくないのは、当時のウチナーンチュが獅子を見たことが無かったからではないかと(笑)

         

        300年以上前、富盛の石彫大獅子御茶屋御殿の石造獅子が彫られて、以降「それが獅子」ってことになったようです。

         

        琉球石灰岩は脆いので大雑把な彫刻になるし、長い年月のうちに風化が進みます。だからどうしても威圧感の無い表情になってしまいますね。

         

         

        しかし、石獅子は片時も休まずに相手をジッと見ています。視線を逸らすことはありません。

         

        貴方が他の人から、色々な気持ちで、ずっと見られていると想像してみて下さい。その場から逃れたいと思うでしょ?

         

        だからやっぱり、石獅子の行為には意味があるんですよ。と、思います(^^)


        南風原町照屋集落の散歩(2)

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          照屋公民館横の赤瓦の家。

           

           

          寄棟型の屋根は四方向に雨水を流せる上、垂直面が無いので強風に耐えます。台風の多い沖縄では必然の屋根。その屋根を二つ組み合わせて建物に被せたこのお宅は、簡単に言えばリッチなお宅です(^^)

           

           

          さて、次の話題に入るつもりでしたが、一つ前に投稿した琉球絣と三線についてもう少し。

           

          琉球王国は約450年続きました。ヤマトの時代区分では戦国時代から安土桃山、江戸時代に相当します。

           

          琉球は地の利を活かして、朝鮮半島から中国、東南アジアの国々まで、活発な交易を続けていました(大交易時代)。一方、ヤマトはその時代の約半分を鎖国し、他国との交流は極めて限定的なものでした。

           

          文化の風は西から東へ。大陸文化の流入量は、琉球がヤマトを圧倒していたのです。

           

           

          こう言っちゃあナンですが、南風原は田舎で、柔らかく言えば郊外。そこの小さな集落で絣(本部)や三線(照屋)の技法が引き継がれていることは、大陸の文化が琉球に深く根付いたことの証です。

           

          絣の技法は薩摩に伝わって薩摩絣となり、ヤマト全域に広がりました。三線もまた、三味線に姿を変えてヤマトに浸透しました。その時差は百年から百五十年。

           

           

          沖縄は伝統工芸の島。ナイチから来た観光客が「沖縄の工芸品って凄い」と口にします。私はナイチャーなのでよく分かりますが、その言葉には「小さな島なのによく頑張ってる」というニュアンスがあります。

           

          それは大間違い。お弟子さんがお師匠さんにそんなことを言えますか?

           

          学ばせていただきますの姿勢で、「沖縄の工芸品って凄い」と言うことが適当だと私は思います。

           

          (続く)


          南風原町照屋集落の散歩(1)

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            くがに市場で春菊を買った後、南風原町の照屋集落へ寄り道しました。

             

             

            こちらは南風原町の伝統工芸品琉球絣の糸張り場。染色した糸を(織る前に)ここで乾燥させます。

             

             

            主な生産地は隣接の本部集落。

             

             

            美しいです。エレガントです。

             

            絣の技法は14世紀頃東南アジアから琉球に伝わり、琉球の風土に合わせた独自の進化を遂げました。

             

            庶民が身につけることができる絣は無地や縞柄だけ。一方、琉球王府へ納める絣には常に新しいデザインや色彩を求められ、絣の技法は高度に進化しました。言い換えれば進化せざるを得ないのでした。

             

            琉球の風土に合わせた独自の進化とは、忍耐と辛抱強さを兼ね備えた琉球の女性によって成し遂げられたと言えるでしょう。

             

             

            照屋集落の伝統工芸品がこちら。

             

             

            この三線は琉球王朝時代に開鐘(ケージョー)の主座と呼ばれた盛嶋開鐘。尚家に引き継がれ、現在は沖縄県立博物館の所蔵です。

             

             

            琉球王朝の時代。御茶屋御殿に優秀な三線が集められ、弾き比べが行われたそうです。

             

            夜がふけるにつれ音が悪くなる三線が相次ぐ中、明け方の開静鐘が鳴る頃になってもますます美しい音を奏でた三線が五挺ありました。

             

            それを五開鐘と呼び、中でも筆頭に位置づけされたのが盛嶋開鐘でした。

             

             

            三線の胴(チーガー)にはいくつかの種類があり、特殊な共鳴構造を持つ盛嶋型は初心者でもその音色を聞き分けることができるそうです。

             

            照屋集落には盛嶋型の胴を製造する工房があり、各地の三線製作所へ今も名器が供給されています。


            (続く)


            ファーマーズマーケット南風原「くがに市場」

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              春菊がスーパーに無かったので、南風原町の「くがに市場」へ来ました。数年前に開店したJAの野菜直売所です。

               

               

              市場の卸値に慣れた八百屋にとって「驚くほど安い」とは言えませんが、品揃えが良く、新鮮です。

               

               

              薬草コーナーには、よもぎ、さくな、長命草、つるむらさきとありまして、

               

               

              こちらはハママーチ。琉球よもぎです。

               

               

              ぱっと見で、松葉かモクマオウの葉に見えます。あまり美味しそうな見かけではないので、ハーブと思って下さい。

               

              そこでやっと気付くのがナイチャーたる所以で、ハママーチだから浜の松。フフフ。誰が見ても松葉なんだね。

               

               

              植木コーナーにあったカーブチー。皮の厚いタンカンですかね。

               

               

              柑橘類の種類が豊富な沖縄ですが、流通量はタンカンが圧倒的。わざわざカーブチーを注文をする保育園はありません。

               

              相棒のAが「カー(皮)ブチー(厚い)」だと教えてくれましたが、カボスが訛ったという説もあります。

               

               

              「それで春菊はあったんかい」ですが、もちろんありました。長ネギ、水菜、生しいたけは揃ってるので、今夜は、知念で買った超薄切りの豚肉で豚シャブです。

               

              「春菊が無くてもできるじゃん」ですが、隣の八百屋に無く、スーパーにも無いとなると意地になるのよ、こいつ(私)は(笑)

               

               

              農連プラザにも農連市場から移ったオバァ達の相対売場がありまして、市場ならではの雰囲気がありますが、野菜の種類だけはこちらが豊富。観光で来られた皆さんにも楽しめる場所と言えるでしょう。空港道南風原南ICを下りてすぐです。


              わったー畑や、ちゃーなとーが?

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                南風原文化センターの企画展へ行って来ました。

                 

                「わったー畑(はる)や、ちゃーなとーが?」

                 

                 

                復帰前は那覇から城岳を越えたらもう田舎。そこから与儀、国場、仲井真の丘を越えた、そのまた先が南風原ですからね。それはもう絵に描いたような田舎(笑)

                 

                南風原にアパートを建てたら「えっ、誰が住むの?」と笑われ、国道沿いに喫茶店を開いたら「こんな所までお茶を飲みに来る人がいるの?」と呆れられた時代があったんです。

                 

                 

                ところが今や、南風原は那覇のベッドタウン。

                 

                こんな風景が、

                 

                 

                こんなになりました。(本部、照屋、喜屋武)

                 

                 

                 

                今でも南風原はナーベラーやカボチャの産地ではありますが、畑は南風原の中心地から周辺に押し出され気味。

                 

                先日、テレビで南風原のカボチャ畑が紹介されてました。甘くてホクホクの南風原カボチャは、ナイチの料亭などに出荷される高級品。南半球から1万km近くを運ばれて来たカボチャよりも高価なカボチャを、私は保育園に納めたことがありません。

                 

                 

                さて、この企画展は田舎だった頃の南風原を写真や資料で振り返るもの。展示品が少ないことは否めませんが、まあ、無料ですから(^^)

                 

                入場者のアンケートを紹介するコーナーがありました。

                 

                「生産する土地活用ではなく消費ばかりの生活で、このままでいいのかと思うことがある(40代女性)」

                 

                「これ以上発展しない事を願う(60代女性)」

                 

                 

                よう言うた!!

                 

                まったく、その通り!!

                 

                とは言うものの、この問題意識のある人達がこの企画展に来るのよ(^^)

                 

                 

                琉球王朝の時代、沖縄の人口は約20万人。それが明治、大正、昭和と増え続け、戦前の人口が約60万人。戦争で人口が減ったものの、直ちに盛り返して、今や140万人が沖縄に住んでます。

                 

                増えた120万人の皆さんに、何故沖縄に住んでるのかをお聞きしたい。沖縄で生まれた人は、何故、ナイチに行かないの?。ナイチで生まれた人は、何故、沖縄に来たの?

                 

                沖縄はナイチから遠く離れた離島ですからね。人口がどんどん減って、過疎に悩むのが自然な気がします。120万人も増えた理由って何でしょう。

                 

                「それをお前が言うな」って、いや、ごもっともではありますが、釈然としないのよね。

                 

                 

                「わったー畑や、ちゃーなとーが?」って、つまりそういうことではないでしょうか。


                高津嘉山に初登頂(^^)

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                  一つ前に投稿した散歩の後、同じ南風原町内の高津嘉山に向かいました。高津嘉山は山の名前です。

                   

                  これまで「いつかは登ろう」と考えてはいたものの、「また今度にするか」と考え直すことを、延々と繰り返してきました。今や、それが頭にあること自体が面倒になってきたので、この日で決着をつけようと。

                   

                  なにしろ、南風原町民のワタリグチでさえ「はぁ?。何でまたそんな所に登るんスかぁ?」と言いかねない所。静かに目立たないように登りました。

                   

                   

                  さて、高津嘉山と言えば「飛び安里」。The first flight in the worldを成し遂げた南風原町の有名人です。山の南側登り口に「飛び安里初飛翔の記念碑」まで240mと案内がありました。

                   

                   

                   

                  飛び安里がどのようにして飛んだかについては諸説があります。

                   

                  (1)鳥のようにして飛んだ

                   

                   

                  (2)ハンググライダーのようにして飛んだ

                   

                   

                  (3)凧に乗って飛んだ

                   

                  凧ヒモは飛び安里の奥さんが掴んだ

                   

                  (4)鳥に乗って飛んだ

                   

                   

                  この中から、南風原町教育委員会は(2)を有力と見做し、沖縄工業高校に機体の製作を依頼したんです。高校生が製作した機体は見事に空を飛び「おぉ。やはり、飛び安里は空を飛んだのだ」ということになってます(^^)

                   

                  こちらはその機体の1/2サイズレプリカ。南風原町役場に展示されています。

                   

                   

                   

                  では、先に進みましょう。

                   

                   

                  階段を登ること231段。飛び安里の記念碑に到着しました。

                   

                   

                  安里のAと力強く広げた両翼。飛び安里にふさわしい記念碑と言えましょう。糸数グスク方面の視界が開けているので、そちらへフライトしたのかもしれません。

                   

                   

                  記念碑のそばに大きな岩がありまして、横に案内がありました。「飛び安里はこの岩から飛んだと伝えられている」などと書かれてるんじゃないかと身構えましたが、記念碑の案内だったので安心して下さい(^^)

                   

                   

                  山頂はこのすぐ先ですが、特に眺めが良いわけではなく、(海の無い南風原町から)海が見えるわけでもなく、特に申し上げることはございません。

                   

                   

                  ところで先ほど、鳥に乗って飛んでいた飛び安里は、コザ十字路のコザ十字路絵巻に描かれたもの。コザがこんなことを言ってるんです。

                   

                  「飛び安里はコザ(越来)の人。泡瀬の崖地や高津嘉山から飛んだかもしれないが、彼がコザンチュであることは疑いようも無い」

                   

                  飛び安里の出自をめぐり、コザと南風原町が対立するかと思われましたが、今のところ、大きな問題にはなっていません。

                   

                   

                  以降は私の見立てです。

                   

                  南風原町の飛び安里に対する思い入れは並大抵ではありません。機体製作をはじめとし、グッズを販売したり、企画展を開催したり、南風原町の学習指導要領には「飛び安里を教えなさい」と書いてあります。だから、南風原町民の9割は飛び安里を知ってます。

                   

                  一方、飛び安里を知ってるコザンチュは半数にも満たないでしょう。

                   

                  つまり、コザは余裕なんですよ。越来の大城賢勇・百十踏揚ご夫妻をはじめ、コザには有名人がいくらでもいますからね。一方の南風原町は飛び安里をコザに奪われてしまうと、残る有名人はウルトラマンだけ。もう、後には引けないんです。

                   

                  そして南風原町は町のホームページに「飛び安里の子孫はコザへ移住し、その後、ハワイに移住した」と記載する念の入れよう(^^)。コザは「そこまで言うんなら、それはそれでいいんちゃう?」という姿勢です。

                   

                  南風原町の有名人は二人とも空を飛ぶので、これからは飛ばない人も有名になっていただきたい(笑)

                   

                   

                  さて、高津嘉山一帯は公園化事業が進行中。予算が少ないので3年がかりだそうです。

                   

                   

                  このあたりには総延長2kmにおよぶ日本軍の地下壕がありました。公園造成中に、その壕がパカっと口を開けたはずですが、そのまま埋めたのではないかと。

                   

                  こちらはつかざんトンネル横の、すでに造成が終わった公園。南風原町から委託を受けた作業員が除草中です(^^)

                   


                  南風原町兼城の散歩

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                    こちらは一日橋のイオン琉球本社。3階建のこじんまりとした社屋です。

                     

                     

                    ここから国場川沿いに遊歩道が整備されているので、朝から散歩しました。

                     

                     

                    戦前の船着場を模した石段や、

                     

                     

                    テラスが施されてはいるものの、

                     

                     

                    川がこんな感じなので、石段は降りれず、眺めもイマイチ。かな(^^)

                     

                     

                     

                    かつて、兼城の国場川南岸を軽便鉄道が走っていました。戦後、河川敷が埋め立てられて川幅が狭くなったので、軽便鉄道は現在のマクバ、かねひで、ニトリなどの敷地内を走っていたことになります。

                     

                    軽便鉄道跡が姿を現わすのは、兼城十字路に近いこの橋から。

                     

                     

                    軽便橋。

                     

                     

                    国場川の支流、宮平川を渡るための人道橋で、かつて、この場所に軽便鉄道の鉄橋が架かっていたことにちなんだネーミングです。

                     

                    兼城十字路を過ぎたあたりから、古い道筋になり、車道と軽便鉄道跡がシンクロします。小さな蒸気機関車が白い煙を吐きながら、こちらへ向かってくる様子を想像しましょう。

                     

                     

                     

                    兼平橋付近は河岸工事に備えて、除草されていました。

                     

                     

                    川の眺めは良くなりましたが、ここに住んでいる動物達にとっては迷惑でしょうね。

                     

                     

                    それでは橋を渡って国場川北岸を戻りましょう。

                     

                    普通に見かけるサギですが、その用心深いこと。視界の端にチラッとでも動くもの(私)が入るとすぐに飛び立ってしまいます。

                     

                     

                    用心深いのは亀も同じで、すぐに潜水します。それをジーっと見ていると、息が続かなくなり、やむを得ず浮上すると(笑)

                     

                     

                    うりずんの沖縄。ウグイスの鳴き声が聞こえてます。ところが、「ホーホケッ!!」で終わってしまうので気持ちの悪いこと。まだ、発声練習中なんですかね。仕方なく、ウグイスが鳴くたびに、私が「キョ」と付け加えました。

                     

                    姿を見せないウグイスに代わって、メジロが現れました。見かけることは少ないものの、沖縄に普通に住んでいます。

                     

                     

                     

                    ここでいきなりですが、「モクマオウのトンネルを抜けて行こう♪」で始まる名曲を知ってる方。素晴らしい。貴方はかなりの沖縄通と言えます。

                     

                     

                    最後にヤシの実。

                     

                     

                    「えっ?。ヤシの実って硬くてもっと大きくて、もっと上のほうに。え〜っ!」と思った方。それはココナッツですやん(笑)

                     

                    亜熱帯の沖縄はココヤシの北限を超えていて、面倒をみてくれる人がいないと育ちません。だから、ココナッツが落下して頭に当たったって話は少ないはず。

                     

                    写真のヤシはマニラヤシで、パインツリーの仲間です。この果実はどうにかすれば食べれるそうですが、私は、まあ、食べなくてもいいかな(笑)


                    津嘉山の腰当森(クサティムイ)

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                      JUGEMテーマ:地域/ローカル

                       

                      ヤマトグチの腰当(こしあて)は、座った時に背中に当てて姿勢を楽にするものを意味しますが、ウチナーグチではクサティと読み、「頼りにする者」の意味になります。例えば、母親にとって長男はクサティ。

                       

                      沖縄の集落は北東方向の丘陵に森があることが好ましいとされ、その森をクサティムイ(腰当森)と呼びます。冷たいミーニシ(北東からの冬の季節風)を防いでくれる森です。

                       

                      詳しくはこちら。(→新北風と真南風) 

                       

                       

                      次の写真は南風原町の津嘉山(チカジャン)集落で、クサティムイは高津嘉山(タカツカザン)。

                       

                       

                      現在の字津嘉山は広い範囲を示しますが、古くからの津嘉山集落は高津嘉山の南西部にあります。

                       

                      さきほどクサティを「頼りにする者」と訳しましたが、それがクサティムイになると「信頼し寄り添い身を任す」ような、「母の膝に抱かれる」ような語感になります。

                       

                       

                      上の写真の左下にチラッと見えてる川が長堂川。高津嘉山から長堂川に向かう緩やかな傾斜に形成された集落は陽当たりが良く、暖かいマハエ(南西からの夏の季節風)を広い間口から屋内に取り込むことができます。

                       

                      そして、かつての長堂川には船着場があり、農作物を国場の集荷場に運んだり、漫湖を経て、直接、那覇の市場へ運ぶことができたようです。

                       

                      関連する投稿はこちら。

                      漫湖の水上交通(1) 

                      漫湖の水上交通(2) 

                       

                      津嘉山集落が好立地にあり、古くから栄えた理由が分かります。

                       

                       

                      さて、集落の最も高い場所、つまりクサティムイに隣接した場所にはノロの住まいがあります。

                       

                      津嘉山集落の場合は、現在のつかざんトンネルのすぐ横に、ノロの屋敷跡が残っています。写真の右奥にはフール(豚小屋兼便所)が、左奥にはヒンプンが現存しています。

                       

                       

                      入口のヒンプン。石が横積みしてある一般的なヒンプンと違って、大きな石が縦に並べられています。何か深い意味があるのか、「他のヒンプンとはちゃうねんぞ」というノロの意思表示か、そこは不明です。

                       

                       

                      先日見たばかりの末吉ノロの屋敷跡とほぼ同格。立派な屋敷だったようです。

                       

                       

                      こちらの写真は、ノロの屋敷跡のすぐ近くに住んでいた玉那覇ノロ。

                       

                       

                      ノロに向かって失礼ですが、可愛いくて上品なお婆さん。

                       

                      関連する投稿はこちらです。

                      南風原町「あの日あの時」

                      写真集「南風原」

                       

                       

                      かつて、高津嘉山から長堂川に向かって、津嘉山村、玉那覇村、仲間村と三つの村があり、合併して津嘉山村が残りました。玉那覇ノロは玉那覇村のノロです。

                       

                      合併した後も、それぞれの村の御嶽は現存してますが、ノロはどうなるんでしょうね。

                       

                      ノロの屋敷跡近くに、津嘉山、玉那覇、仲間の「殿(トゥン)」が、それぞれの村に向かって三つ並んでました。「殿」はノロが管理する祭祀の場。村の合併後に集められたのではないかと思います。

                       

                       

                      最後にオマケです。ノロの屋敷跡の石垣に人面石(笑)。丸い部分が鼻で、その下に口。

                       

                       

                      地元の人達は「石敢当と同じ役割と思われる」などと難しいことを言うてますが、私はそこらのニィニィがワルサをしたとニラんでます(笑)


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                      念願の沖縄生活を始めて14年になりました。
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