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何故、ウチナーグチは古い日本語みたいなのか?

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    JUGEMテーマ:地域/ローカル

    ウチナーグチで東西南北は、アガリ、イリ、フェ―、ニシです。

    アガリ、イリは、日の出、日の入りでわかりやすいですね。そして、フェ―、ニシは、大和古語にその語源があるようです。

    大和古語で南風をハエと言います。南風原(はえばる)町など、そのまんまですね。ハエが訛ってフェーとなるのですが、この訛り方もまた、大和古語の特徴だそうです。つまり、は行がファ行になるということ。正しく発音すれば、南風原はフェーバル、那覇はナーファです。

    次にニシ、つまり北ですが、これは古(いにしえ)を語源とするようです。更に、「いにしえ」は祖先のやって来た方角を意味し、それが大和では西、琉球では北となっているとする説があります。

    つまり、琉球民族の祖先は大和からやって来たことになります。


    3万年以上前、東南アジアや中国から、日本人の祖先が琉球に到達し、一部が定住し、一部は北上を続け、日本に到達しました。そして、5千年以上前に、同じルートで稲作が伝来しました。

    琉球に定住していた山下洞人や港川人の子孫は、稲作を採用せず、魚貝類を採取する生活を続けましたが、日本では、狩猟中心の生活が農耕中心の生活に変化し、集落が形成され、やがて国家が誕生しました。

    弥生時代から大和王朝時代にかけて、大和のある一団が琉球にやって来て、定住しました。何のために移住したのかは不明ですし、その一団がアマミキヨかどうかも定かではありませんが、大和から琉球への移住者が間違いなくいたのです。私の大先輩ですね。

    移住者は、琉球へ日本語と稲作を持ち込み、集落を形成しました。そして、彼らが後に琉球民族となったのです。山下洞人らの子孫は移住者たちに同化し、組み込まれていったと思われます。


    大和王朝の時代、中国は随が支配しており、大和から遣隋使(600〜618)が派遣されていました。小野妹子さんですね。お久しぶりです。「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。」です。いや、お懐かしい。

    その後、随は唐となり、遣隋使は遣唐使(630〜894)となります。日本は大和から、奈良、平安と時代が移りました。

    東シナ海を横断できる大型船の存在は、日琉間の交易を可能にしました。遣唐使も、遭難のリスクを回避するために、東シナ海を一気に横断せず、琉球を経由して中国に向かったようです。こうして、当時の日本語や文化が、再び琉球に持ち込まれました。

    遣唐使は894年に、菅原道真の建議により中止となり、以降、日本は鎖国状態となります。その結果、日本と琉球は分断されてしまいました。

    島津が琉球に侵攻したのが1609年ですから、約700年もの間、琉球の日本語は、日本の影響を受けなかったのです。そして、日本の古語がウチナーグチの中で継承されてきたのです。

    コメント
    おはようございます。
    勉強になりました。
    ありがとうございます(^o^)/
    • コクテンフグ
    • 2011/12/16 9:58 AM
    初めは読めない地名ばかりでした。国頭郡金武町、国頭郡今帰仁村、島尻郡南風原町、島尻郡与那原町、中頭郡北中城村、中頭郡北谷町、中頭郡中城村・・・。

    「城」はどんな時に「グスク」?どんな時に「シロ」?今でも分かりません!
    今でも読めない地名は沢山あります。

    そんな歴史の中から生まれた言葉なんですね、勉強になりました。
    • モアナ
    • 2011/12/16 10:52 AM
    コクテンフグさん。

    ありがとうございます。

    すずめうり、収穫できて良かった!!
    • coralway
    • 2011/12/16 12:24 PM
    moanaさん。

    めんそーれ、ぐぶりー(ご無礼)さぴら、かな(愛)さんなど、例をあげたらキリがありません。

    というか、(最近のウチナーヤマトグチではなく、)正統ウチナーグチのほとんどです。
    • coralway
    • 2011/12/16 12:40 PM
    今こちらを読みました。
    すごいですね、文化人類学のとても面白い授業を受けている感覚です。
    これからもウチナーグチの謎に関する考察など期待しています。
    ありがとうございました。
    • teppy
    • 2011/12/17 10:48 PM
    初めて百名海岸のヤハラヅカサを訪ねた時、ここが、琉球民族の祖先が上陸した場所だと聞かされ、「それを見ていたのは誰やねん」と、一人で突っ込みを入れてました。

    山下洞人や港川人の子孫が居たんですね。やっぱり。
    • coralway
    • 2011/12/18 1:40 AM
    ウチナンチュの友だちから聞いた話。

    彼が小学校の時、普天間から糸満に引っ越しました。
    糸満で「普天間って、お前都会モンだな」と軽くいじめられたそうです。(普天間よりも糸満のほうが県庁所在地の那覇に近いんですけどね・・・)

    で、しばらくしたら那覇からまた転校生が。

    糸満の子供たちの新たなターゲットは完全に那覇からの子に替り『ナーファー』と呼ばれ散々いじめられたそうです。

    普天間の私の友達は「助かった・・・」と子供ながらに思ったそうです。

    ナーファを聞いてその事を思い出しました。
    • マロン
    • 2012/05/07 5:01 PM
    普天間と糸満なら、普天間が都会でしょうね。昔はね。

    今はそうでもなさそうですが、ウチナーンチュの「シマ」意識は強かったようですね。

    「シマ」って、島ではなく、怖いお兄さんが「この辺は俺のシマだ。誰に断って商売やってるんだ、あ〜ん。」って言うシマね。
    • coralway
    • 2012/05/07 6:17 PM
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