百十踏揚(ももとふみあがり)は勝連の按司、阿麻和利の妃でした。
15世紀中頃の琉球は、王家の力が弱まり、地方の有力按司である護佐丸(ごさまる)と阿麻和利(あまわり)が勢力を伸ばしていました。
琉球王朝の尚泰久(しょうたいきゅう)は、護佐丸の娘を妃とし、生まれた娘、踏揚を阿麻和利に嫁がせました。
阿麻和利と踏揚の結婚は、典型的な政略結婚だったようです。
現代版組踊「肝高の阿麻和利」では、踏揚は付き人の大城賢勇(けんゆう)と共に、泣く泣く勝連に嫁いでゆきますが、やがて阿麻和利に心を開いてゆきます。
ところが、琉球王朝の仕官である金丸(かなまる)の策略により、阿麻和利が護佐丸を討つことになり、その後、阿麻和利は琉球王府により滅ぼされてしまうのです。
つまり、踏揚は、祖父を夫に討たれ、夫を父に討たれてしまったことになります。
踏揚は権力争いに翻弄され続けました。
「肝高の阿麻和利」で、阿麻和利が絶命の間際に、「賢勇!踏揚を頼んだぞ!!」と叫ぶシーンは、この組踊のクラッマックスです。
一方で、踏揚と賢勇は、首里王府が勝連に送り込んだスパイだったとする説もあります。
いずれが事実かはわかりませんが、踏揚は首里に戻り、賢勇の妻となります。
彼女の生涯はまだ終わりません。
仕官の金丸が、尚泰久に代わって、琉球国王となってしまうのです。そこで、尚家は途絶えるのですが、金丸が尚円王を名乗ったことから、以降の尚家を第二尚氏と呼びます。
賢勇は権力争いの中で討たれ、没落した第一尚氏の踏揚は、弟の三津葉多武喜(みつばたぶき)と共に、現在の南城市玉城(たまぐすく)にあった大川グスクで余生を過ごします。
写真は、大川グスクの近くにある踏揚の墓です。最後に暮らした弟とともに葬られているようです。
先日、私は読谷にある
阿麻和利の墓を訪ねました。
私は、組踊「肝高の阿麻和利」で、阿麻和利の死に直面し、悲しみ泣き叫ぶ踏揚を見ていますから、二人は愛し合っているものだと、思い込んでいます。
それで、読谷から、こっそりと阿麻和利の墓石を玉城まで運んでやろうかと思ったりしましたが、それは思いとどまりました。(冗談ですよ)
時代の流れに翻弄され続け、若くして亡くなった踏揚は、玉城で、どのような思いで、自分の生涯を振り返ったのでしょうか。それは、誰にもわかりません。
踏揚の墓は、南城市役所近くの国民運動場の近くにあります。阿麻和利の墓と違って、このような標識がありますので、場所はすぐにわかります。
阿麻和利の墓の投稿では、読谷の夕陽を載せました。今度は南城市の知念岬から見た朝日を載せておきます。
あまり深い意味はありません。踏揚もこの朝日を見ただろうなと思うだけのことです。