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小波津家の弾痕跡

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    JUGEMテーマ:地域/ローカル

    西原町小波津集落に残る、小波津家南側の石塀です。



    弾痕跡のある石塀は県内各地にありますが、これだけ弾痕跡が鮮明でボコボコの石塀は見たことがありません。


    沖縄戦で亡くなった沖縄県民を市町村別に見た時、西原村(現在は西原町)の死亡率が47%と最も高いそうです。嘉数から首里に至る戦闘が注目されがちですが、ここもまた激戦区だったのです。

    日本軍は米軍の上陸地点を本島南部と想定し、多くの兵力を南部に駐留させていました。ところが、米軍が上陸したのは中部の読谷。その時、南部の駐留部隊は首里以北の戦闘に加わらず、温存されました。

    その、無傷の部隊が初めて戦闘に加わったのが首里東部地区、つまり西原村だったのです。

    そんな、元気の良い部隊が来てくれなくても良かったんですけどねぇ。


    小波津集落の北側、現在の西原運動公園から見た小波津集落です。



    左手奥に見える円錐形の山は運玉森。だれが見ても円錐形ですから、米軍によるネーミングもConical Hillです。

    地上戦は高地の奪い合い。私の立つ位置まで米軍が南下した時、ここから見えるすべての丘が日本軍の陣地でした。

    そして、日米両軍がにらみ合う間に挟まれていたのが小波津集落でした。

    まったく、戦争するなら海の上でやってほしいものです。


    次の写真は小波津家東側の石塀。



    南側に比べて弾痕跡が少ないようです。

    小波津家南側は中城湾に面しているため、最初の写真で見た弾痕跡は、艦砲射撃による砲弾によるもの。破裂した砲弾の金属片が突き刺さったのです。

    そう考えると、石塀の東側や北側(次の写真)は米軍地上部隊による銃弾によるものに思えます。




    次の写真は、小波津集落に残る日本軍の壕です。



    昼間は壕の中で米軍の猛攻に耐え、夜になると壕から出て反撃する。小波津集落の戦闘は、その繰り返しが一週間続きました。


    小波津集落の住民の選択肢は、集落の壕にとどまるか、南部に逃げるか。

    もっとも、壕にとどまった住民の多くは、日本軍により壕から追い出されてしまいましたから、結局は南部に向かうしかなかったようです。

    逃げ場がある限りは、そこへ逃げようとするのは当然と言えます。そして、それが無駄とは思わなかったからこそ逃げたとも言えます。

    最後は日本軍が勝利すると信じていたということなんでしょうね。


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