本土でも有名な、沖縄の言葉です。
皆さんご存知のとおり、本土の「袖触れ合うも多生の縁」と同じ意味ですね。
実は、この言葉、あまり好きではありませんでした。
ウチナーンチュの親しみやすい性格は実感しつつも、だからと言って、必ずしも「みんなで仲良く。」とはならんだろ。という気持でした。
なんだか「ウソクサイ」感じがあったのです。
あることに気づいて、この考えが変わりました。
「袖触れ合うも多生の縁」という言葉は、もはや、時代劇のセリフですね。
劇中、お腹を空かせた貧乏な旅の人と、見るに見かねて声をかけた、おばさんがいたとします。
お 「ここは私の家だから、休んでいったらどうだい。」
旅 「めっそうもない。そんなわけには。」
お 「たいしたことはできないけどさ。袖触れ合うも多生の縁と言うじゃないか。」
という感じですね。言葉の用法としては。
実は、「行逢りば兄弟(いちゃりば ちょーでぇ)」という言葉、「何隔(ぬーひだ)てのあが、語(かた)てぃ遊ば。」と続きます。
隔たりなんか無いのだから、(酒を呑んで)一緒に語りましょう、遊びましょう。という意味です。
例えば、ウチナーンチュの常連さんで賑わっている居酒屋に、一人で入った私は、やはり心細い気持です。
そんな時に、カウンターで隣になったウチナーンチュが、色々と話しかけてくれます。
私と話がしたいわけではなく、とにかく、私がリラックスして呑めるように、精一杯、気を使ってくれているのです。私の気持を察してくれているわけです。
やがて私が、店の人や、周りのお客さんと、楽しく話ができるようになったのを見て、ほっとしたような顔をしています。
このお客さんは、「行逢りば兄弟」と言って良いのです。
いくら打ち解けたからといって、私が言うのは間違いでしょう。そのことに、最近、気付きました。
ヤマトとも違う、中国とも違う、独自の文化を持つ沖縄で、沖縄に来た異文化の者を受け入れる方法を、ウチナーンチュは身につけているということなのでしょう。
(ですから、ウチナーンチュ同士が、「行逢りば兄弟」とは言わないと思います。)
東京や大阪で、一人で店に入ってきたウチナーンチュを、ヤマトの人は同じような気持で迎えることができるでしょうか?
ヤマトには、「袖触れ合うも多生の縁」の精神が、昔(時代劇のころ)はあった。
沖縄には、「行逢りば兄弟」の精神が、今もある。
大雑把に言えば、そんな気がします。