JUGEMテーマ:地域/ローカル
昨日、南風原町の黄金森にある陸軍病院壕跡を訪ねました。
森の西側に炊事場(井戸)があり、そこから、森の各壕に水や食事を運んだ道を、「飯上げの道」と呼びます。運んでいたのはひめゆり学徒の少女たちです。
飯上げの道に沿って、南風原文化センターの脇を黄金森に入っていくと、坂道になり、やがて丘の上に出ます。そこから森の東側への下り坂には木道が整備されているので、簡単に森を抜けることができます。
森を抜けて歩道を左手に行くと、陸軍病院壕(20号)の入口に到着します。森の西側からここまで500mほどでしょうか。
陸軍病院壕(20号)は、昨年整備され、中に入ることができるようになりました。
照明が無いため、懐中電灯を手に壕内に入ります。南風原町文化センターの方が案内をして下さいます。
湿気が充満し、天井から地下水がポタポタ落ちてきます。壕の天井が低いので、背の高い私は、何度もヘルメットを天井にぶつけてしまいました。
自然の壕であれば、あちこちに空気の通り道があるのですが、この壕は手掘りの人工壕のため、通気が悪く、当時、壕内でろうそくの灯が消えそうになると、衣服などを振って、入口から空気を送ったのだそうです。ともかく、ひどい環境です。
この壕での治療は、弾丸の摘出と負傷部位の切断に限られていました。
ひめゆりの生存者によると、壕内が暗く、負傷の状況や、手術の内容はよくわからず、麻酔の不足する中、暴れる患者を、ただ必死に押さえつけていたそうです。
ひめゆり学徒とは、まったく法的根拠の無い「看護補助要員」という名のもとに、大人の命令に従っただけの少女たちです。
沖縄戦末期の艦砲射撃の中、飯上げの道を走る少女たちは、自分に何が起こっているのか理解できていたのでしょうか。
少女たちが、この壕で生活したのは2カ月ほどでした。
首里陥落の後、重症患者を青酸カリとともに壕内に残したまま、少女たちは摩文仁へ逃げ、そこで自決することになります。
帰り道、バスの車窓から、成人式の晴れ着姿の女の子たちが見えます。
ひめゆりの少女たちにも、彼女たちと同じような人生が与えられるはずだったと思うと、まったくやりきれない気持ちになりました。