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百十踏揚が玉城へ向かった理由(2)

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    尚泰久王の三男で、第一尚氏王統最後の王となった尚徳王。彼の在位期間は1460年から1469年の9年間でした。

    阿麻和利大城賢勇に討たれたのが1458年。百十踏揚は勝連から首里に戻り、賢勇の妻となります。

    P4s.jpg

    踏揚が首里に戻った2年後に、尚徳王が即位し、踏揚の弟達(つまり金橋達)はふてくされて玉城に移り住みます。

    踏揚も護佐丸の孫ですが、その時は王朝幹部である賢勇の妻。側室の子が王になったからと言って、首里を去るわけにはいきませんでした。

    そして、その9年後。金丸のクーデターにより、第一尚氏王統が滅びます。賢勇は金丸に討たれ、踏揚は首里を去る(逃げる)立場となったのです。

    この時系列ですから、踏揚が弟達が住む玉城に向かったのは当然と言えますね。


    第一尚氏の王族は、金丸により徹底的な弾圧を受けましたが、金橋らに被害が及ばなかったのは、金丸が王に即位した時、首里を去っていたことが理由の一つでしょう。さらに、第二尚氏王統では護佐丸が再評価され、護佐丸の子(三男盛親)が王府に登用されています。そのため、踏揚を含む護佐丸の孫達は見逃されたのではないでしょうか。

    つまり、金橋らは、その血筋が理由で首里を去ることになり、後に、同じ理由で命拾いをしたことになりました。

    (続く)


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