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百十踏揚が玉城へ向かった理由(4)

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    安次富グスクの巨岩の上で、父親の裁きを神に御願した安次富金橋は、今、父親と共にいます。


    第一尚氏王統の墓所は首里の天山陵でした。(第二尚氏王統は玉陵)

    金丸が第二尚氏王統の始祖となり、尚真を名乗りましたが、尚氏と血縁関係の無い金丸にとって、第一尚氏王統は歴史から消し去りたい存在だったのです。

    王の遺骨が破棄されることを恐れた泰久王の部下達は、泰久王の遺骨を天山陵から現在のうるま市伊波に移し、巧妙に隠しました。

    後に、その遺骨を屋良腹門中の子孫が玉城富里に移し、始祖の金橋と共に納めたのです。


    さて、あれほど恨んだ父親と一緒にされた金橋は、どんな心境なんでしょう。

    護佐丸の孫であったがために、王位を継承できなかった金橋ですが、同じ理由で命拾いもしました。仮に、泰久王の後を継いで王となったとしたら、殺害されていたかもしれません。

    泰久王が「あんときゃ、悪かった。」と言い、金橋が「いいえ、おかげさまで命拾いしました。」と言えば丸くおさまる話ではないでしょうか。


    では最後に、グスクや墓所の位置関係を整理しましょう。



    星印、右上は三津葉多武喜と百十踏揚の墓(玉城富里)。

    その左下は、三津葉多武喜が大川グスクから移り住んだ仲栄真グスク(玉城富里)。

    更に左下。4つ並んだ星印の上から順に、尚布里の墓(玉城當山)、安次富グスク(玉城富里)、大川グスク(玉城當山)、安次富金橋と尚泰久王の墓(玉城富里)。


    ところで、四男八幡加那志がどこにも出てきませんでしたね。彼の墓は少し離れた所にあります。

    先ほどの地図からズームアウトして、左端の星印です。



    當山集落の西端に立つと、集落の畑が広がります。その向こうの山の上に、八幡加那志の墓があるようです。



    てことは、私は行ってない(笑)。

    墓所まで道がつながっておらず、ヤブをかき分けて進むことになるそうです。蜘蛛の巣は張ってるし、虫には刺されるし、ハブも出るそうで。

    私は以上のことを総合的に判断し、今日のところは、當山集落センター付近から手を合わせることにしたのでした(笑)。

    兄弟4人を順に訪ねて、残る一人。

    「最後までちゃんとやりなさい。」

    と考えた貴方。

    是非、四男のお墓を訪ね、その様子をコメント欄でお聞かせ下さい。

    私はそれで十分です(笑)。

    (終わり)


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