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てだこの城 浦添グスク(1)

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    浦添グスクは13世紀に建立され、15世紀に首里へ遷都するまでの間、琉球王朝の王府のあった場所です。

    浦添グスクの主、英祖(えいそ)は太陽の子(てぃーだのこ)と呼ばれていました。浦添市のキャッチフレーズ「てだこ」の語源です。

    ある日、英祖の母親が体内に日輪が入ってくるのを感じ、英祖を身ごもったのだそうです。日輪は、太陽の周りにできるリングのことです。



    英祖は中国との貿易で富をなし、評価の高い王でした。

    最近になって、英祖の墓が発掘され、公開されています。この墓所を夕凪(ようどれ)と呼びます。

    白い壁は、日輪の色をイメージするものなのでしょう。



    ようどれへの道は、まず、浦添グスクから急な坂道を下り、暗しん御門(くらしんうじょう)を通ります。



    現世とあの世を結ぶ役割の門です。

    二番庭(にばんなー)に入り中門を抜けたところが一番庭で、そこが墓所となっています。



    浦添グスクのある丘は前田高地と呼ばれ、沖縄戦の激戦地でした。

    浦添グスクからの風景です。

    まず、東シナ海側。宜野湾から北谷、読谷まで見渡せます。



    次に北側。嘉数(かかず)高台公園とその先に普天間基地の滑走路が見えます。



    次に太平洋側。写真右側が海です。そして左の丘の上に琉球大学が見えています。



    読谷の海岸に上陸した米軍は南下し日本軍司令部のあった首里を目指しました。

    前田高地は首里の北側で防御壁の役割を果たしていて、米軍はここを突破しないと首里に到達できません。

    そして、日本軍はこの場所に兵力を集中し、米軍を迎え撃ったのです。

    日本軍の徹底抗戦により、米国の戦史で「ありったけの地獄を一つにまとめた戦場」といわれた戦いが繰り広げられました。

    結局、前田高地は陥落し、浦添グスクは完膚なきまでに叩かれたのですが、関係者による長年の地道な発掘・復旧作業で、古琉球の風景がよみがえりました。

    ようどれには、もう一人の王、尚寧王(しょうねいおう)が葬られています。島津藩による琉球征伐の時の王です。

    長くなりますから、その話題は次回にします。

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