JUGEMテーマ:地域/ローカル
ここはコザ十字路。ここを起点に那覇まで続く国道330号線と、那覇から沖縄本島の東海岸を名護まで北上する国道229号線が交わる十字路で、昔も今も交通の要所です。
この十字路をコザ十字路と呼ぶ理由は「ここがコザだから」と言うほかありません。
1959年の米軍作成地図を見ましょう。
軍道24号線と軍道13号線は現在の国道330号線と国道329号線。両者が交差するコザ十字路の北西にkozaの表記があります。
終戦時期、嘉間良を中心に、室川、越来、安慶田に広がっていた収容所を米軍はキャンプ・コザと呼びました。そして、1956年に誕生したコザ市にその名前が継承されたのです。
コザ十字路にあった本町通りと、
十字路市場。
両者が合併し、1978年に誕生した銀天街は、米軍向けの飲食店や衣料品店、また、地元住民の台所として最盛期を迎えました。
主として白人が集まる胡屋十字路に対して、コザ十字路は黒人の街でした。胡屋のロックとコザのソウル。二つの十字路は共に賑わいましたが、当時「十字路」と言えばコザ十字路を意味したようです。すなわち、ここがコザの中のコザ。
ところが、最盛期に120店を超えていた銀天街振興組合の加盟店は40店足らずにまで減少し、2014年に組合は解散してしまいました。
組合の解散は加盟店が減少したことだけが理由ではなく、加盟店が組合費を払えなくなったことによります。銀天街の名前は今も残っていますが、その実態(つまり組合)は既にありません。
銀天街繁栄の象徴だったアーケード。
劣化が進み、部材が地面に落下するようになりました。アーケードを撤去するには約2千万円かかるそうで、住民が沖縄市に撤去を要請しています。
沖縄市はアーケードを撤去する責任はそれを建設した組合にあると主張しているようですが、その組合は既に無いのですから、責任の所在を明らかにしたところで何の解決にもなりません。住民の安全を誰が守るかと言えば、それは行政でしょう。て言うか、商業的に衰退していくコザに対して、常に無策だった責任を行政は取らないと。
私の印象としては、銀天街を復活させるとか、活性化するとか、そのような議論をする時期は既に過ぎていると思えました。
(続く)