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首里末吉町のノロ殿内跡、遍照寺跡(2)

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    JUGEMテーマ:地域/ローカル

     

    首里末吉のノロ殿内跡を通り過ぎると、末吉宮の参道に出ます。参道は「史跡末吉宮跡」の石碑を左折ですが、その石碑のやや手前を左折すると、遍照寺跡に近づくことができます。

     

     

    遍照寺があった頃からの道なのか、たまたまそっちへ向かってる新しい道なのかを私は知りませんが、いずれにせよ、遍照寺跡を目の前にして、道は途絶えてしまいます。

     

    ノロ殿内跡の見学はドローンに阻まれ、遍照寺跡へはたどり着けず、まったく困ったものです。そこで、前々から疑問に思っていたことを少し調べてみました。

     

     

    組踊「執心鐘入」の舞台は末吉の森で、若松が逃げ込んだお寺が遍照寺とされています。道に迷ったのが末吉の森なのは良いとして、逃げ込んだ先が、何故お寺なのか。

     

    民衆にとって信仰の場は御嶽であり、祭祀を仕切ったのはノロでした。神社やお寺は縁遠い存在だったはず。それなら、すぐそこでドローンがパタパタしてる真下が末吉ノロの屋敷ですから、若松はそっちへ逃げなさい。と思います。

     

    まあそこはお寺で良いと譲ったとして、遍照寺には和尚や小僧達がいて、鬼と化した女がぶら下がれるような大きな釣鐘があったのか?

     

     

    朝薫はオリジナル(「道成寺」)を尊重して舞台をお寺にしたものの、それは架空のお寺で、たまたま末吉の森にあった遍照寺が、後付けで「執心鐘入」の舞台ってことになったのでは。と、私は疑ってるわけです。

     

     

    末吉宮を建立したのは尚泰久王(在位1454-1460)でした。その時、末吉宮の別当寺(神社を管理する寺)として、遍照寺(当時は万寿寺)が興されたようです。

     

    この説明では遍照寺がまるで神社の社務所みたいに聞こえますが、神社とお寺の力関係はお寺が上。遍照寺が興されて、末吉宮が併設されたと言うほうが実態に近いでしょう。

     

    こちらがその末吉宮。琉球八社の一つです。

     

     

    う〜む。遍照寺はなかなかのお寺だったようです。そして初代住職は鶴翁和尚で、高名な僧侶だったとのこと。それなら、小僧達もいたでしょう。

     

    残るは釣鐘です。

     

    琉球王朝時代の釣鐘と言えば万国津梁の鐘。1458年に尚泰久王の命により鋳造したものです。鐘の表には臨済宗の僧侶渓隠安潜による漢文が刻まれています。当時、沖縄の臨済宗の寺院では、釣鐘がちょっとしたブームだったそうですから、臨済宗の寺院である遍照寺に釣鐘があっても不思議はありません。

     

    なぁんだ。簡単でした。玉城朝薫は「執心鐘入」の舞台として遍照寺を意識していたと思われます(笑)。私の誤解は解けました。

     

    念のため、「執心鐘入」の初演は1719年ですから、とっくに遍照寺は実在しています。

     

     

    遍照寺が立派なお寺だったことは良く分かりました。それならば、茂みに阻まれて跡地に近づけないようでは困ります。那覇市当局は、末吉のノロ殿内跡と共に、遍照寺跡も整備して、末吉公園の一角に永久保存するべきでしょう。

     

    「結局、そこ?」ってその通りです(笑)

     

    (終わり)


    コメント
    このお寺に私は、毎年初詣に出かけます。
    後ろの方から近道があるので3分で到着
    私の家が近くにあります。
    このお寺の後ろに住宅建設の予定でしたが
    「しーだか」くて奥さんの許可が出ませんでした。
    霊感が強すぎて惑わされるとの理由です。
    その分譲地は、まだ売れていません。
    今、私の家の窓から見えています。
    • NAO
    • 2018/11/13 6:45 PM
    お寺ではなくて、末吉宮のことですね。
    私は鈍感なほうですが、それでもここでは霊気を感じます。敏感な人には近寄りがたいのではないかと思います。
    • coralway
    • 2018/11/13 7:00 PM
    お寺とお宮は、違うと言う事です。ネ
    ノロとユタも違うのでしょうか
    とても「しーだかい」霊感強い場所です。
    私は、緑が多くて景色も良いので住宅建てるには良い場所だと思ったのですが。
    奥さんの一言「何か見える」との一言で
    結局、隣の沢岻の山の上になりました。(ココ)

    • NAO
    • 2018/11/13 7:10 PM
    確か、万寿寺は1609年の島津氏の侵攻以後にはほとんど使われなくなったんでしたっけ?その後は、影の薄い寺というイメージです。
     玉城朝薫の時代、どんな姿だったのでしょうね。
    • ahaha
    • 2018/11/13 11:48 PM
    そう、影が薄いのよ。執心鐘入と関係づけられる以外で名前が出てきませんからね。そのあたりから私の疑問に繋がった気がします。

    結局、沖縄の仏教は民衆に支えられたものでは無かったので、薩摩も含めて王府の庇護が得られない寺院は衰退するしかなかったんでしょう。
    • coralway
    • 2018/11/14 3:22 AM
    あれまNAOさん、たましぬぎました、、


    母の実家は信濃路のすぐ近くで、母の弟が知念 績高の5代目になります。

    と、言えば理解されるのかも知れません。うちなーあるあるで、祖先同士は知り合いか、やーにんじゅかも知れませんね^^
    • うちなーんちゅ
    • 2018/11/14 8:48 AM
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