JUGEMテーマ:地域/ローカル
休みを取ってヤンバルに来ています。
写真は、塩屋湾北岸の斜面中腹にある六田原展望台からの眺め。手前が塩屋湾で、奥に本部半島。その右手に古宇利島、古宇利大橋の先に伊江島が見えます。
展望台の裏山には古い猪垣(シシガキ)が残っていて、その猪垣に沿って散策道が整備されています。
森の入口に設置された案内板と手前にイノシシ。
森に入りました。
階段が急なこと。キツいわぁ、これ(^^)
20、30分登った所で、私と同年代の夫婦が喧嘩してました(笑)。気まずい空気の中、夫婦を追い越し、休憩所で水筒のコーヒーを飲んでいると、旦那が一人で登って来ました。(入口からここまで600m)
旦那「いやぁ、捨てられちゃいました」
C「あらぁ、奥さんは引き返されたんですか」
旦那「ええ。でもせっかく来たんだから、もう少し歩きたいし」
C「塩屋富士まで、ここで半分くらいですよ」
旦那「そうですか。じゃあ、そこまでは行こうかな」
気楽な森の散歩を予想していた奥さんが「話が違うじゃないのっ!!」。で、旦那が「じゃあ、お前は引き返せっ!!」(笑)
延々と続く猪垣。大宜味村ではヤマシシガキと呼ぶようです。
「よく築いたなあ」と言うほかありません。先人の苦労には頭が下がります。
大宜味村の猪垣は塩屋湾の最深部を起点に、西海岸の根路銘まで約4キロ続いていました。その大半は開発などにより失われましたが、塩屋富士周辺の山中に、やや崩れながらも残っています。
ところで皆さん。山奥に築かれた猪垣を見て、「こんな山奥じゃなくて、もっと畑の近くにあればよかったんじゃないの?」と思われたかもしれません。それでは発想が逆。ここまでが畑だったんです。
次の写真はヤンバル西海岸の風景。
このあたりの集落は次のような要素で構成されています。
海から順に、リーフ、イノー、浜、防風林、集落、道路、水田、畑、段々畑、焼畑、猪垣。猪垣の向こうを奥山と呼びました。
琉球王朝の時代。王府(その背後の薩摩)から酷税を課せられたため、農民はできるだけの作物を植え、収穫するしかなかったということ。
上の写真の尾根のやや下に、延々と猪垣が築かれました。猪垣までが畑だった頃、海から見ると山の尾根に連なる猪垣が、万里の長城のように見えたそうです。
(続く)