JUGEMテーマ:地域/ローカル
二件の歴史資料を紹介して、終わる予定でしたが、もう少し。
琉球侵攻(1609年)、琉球処分(1879年)、沖縄戦(1945年)。
琉球侵攻から沖縄戦に至る歴史資料展は、琉球・沖縄とヤマトの関係を振り返る、良い機会になりました。
良好な交易関係にあった琉球とヤマトは、薩摩の琉球侵攻により敵対することになります。しかし、敵対と呼ぶには琉球軍はあまりにも弱かった。「琉球は武器の無い平和な国」という噂もありますが、それは間違い。武器はあったけど、でも、弱かった。
すべての兵士が鉄砲を構えてる薩摩軍に対して、琉球軍は「鉄砲もあるにはある」というレベル。主な武器は弓矢でした。また、実戦経験豊富な薩摩軍に対して、琉球軍は奄美や先島で、言わばアマチュア相手の実戦経験があるだけ。3千人の薩摩軍を見たとたん、戦意喪失したのは当然でした。
薩摩は、直ちに琉球を併合することはせず、内政干渉もせず、琉球が交易で得た利益を搾取することに徹しました。それはまさに、生かさず殺さず。以降270年の間、琉球は支配されることに慣らされ、日琉は同祖であると思わされ、ついに琉球処分の日を迎えます。そして、琉球処分から66年後の沖縄戦。
戦前の糸満市場の写真が展示されていました。
そこには、懸命に働くことで苦難を乗り越えてきた沖縄の暮らしがありました。
米軍の大艦隊に島を包囲された時に降伏していれば、せめて首里が陥落した時に降伏していれば、写真の人達が命を落とすことはありませんでした。
大本営は第32軍の牛島中将に「本土決戦のための時間稼ぎをせよ」と命じましたが、時間を稼いで一体何をしてたのか。て言うか、「本土決戦」って本土と沖縄の間に線を引いてますよね。
歴史資料展で思ったことは、ウチナーンチュは、一貫して従順であったということ。言い変えれば、与えられた環境を前提にして、そこで何とかやっていこうとする気質。それは、島で暮らすことと深い関係がありそうです。
ところで、そこでポリポリと煎餅を食べてるナイチのネトウヨ君。「沖縄の基地が無くなったら、中国に侵略されてウイグルやチベットみたいになるんだぞ」と言うけれど、沖縄県が全基地撤去を訴えたことはありません。
自分勝手に決めた前提に、自らツッコミを入れてるだけ。つまり、マスターベィションなのよ。センズリは一人でこっそりかきなさい。
それから、ウイグルやチベットに関して、どれほどの知見があるのかは知らんけど、今、中国がやってることは、わずか140年前にヤマトがやったことと同じだからね。琉球の子孫に対する、口の利き方に気をつけなさい。
おお。忘れるところでしたが、このポスター。
首里城図の作者、年代とも不明ですが、ポスター左下に年代を知るヒントがあります。
円鑑池(えんかんち)に浮かぶ弁財天堂(べざいてんどう)。その左手の建物には師範学校と記されています。現在の県立芸大の敷地です。
師範学校は那覇西村で設立され、1886年にポスターの場所へ移転しました。そして、その年のうちに沖縄県尋常師範学校に改称されています。
よって、首里城図に描かれているのは、1886年の首里城でしょう。琉球処分の7年後ですから、首里城に主はいません。
(終わり)