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万次郎が大渡浜(当時は小渡浜)に上陸した1851年2月。
その頃の琉球は簡単に言ってしまえばテンペストの時代。最後の国王に4歳で即位した尚泰(1843-1901)は8歳でした。
ナンミンヌガンチョー(波之上の眼鏡)こと宣教師ベッテルハイム(1811-1870)が那覇を徘徊し、2年後にはペリー(1794-1858)が泊に来航しました。
万次郎は薩摩へ向かうまでの半年間、豊見城市翁長の高安家に軟禁されましたが、何故、首里や那覇ではなかったのか。それは、琉球王府が万次郎とベッテルハイムを会わせたくなかったからと言われています。
ベッテルハイムは琉球王府からも那覇市民からも「変わり者」と思われてましたから、二人を会わせてしまうと、何か嫌なことが起きる予感があったんでしょう。
さて、摩文仁間切の番所で万次郎の取り調べを担当したのは、テンペストで孫寧温(そん ねいおん:真鶴)のモデルとなった牧志朝忠(1818-1862)でした。
万次郎はすっかり日本語を忘れていましたし、仮に覚えていたとしてもウチナーグチは通じなかったでしょう。ベッテルハイムから英語を学んだ朝忠が適任だったということですね。
その時、朝忠は34歳。取り調べをする立場でありながら、万次郎から米国の政治や経済に関する多くのことを学びました。
後に朝忠はペリーとの交渉役に指名されました。極東の小さな島国に、英語を話せる上に合衆国大統領ジョージ・ワシントンまで知っている若者がいたとペリーは驚き、朝忠を心から信頼したそうです。その功績の一部は万次郎のものと言って良いでしょう。
琉球を離れた万次郎は薩摩、長崎を経由して故郷土佐に還り、遭難以降11年ぶりに母親との再会を果たしました。その後、万次郎は日本の開国、すなわち日米修好通商条約の締結に貢献し、咸臨丸で勝海舟や福沢諭吉らと共に再び米国を訪れました。
米国捕鯨船員の役に立ちたいと帰国を決意した万次郎でしたが、その目的を果たしたばかりでなく、それを遥かに上回る成果を上げたことになりますね。
万次郎が上陸した大渡海岸のリーフです。
万次郎がここに上陸した日から約100年後。彼が心から愛した日米両国が戦争し、日本軍が摩文仁で玉砕するなんて、夢にも思わなかったことでしょう。
平成5年。豊見城市と万次郎の故郷土佐清水市は姉妹都市となりました。
また、平成14年。高安家を訪ねた万次郎の子孫は「万次郎が沖縄で親切にしてもらったことは代々伝わっている。来ることができてとてもうれしい」と語り、高安家の皆さんは「感無量です」と応じたそうです。
(終わり)