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尚泰久の墓

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    三山を統一した尚巴志(しょう・はし)は、まず、父親の尚思紹(ししょう)を琉球王朝の初代国王に就かせ、自からは第2代国王に就きました。

    以降、尚巴志の次男第3代尚忠(ちゅう)、尚忠の子第4代尚思達(したつ)、尚巴志の五男第5代尚金福(きんぷく)、七男第6代尚泰久(たいきゅう)と続き、尚泰久の子第7代尚徳(とく)が第一尚氏最後の国王に就きました。

    尚巴志の六男布里(ふり)は、五男尚金福の子志魯(しろ)と王位を争いましたが、結局、2人とも国王にはなれませんでした。

    退屈ですみません。ここまでは備忘録のようなものです。


    第6代尚泰久は護佐丸の娘を正妃とし、長男が安次富加那巴志(あしとみかなはし)、次男が美津波多武喜(みつばたぶき)、そして長女が百十踏揚(ももとふみあがり)です。

    百十踏揚は勝連の按司阿麻和利へ嫁ぎ、その後大城賢勇の妻となりました。


    尚泰久の墓は、沖縄本島南部の南城市玉城にあり、この大岩の側面が墓所となっています。

    20110612222336_0.jpg

    大岩の上部に崖崩れの跡がありますが、3年前に突然、高さ3メートル幅7〜8メートルの岩が崩れ落ちたそうです。岩の風化が原因だったようです。

    大岩に沿って階段を上ると、左手に墓所を示す石碑があり、

    20110612222149_0.jpg

    右手に2つの墓があります。

    手前が尚泰久の墓、奥が長男の安次富加那巴志(金橋)の墓です。

    20110612222216_0.jpg

    実は、この墓所のすぐ近くに、美津波多武喜と百十踏揚の墓があります。


    護佐丸は琉球王府に謀反を企てたことになっていますから、その娘である正妃とその子らは王府から追放され、この地で生涯を終え、葬られたわけです。

    尚泰久の後を継いだ尚徳は側室の子でした。


    尚泰久は国王ですから、その墓所は、首里城周辺か識名あたりと思っていました。

    一緒の墓所に葬られるのを望んだのが尚泰久なのか、子供たちなのか、あるいは他の者なのかを私は知りません。


    安次富加那巴志の墓の脇に、こんな石碑がありました。



    屋良腹初代先祖の墓とあります。そして、同じ敷地内に、屋良腹門中の墓があります。

    20110612222315_0.jpg

    尚泰久と安次富加那巴志の墓は、屋良家により、充分に手が入れられているようです。

    他所で葬られていた尚泰久を子供たちの元へ連れてきたのだとすれば、それは屋良家の人達だったのかもしれません。

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