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百按司墓と源為朝上陸記念碑

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    JUGEMテーマ:地域/ローカル

     

    1929年に京都(帝国)大学医学部が、運天の百按司(ももじゃな)墓から研究目的で持ち出した琉球人の遺骨。

     

    琉球人の遺骨は帰って来るのか? 

     

    遺骨の返還を求めていた第一尚氏の子孫らは、交渉に応じない京都大学に対して、とうとう訴訟を起こすことになりました。

     

     

    先日訪ねた、運天集落背後の崖上にある運天森園地展望台。

     

      

    そのすぐ近くに百按司墓があります。久しぶに墓マイラーになりました(^^)

     

     

    京都大学は、当時の沖縄行政から許可を得ているとして争う姿勢で、26体の遺骨を保管していることを初めて認めました。

     

    この訴訟は、英国がかつての植民地から持ち帰り、大英博物館に保管・展示している文化財を、持ち出された側の国が「返せ」と訴えることに似ているかもしれません。「持ち出したものはさっさと戻せ」とは思いますが、法的にはそう簡単ではないということ。

     

    なお、遺骨の一部は台湾大学にも保管されていて、こちらは既に同大学が返還に応じ、先週、63体の遺骨が沖縄県立埋蔵文化財センターに戻されています。

     

     

    墓に葬られている遺骨の持ち出しを、当時の沖縄行政が認めたことについては、時代背景が影響しているようです。ウチナーンチュがヤマトから忠君愛国の精神を叩き込まれていた時期だったということ。

     

    偶然か必然か、百按司墓のすぐ近くにあるのが源為朝上陸記念碑。京都大学が遺骨を持ち出した年の7年前(1922年)、国頭郡教育部会という組織(行政ではない)が建立したものです。

     

    日琉同祖論の象徴とも言える源為朝が運天に上陸したことを記念する石碑で、刻字は石碑の権威づけを目的に東郷平八郎(1848-1934:元薩摩藩の武士で、日清・日露戦争の海軍軍人)に書かせたそうです。

     

     

    国頭郡教育部会とは、沖縄教育会(当時)の下部組織で、ウチナーンチュの愛郷心を愛国心に昇華させる活動をしていました。ヤマトからの指示があったとは言え、活動の主体はウチナーンチュです。

     

     

    この記念碑は百按司墓のすぐ近くにありますが、気分が悪くなるだけなので寄りませんでした。

     

    先日、遺骨返還訴訟のニュースを聞き、思いついたことがあります。それは、この石碑を為朝の上陸を記念したものではなく、約百年前に盛んに行われた沖縄同化政策の痕跡と見なせば、それなりに存在意義があるのではないかということ。

     

    この次、近くを通りかかった時には「ケッ!!」と思いつつも、寄ってみようかと思います。

     

    寄らんかもしれんけど(^^)


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