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首里城から延びる道(11) 国頭・中頭方西海道3

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    安谷川坂で首里当蔵町と首里大中町の町境を下って来ましたが、下之橋を渡れば首里儀保町です。「トーヌクラ」、「ウフチュン」から「ジーブ」。

    儀保大通りに出ました。かつての儀保大道(ジーブウフミチ)です。



    右手が上儀保(ウィジーブ)で左手が下儀保(シムジーブ)。

    大道を進むと儀保交差点に出ます。



    儀保大道はこの先の太平橋(平良橋)まで続きますが、今は、ここから先は石嶺大通りです。おかしな名前を付けますね。石嶺ってずっと先なのに。


    首里城久慶門からここまでの間、宿道から多くのスージが分岐し、また交わっていました。今回は国頭・中頭方西海道に沿って歩くことが目的なので、泣く泣く省略しています。

    ミーマクビリだけはその名前に負けて寄り道しましたが、そのおかげで奥武殿内の石門、石垣を見ることができました。




    儀保交差点から太平橋までは、つい最近歩きましたので、その投稿をリンクします。

    儀保交差点から太平橋(1) 儀保御待所
    儀保交差点から太平橋(2) 儀保ビラ


    「太平橋」発掘中(1)
    「太平橋」発掘中(2)
    「太平橋」発掘中(3)



    まあそれで、スージに入ると(笑)

    ここは亀川小路(カミガースージ)。下道(シムミチ)から上道(ウィミチ)に抜けています。



    このスージには、亀川盛武(せいぶ)の生家がありました。

    盛武は琉球王府の三司官でしたが、琉球処分に反対し頑固党を結成しました。更に、孫の盛棟(せいとう)が脱清し、清に琉球王国の復興を請願しました。

    先ほどの奥武殿内を興した奥武親方朝昇の五男、義村朝明も頑固党の中心メンバーでした。


    廃藩置県による首里城明け渡しが1879年。当時の清は欧州列強の侵略を防ぐことで精一杯で琉球どころではありませんでした。

    そして、日清戦争(1895年)。

    日本政府の弾圧により、頑固党は衰退してしまいます。

    首里は士族の街でしたから、こうしたスージに、亀川家の名が残ることは当然でしょう。そして、そこに今も「チクショウ感」が伺える気がします。

    (国頭・中頭方西海道は終わり)


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