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コザの散歩(5) 沖縄戦直後のコザ

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    JUGEMテーマ:地域/ローカル


    1947年に米軍が撮影した航空写真がありました。

    1945年の沖縄戦集結後、大規模な収容所(キャンプ・コザ)が設置された越来村は、一旦、胡差市(もしくは古謝市)に昇格しましたが、翌年の1946年には収容所の住民が解放され、再び越来村に戻りました。更にその翌年の写真です。

    関連投稿:コザ市誕生、消滅の年表(メモ)



    直線的な軍道が目に付きますね。コザ十字路と赤道交差点。高原交差点が海に近いことに驚きます。泡瀬海中道路は初耳で、楽しみが増えました。米軍泡瀬飛行場の北端が少し写っています。


    1945年4月1日、読谷に上陸した米軍は翌日には泡瀬海岸に到達し、4月3日には伊佐、普天間、荻道、久場を結ぶラインまで南下しています。幸いなことに、コザ周辺で大規模な戦闘は起きなかったということ。米軍は直ちにコザに収容所を設置し、そこに周辺住民を集めました。そして、古謝集落(写真縁取り部分)にも収容所が設置され、併せて米軍の宣撫部隊が駐留しました。

    (宣撫:占領地域などで、政府の方針を知らせるなどして、人心を安んずること)


    その時、米軍はキャンプ・コザをビッグコザ、古謝集落をスモールコザと呼び分けていたのです。さて、コザの由来を知るための私の散歩は、ここで結論に至りました。コザの由来は古謝です。

    コザの由来を、胡屋の聞き違い(あるいは読み違い)とする説と、古謝とする説とがあります。史実を曲げることはできませんが、両論併記のどちらを支持するかは各人の心証によります。またその積み重ねにより、各人の歴史観が形成されます。

    関連投稿:胡屋を読み間違えてコザになったって本当か?

    コザの名を世に知らしめたのは、1970年のコザ暴動事件と言えるでしょう。その現場が主として胡屋十字路付近であったことや、後にコザの中心がコザ十字路から胡屋十字路に移ったことなどにより、胡屋説が受け入れられたのではないでしょうか。それは、付会の説に思えます。

    (続く)

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