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首里末吉のノロ殿内跡を通り過ぎると、末吉宮の参道に出ます。参道は「史跡末吉宮跡」の石碑を左折ですが、その石碑のやや手前を左折すると、遍照寺跡に近づくことができます。
遍照寺があった頃からの道なのか、たまたまそっちへ向かってる新しい道なのかを私は知りませんが、いずれにせよ、遍照寺跡を目の前にして、道は途絶えてしまいます。
ノロ殿内跡の見学はドローンに阻まれ、遍照寺跡へはたどり着けず、まったく困ったものです。そこで、前々から疑問に思っていたことを少し調べてみました。
組踊「執心鐘入」の舞台は末吉の森で、若松が逃げ込んだお寺が遍照寺とされています。道に迷ったのが末吉の森なのは良いとして、逃げ込んだ先が、何故お寺なのか。
民衆にとって信仰の場は御嶽であり、祭祀を仕切ったのはノロでした。神社やお寺は縁遠い存在だったはず。それなら、すぐそこでドローンがパタパタしてる真下が末吉ノロの屋敷ですから、若松はそっちへ逃げなさい。と思います。
まあそこはお寺で良いと譲ったとして、遍照寺には和尚や小僧達がいて、鬼と化した女がぶら下がれるような大きな釣鐘があったのか?
朝薫はオリジナル(「道成寺」)を尊重して舞台をお寺にしたものの、それは架空のお寺で、たまたま末吉の森にあった遍照寺が、後付けで「執心鐘入」の舞台ってことになったのでは。と、私は疑ってるわけです。
末吉宮を建立したのは尚泰久王(在位1454-1460)でした。その時、末吉宮の別当寺(神社を管理する寺)として、遍照寺(当時は万寿寺)が興されたようです。
この説明では遍照寺がまるで神社の社務所みたいに聞こえますが、神社とお寺の力関係はお寺が上。遍照寺が興されて、末吉宮が併設されたと言うほうが実態に近いでしょう。
こちらがその末吉宮。琉球八社の一つです。
う〜む。遍照寺はなかなかのお寺だったようです。そして初代住職は鶴翁和尚で、高名な僧侶だったとのこと。それなら、小僧達もいたでしょう。
残るは釣鐘です。
琉球王朝時代の釣鐘と言えば万国津梁の鐘。1458年に尚泰久王の命により鋳造したものです。鐘の表には臨済宗の僧侶渓隠安潜による漢文が刻まれています。当時、沖縄の臨済宗の寺院では、釣鐘がちょっとしたブームだったそうですから、臨済宗の寺院である遍照寺に釣鐘があっても不思議はありません。
なぁんだ。簡単でした。玉城朝薫は「執心鐘入」の舞台として遍照寺を意識していたと思われます(笑)。私の誤解は解けました。
念のため、「執心鐘入」の初演は1719年ですから、とっくに遍照寺は実在しています。
遍照寺が立派なお寺だったことは良く分かりました。それならば、茂みに阻まれて跡地に近づけないようでは困ります。那覇市当局は、末吉のノロ殿内跡と共に、遍照寺跡も整備して、末吉公園の一角に永久保存するべきでしょう。
「結局、そこ?」ってその通りです(笑)
(終わり)