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対馬丸の悲劇(1)

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    JUGEMテーマ:地域/ローカル

    終戦の1年前、サイパンが玉砕し、米軍の爆撃機が本土に到達できるようになりました。

    政府は沖縄での決戦を見越して、足手まといになる子供たちを、沖縄から九州に疎開させよう考えたようです。

    用意された対馬丸は速力わすが15ノット(時速30km弱)の老朽化した輸送船でした。

    対馬丸は、他の輸送船2隻、護衛艦2隻とともに、千人近くの子供を乗せ、那覇から長崎に向けて出航しましたが、暗号の解読により、既に米軍潜水艦がトカラ列島沖に配置されていたのです。

    子供の親たちは、危険な航海を心配しつつも、子供を安全な場所に避難させることを優先し、疎開に同意しました。一方の子供たちは、ヤマトに行ける、雪が見れると、修学旅行のような気持ちで乗船したそうです。

    他の輸送船に比べ速度の劣る対馬丸は、船団から取り残されるかたちとなり、潜水艦の格好の標的となりました。

    4発の魚雷を被弾した対馬丸はわずか10分ほどで沈没し、船室で眠っていたほとんどの子供たちは、船と共に沈んでいったのです。

    米軍は子供の疎開船だということを知らなかったようです。

    暑さに我慢できず、たまたま甲板に出ていた者と、甲板で見張りをしていた者が漂流物につかまるなどして生き残りましたが、同行の軍艦は、他の輸送船2隻の護衛を優先させ、対馬丸の生存者を救助することはしませんでした。

    運悪く、そこを台風が襲います。

    漁船に救助されるなどして、生き残った者は、わずか59名だったそうです。

    子供たちの不幸は続きます。

    奇跡的に生き残った子供達は、終戦後、沖縄に戻ることができたのですが、そこには壊滅的な被害を受けた故郷がありました。家族は亡くなり、自分の家は跡形も無かったのです。

    辛い、悲しい事実です。

    那覇市内に、対馬丸記念館があります。

    明日は、そこへ行こうとしていたところ、偶然、NHKで対馬丸の特集番組が放送されていました。沖縄県内だけの放送だったかもしれません。

    これまで対馬丸の名前だけは知っていましたが、今夜の放送で、初めて事実を理解できました。

    明日は、必ず記念館へ行き、子供たちの冥福を祈ってこようと思います。

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