伊是名島の風景(4) 尚巴志と尚円

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    沖縄の歴史上の人物と言えば、まず、琉球王国第一王統の尚巴志(1372-1439)と第二王統の尚円(1415-1476)ではないでしょうか。


     

    尚巴志の家系をたどると、こんな並びになります。

     

    屋蔵大主→鮫川大主→尚思紹→尚巴志

     

    尚巴志の曾祖父(屋蔵大主)の出自は不明ながら、伊平屋と伊是名の領主であったことは確かなようです。

     

    伊平屋と伊是名は「伊平屋の七離れ」と呼ばれ、統治の対象としては一体でした。七離れは島の数で、主島は伊平屋島。

     

     

    こうして写真を見ると、沖縄本島を縮小したみたいですね。


     

    伊是名グスクの城主には、尚巴志の祖父(鮫川大主)が就きました。

     

    ところがある日、どういう訳か鮫川大主は島を出て佐敷に向かうんですよ。島添の大城按司の娘を妻とし、佐敷の按司となりました。そして尚思紹が生まれ、孫の尚巴志が琉球を統一したと(1429)。



    一方、尚円は伊是名島の農民の子。20歳の時に両親を亡くし、24歳で妻と5歳の弟(尚宣威)を連れて国頭に渡り、27歳で越来王子(尚泰久)の家臣となりました。

     

     

    尚泰久が即位した時、39歳の尚円は既に琉球王府の高官に就いており、尚泰久の死後に起こったクーデターにより、54歳の尚円は国王となりました。

     


    その後、伊是名玉陵が築かれ、尚円の両親が葬られたと。


     

    つまりですね。この三角山の中腹にあった伊是名グスクの城主は尚巴志の祖父で、その真下の伊是名玉陵には尚円の両親が葬られているんですよ。

     

    以上を、「琉球王朝の第一王統も第二王統も、始祖は伊是名島にゆかりの人物だ。やっぱり伊是名島は凄い。さすがは神々の島」とまとめてしまうと、話が落ち着きます。

     

     

    落ち着きますが、考えてみれば、グスクは島を抜けた人の抜け殻みたいなもので、陵墓に葬られているのは伊是名の農民です。何かがおかしい気がしてきます。


    ある時に伊是名島の農民がこんな話をしたんじゃないかと(^^)


    A「ま〜えに、グスクを出て本島に渡った人がいたさ」


    B「ああ、鮫川さんな」


    A「佐敷で暮らしてたそうだけど、あれの孫が琉球の王様になったってよ」


    B「えっ、マジか」


    A「そしてから。この前、島からいなくなった夫婦がいたさ」

     

    B「ああ、金丸な」

     

    A「あれは王府の役人になってから。鮫川の一族を追い出して、自分が王様になったってよ」

     

    B「はぁ?。金丸って島を出た時には女房もいただろ。それから王様になったのか?」

     

    A「それでよ、近々、王府が三角山に立派なお墓を作るって」

     

    B「えっ?、誰の」


    A「金丸のオトーとオカーさ」


    B「まっ、マジかっ!!。いったいどうなってるばぁ?」


    A「さぁ、わからんな」



    ヤンバルや本部から海を眺めると、水平線のあたりに、「伊平屋の七離れ」がボーっと浮かんでいます。その風景から私が受ける印象は「異境」。迂闊には近づけない雰囲気があるし、神々の島と呼ばれれば、確かそうかなと思えます。 

     

    この距離感に、様々な伝説を生む素養があるわけですよ。例えば「金丸が伊是名島で生まれたって本当か?」とかですね。

     

    第一尚氏と血の繋がりを持たない金丸が、即位し、尚円を名乗るには、その正当性を示すためにいくつかの伝説が必要だったと思います。そのために、沖縄本島と伊是名島との距離感を利用したと考えれば、そうかなとも思えます。

     

    適度な距離があって、こちらも向こうもお互いがよくわからない。この位置関係が伝説を生むと言うか、生まれやすいと言うか。

     

    ゴニョゴニョゴニョ(笑)

     

    (続く)


    伊是名島の風景(3) 伊是名玉陵

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      三角山の麓にある伊是名玉陵。

       

       

      尚円王の墓所は首里の玉陵ですので、ここに葬られているのは、尚円王の両親や親族です。

       

       

      伊是名村のホームページには1688年に尚真王が陵墓を築いたとありますが、勘違いをしてますね。

       

      尚真王(1465-1527)は尚円王(1415-1476)の長男ですから1688年に生きてるはずがありません。正しくは、尚真王が陵墓を築き、1688年に琉球王府が現在の石造に改築したということ。

       

       

      伊是名島には5つの集落があり、その一つが伊是名集落。伊是名集落の銘苅家は尚円王の親戚筋にあたる旧家で、銘苅家住宅は国の重要文化財に指定されています。

       

       

      銘苅家が代々取り仕切ってきた行事が、伊是名玉陵で毎年行われる「公事清明祭(クージヌシーミー)」。銘苅家から伊是名玉陵まで通じている石畳の参道はサムレー道と呼ばれ、現存しています。

       

       

      昨年、首里の玉陵で40年ぶりに公事清明祭が行われました。 

       

      その復活に貢献したのが「伊是名銘苅家文書」でした。それは琉球王府が銘苅家に渡した公事清明祭の実施マニュアル。銘苅家はその文書を代々引き継ぎ、毎年欠かさず公事清明祭を続けてきました。(→公事清明祭) 

       

      首里で一度は途絶えた行事が伊是名島で続いていて、その要領を首里に教えたなんて、いい話です。素晴らしい。

       

      (続く)


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