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中城御殿は琉球国王の世子(せし)殿。1875年に龍潭の向かいに移るまで、現在の県立首里高校の敷地にありました。
その中城御殿跡の発掘調査を県立埋蔵文化財センターが進めています。先週土曜日の現地説明会に参加したへそまがりさんから、パンフレットと写真が送られて来ました。上下の写真はそのパンフレットを撮ったもの。
へそまがりさん、ありがとうございました。
御殿跡の航空写真に引かれた黄色の破線は、今回発掘された、当時の道路を示しています。そして、右下に琉球古地図。
古地図を拡大しました。1700年代初頭に琉球王府が作成した地図で、首里の歴史散歩に重宝します。こちらにも道路に黄色の破線が引かれています。
この古地図の優れている点が2つあります。
一つ目は、縮尺が正確であること。
古地図の縮尺が正確なので、航空写真と古地図、両方の黄色い破線を重ねると、遺構の位置が正確に分かります。発掘すべき場所がピンポイントで分かるので、調査を効率良く進めることできます。
二つ目は、古地図に記載された建物などの名称が、ある程度の時間幅を持たせて記されていること。
例えば、現在の那覇地図を作るとすれば、三越百貨店跡には最近オープンした「琉球王国市場」、那覇バスターミナル跡には「カフーナ旭橋」と記すことになります。そこに時間幅を持たせて「三越百貨店」、「那覇バスターミナル」と記すのが、この琉球古地図の流儀です。
その時代の理解を深めるために、外せない名前があります。琉球古地図はそのあたりの取捨選択が実に上手です。
さて、首里高校に着きました。
電柱の右に、那覇の文化財を示す小さな石碑が見えます。石碑が案内してるのは大美御殿(うふみうどぅん)跡。中城御殿の隣にあったと、琉球古地図に記されています。
かつてはこちらも琉球国王の世子殿でしたが、後に、城内の女性の休憩所、産所、冠婚葬祭の場として使われるようになりました。
日本に開国を迫ったペリーは、那覇を燃料や食料の補給基地とし、那覇から浦賀へ2度、香港と小笠原に各1度航海しました。そして、将来は沖縄を米国の軍事基地にしようと目論んでいました。ペリーは沖縄の基地問題の源流なのです。
ペリーは琉球と琉米修好条約を締結しましたが、交渉が決裂した場合は、軍事力で琉球を制圧するつもりでした。ペリーは琉球王府にとって、大変危険な人物だったのです。
ペリーの意図を察知していた琉球王府は、ペリーを国王に合わせたり、首里城内に招き入れることで生じるリスクを極力避け、一方で、ペリーの機嫌を損ねない工夫をしました。
そこで、休憩所として使用していた大美御殿を「摂政の屋敷である」と嘘をつき、宴会場に仕立てたのでした。
王国から丁重な扱いを受けたと勘違いしたペリーは大いに喜び、随伴の絵師にその様子を描かせました。
絵のタイトルは「DINNER AT THE REGENTS LEW CHEW(琉球摂政邸での歓待)」。
ユー・シッ・タイ・ヤサ!!
琉球王府だって、やる時はやるんです(笑)
(続く)