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摩文仁の丘 島守の塔

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    摩文仁の丘には、陸軍の司令部壕の他に、いくつかの壕があります。

    そのうち、軍医部壕から嶋田叡知事と荒井退造警察部長は二人で外に出てゆき、消息を断ちました。そのため、軍医部壕が二人の終焉の地とされており、島守の塔はその壕の前に建立されています。

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    島守の塔の背後には、嶋田知事と県職員の慰霊碑が建立され、

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    さらにその後ろに、嶋田知事と荒井警察部長の終焉の地を示す石碑が配置されています。

    そして、その石碑の後ろが軍医部壕への入口です。

    20110410211031_0.jpg


    沖縄守備軍司令官牛島満中将が司令部壕で自決し、日本軍の指揮系統が消滅したのは昭和20年6月23日です。

    嶋田知事が軍医部壕を出たのは6月26日とされていますので、その3日後になります。

    当然、嶋田知事は軍の崩壊を知り、何らかの決意のもとで、壕を出て行ったのでしょう。

    その後の嶋田知事の行方ははっきりしていません。

    自殺したのか、生き延びようとした上での戦死や不慮の事故死だったのか、いくつかの証言があるものの、遺体は見つからないままです。


    1月31日に着任して、6月26日に壕を出るまで、県民の命をなんとかして守りたいと頑張りぬいた5ヶ月間でした。

    県民から慕われ、絶大な支持を受けた嶋田知事のために、県民からの浄財で立派な記念碑が建立され、その功績は後世に語り継がれることになったのです。


    島守の塔と同じ敷地内にある平和の礎にも、嶋田知事の名前は残っています。

    20110410232329_0.jpg

    沖縄県知事ではない一戦没者として、つまり、嶋田氏の奥様にとっては夫の、御子息にとっては父の名前が刻銘されています。

    家族にとっては、辛い、悔しい、切ない刻銘です。

    何故、沖縄県知事を引き受けてしまったのか、家族にはとうてい納得できないでしょう。


    やはり、嶋田知事には、何とか生き延びて欲しかったと思います。

    沖縄県知事を自ら引き受けて、命の危険をかえりみず沖縄に来たのですが、軍が崩壊し、知事としての役割は終わったのですから、今度は生き延びようとするべきでしょう。

    そして、事実上、沖縄戦は終わっていたのですから、生き延びるチャンスはあったはずです。

    その上での、戦死や事故死であれば、それは仕方がないことです。運が無かったとあきらめるしかありません。

    一方で、自殺したのであれば、このような刻銘以外に、家族に残せるものがあっただろうに、と思ってしまいます。

    誰にも分からないように自殺したのなら、それは家族に対して、勝手過ぎる気がします。


    そう思うと、嶋田知事はやはり生き延びようとしたのではないか。そんな気がしてきます。

    沖縄戦が終わったとはいえ、多くの県民が生き残っていたのですから、知事として役割は終わっていないと考えたかもしれません。

    まあ、いくら考えても、堂々巡りです。

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