前回の投稿で、護佐丸・阿麻和利の乱(1458年)から、金丸(尚円王)のクーデター(1469年)までの超概略を記事にしました。
その中で、なにか気になる男がいます。それが、大城賢勇(うふぐしくけんゆう)です。
賢勇は、鬼大城(うにうふぐしく)とも呼ばれたほど、武勇に優れた人物だったようです。
琉球王朝の王女、百十踏揚(ももとふみあがり)が、言わば政略結婚で勝連の阿麻和利に嫁いだ時、賢勇は付き人として同行しています。
現代版組踊「肝高の阿麻和利」では、阿麻和利と踏揚はやがて愛し合い、真の夫婦とりなりますが、阿麻和利は護佐丸の子に敵討ちされてしまいます。
刺された阿麻和利を抱きかかえた踏揚が悲しみにくれるシーンは、この組踊のクライマックスです。
死ぬ間際に阿麻和利は、「賢勇!踏揚を頼んだぞ!!」と叫びます。
そのシーンに涙を流した男(私です)は、読谷にある
阿麻和利の墓とは遠く離れた南城市玉城に
百十踏揚の墓があることを知ると、「これは、一緒にしてやらないと。」と思ったわけですね。
そして、この単純男(私です)は、阿麻和利の死後、首里に戻った賢勇と踏揚が夫婦になったことを知ると、「踏揚!なんてことをするんだ!!」と叫びました。
「賢勇も賢勇だ。確かに阿麻和利は『頼んだぞ』と言ったけど、やっぱりそこは気を使わないと。」と思ったのです。
一方で、賢勇と踏揚は、最初から愛し合っていたとする説があります。
何事もなければ結ばれていたかもしれない二人でしたが、踏揚の父、尚泰久王の命令により、踏揚は阿麻和利に嫁いでいきます。その付き人を命じられた賢勇には辛い毎日だったでしょう。
最愛の女性が、目の前で他の男の妻になっているわけですからね。
この説を延長していくと、賢勇と踏揚は、首里が勝連に送り込んだスパイということになります。
阿麻和利は護佐丸を倒した後、次に首里を狙いますが、そのことを察知した賢勇と踏揚は、勝連城を脱出し首里へ走りました。
写真の石畳は、宜野湾市に残る「野嵩(のたけ)の石畳」です。
勝連から首里への最短ルートは、中城から普天間に抜ける道です。二人がその道を選んだとすれば、この坂道を駆け上ったことになります。
そして、二人の脱走に気付いた勝連兵が後を追ってきます。
この坂道は、「袖切り(すでぃちり)の道」と呼ばれています。追手の放った矢が、袖を引きちぎったという意味です。
天に祈った賢勇の言葉に応えて夜空から降ってきた大雨で、勝連兵のタイマツが消え、二人は逃げきることができました。
そして、首里に戻った賢勇に、尚泰久王が命じます。「勝連を討て」と。
阿麻和利の討伐に成功した賢勇は知花城を与えられ、踏揚を妻に迎えます。つまり、踏揚を取り返したのです。
そこで、単純な男(私ですが)は、こう思うわけです。「いやぁ、よかったなぁ。」と。
話はここで終わりません。
金丸のクーデターにより、琉球王朝は第二尚氏が支配することになり、第一尚氏の踏揚は命を狙われる立場となります。
賢勇は踏揚を連れて玉城に逃れようとしますが、途中で、金丸の部下に捕まってしまいます。
「頼むから見逃してくれ。私は必ず知花に戻るから。」と約束し、賢勇は踏揚を玉城に送り届けます。
そして、約束通り知花に戻り、金丸に殺されてしまうのです。
大城家の家系は今も継続していているそうです。大城の門中では500年以上もの間、賢勇のことが語り継がれていて、一門の意見は一致しているそうです。
「賢勇は踏揚を、心から愛していたのだ。」と。
琉球王朝に関する史実は、はっきりしていないものが多く、上記の2説のどちらが真実なのか、またいずれも真実ではないのかはわかりません。
わからないからこそ、ウチナーンチュの間で、ああでもない、こうでもないと話題になるのですね。
そう考えると、謎のままで真実がわからないということも、いいことだと思えてきます。
そうそう、「肝高の阿和麻利」では、毎年、賢勇役に希望者が殺到するのだそうです。
中高生もわかっているのですね。
以上のことから、今の私の中では、賢勇は間違いなくいいヤツです。
最後にもうひとつ、こんな噂があります。
賢勇の墓は今も知花城内にありますが、実は、そこには賢勇の遺骨は無く、すでに南部に移されているというのです。
移された先は、もしかしたら玉城かもしれません。