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お墓巡りが趣味か?と、思われそうですが、先週、尚泰久の墓を訪ねた時から「これはやっぱりお父さんのお墓にも行かないと」、と思っていました。
三山を統一し琉球王朝を築いた尚巴志(しょう・はし)の墓は、読谷村伊良皆にあります。
国道58号線の伊良皆信号の近くを東に曲がります。このあたりは米軍の嘉手納弾薬庫ですが、その一部が黙認耕作地となっていて通行できるのです。
そこには、かつての街道(宿道)が続いていました。
米軍基地内にあることで、沖縄らしい道が残されていることが皮肉です。
ところどころで石畳の跡を残しながら道が繋がっていて、やがて、旧伊良皆集落の「上ぬカー」に到着します。
豊富な水量で、湧き水の前から川になっています。
上ぬカーに車を停めて、少し引き返した所にこんな石標があります。
ここから、森の中を少し歩きます。この辺りの森を「佐敷森(さしちむい)」と呼びます。尚巴志の生地(現在の南城市佐敷)にちなんで名付けられたのでしょう。
静かな、豊かな森です。
小川に沿って5分も歩かないうちに墓所に到着しました。
石標が、ここが尚巴志と尚巴志の次男で第3代国王の尚忠、尚忠の子で第4代国王の尚思達の墓であることを示しています。
尚巴志の墓です。
元々、尚巴志の墓は首里城の近くにありましたが、第二尚氏の尚円、つまり金丸のクーデターにより焼き払われてしまいました。
尚巴志の家臣であった平田子(ひらたし)と屋比久子(やびくし)が間一髪、遺骨を持ち出すことに成功し、この場所に墓を移したと伝えられています。
しかし、金丸は無茶苦茶をしますね。
権力を手にしたのですから、敗者に対して礼を尽くしてもよさそうなものですが、酷いやつです。
平田子と屋比久子はよくやりました。家臣のかがみです。
遺骨を移した先が何故、読谷だったのかは不明ですが、安全な場所を探して、この地にたどり着いたのかもしれません。
大きなガジュマルが墓を護るかのように、根を張りめぐらせていました。
上ぬカーに戻り、その裏手、道を挟んだ傾斜地に平田子の墓があります。
カーとの位置関係はこんな感じです。
そして、そのすぐそばに屋比久子の墓もあります。
二人は死後も尚巴志を護っているのですね。
ますます、いい人達です。
上ぬカーでは、子供たちが水遊びをしていました。
湧き水の中に、小魚やエビが住んでいるので、それを捕まえるのに一生懸命です。
このおっさん(私ですが)、森から出てきたと思ったら、斜面を駆け上がったり写真を撮ったり、一体何をしてるのかと思ったでしょうね。
米軍基地のお陰で、尚巴志は静かな森の中で眠ることができます。
平田子と屋比久子は、お墓がアメリカーの基地になってしまってビックリしたでしょうが、結果的には、最高の場所を選んだことになりますね。