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戦前の南大東島(2)

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    JUGEMテーマ:地域/ローカル

    南大東島の島民(大半はウチナーンチュ)は、開拓事業に従事した賃金や、さとうきびを売った対価を、玉置商会から受け取っていました。

    ところが、島民が受け取っていたのは「貨幣代用券」。島では「玉置紙幣」と呼ばれていたようです。


    島の商店は玉置商会が経営しており、島民は生活必需品や食料をそこで買うしかありません。そして、土地の開拓やさとうきびの栽培に必要な農機具は、玉置商会から有料で貸し出されていました。

    せっかく稼いでも、お金は玉置商会に還流する仕組みになっていて、わずかに残った玉置紙幣は、島を出ればただの紙クズです。

    当時の島民は、会社の許可なく島を離れることは禁じられており、玉置紙幣には島民の逃亡を防ぐ目的もあったようです。


    玉置半右衛門は南大東島の製糖事業を「植民地支配の成功例」と自画自賛したようですが、その言葉を聞くと、玉置商会の意識や島の社会構造がよくわかります。


    「こら、半右衛門!!(笑)」

    「八丈島が、そんなに偉いんかいっ!!」

    「八丈島に首里城や美ら海水族館はあるんかいっ!!」

    と言いたい。


    南大東島の方言で、「おじゃりやれ(ようこそ)」や、「アバヨーイ(さようなら)」は、八丈島の言葉と同じ。

    千キロも離れた所に、同じ言葉の島があるということで、南大東島と八丈島の間に交流があるそうですが、玉置商会が島を支配していた時代、八丈島出身者と沖縄出身者の間には賃金格差があり(沖縄が下)、両者の仲は決して良くはなかったようです。


    島民が島の生活を続けた理由は二つありました。

    一つ目は、開拓した土地を「30年後に無償譲渡する」と、玉置半右衛門が約束したこと。(ただし、口約束)

    二つ目は、沖縄(本島)に戻っても、島の生活以上の展望が開けなかったこと。


    入植して10年が経った1910年(明治43年)、玉置半右衛門がその生涯を終えました。さらに、1916年に玉置商会は経営難に陥り、島の開拓事業を東洋製糖に売り渡すことになりました。

    そのころ、島の人口は3千5百人。玉置半右衛門が約束した土地譲渡はどうなるのか、必死で蓄えた玉置紙幣はどうなるのか。島民の不安は募る一方でした。

    (続く)


    コメント
    ご無沙汰です。
    私の祖父も一家で大東島に移住し、父も叔母も幼少の頃(1930年初期)過ごしたとのこと。風呂も製糖工場内にあったらしく、帰りはシュガートレインに乗り、住居近くに来ると走るトレインから飛び降りたそうだ。飛び降りた際、祖母は道端の岩に胸を打ち、その後、病に伏し故郷今帰仁天底に戻り、この世を去った。沖縄に戻ってもやはり極貧生活は続いたそうだ。
    続きが楽しみです。
    • keiharu
    • 2015/01/06 7:46 PM
    keiharuさん

    当時は南大東島でも、沖縄本島でも、たいへんな暮らしだったのですね。

    それにしても、走ってるトレインから飛び降りるって、ひどい話ですね。
    • coralway
    • 2015/01/07 4:55 AM
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