毎朝の通勤ルートにある、那覇市立某小学校の正門脇にある看板です。
以前から、チラチラとムカついていたのですが、今朝、写真に撮ってしまいました。
この看板、一体、誰が誰に何を訴えているのでしょう。
「誰が」は明快です。那覇市教育委員会です。那覇市内をいくつかのブロックに分けて、学力向上対策委員会という組織を設置しているようです。
次に「誰に」ですが、誰になんでしょう?
考えられるのは、児童、教師、親、通行人(私も含む)ですが、まあ、親なんでしょうね。
つまり、親が授業参観や始業式、子供の忘れ物を届けるときなどに「これを見よ」ということのようです。
正門脇の一等地に看板を設置するほどのことかと思うのですが、まあ、それはいいことにしましょう。
そして、私も娘二人を持つ親の立場で、この看板を読んでみました。
「父母は最大の教師である。家庭の一家団らんが心の成長を助ける。」
最初に細かいことを言うと、「最大の」は、「最高の」とすべきでしょう。
そして後半は、「家庭の団らんが心の成長を助ける」、もしくは「一家の団らんが心の成長を助ける」とすべきでしょう。
国語の先生にチェックしてもらえばよかったのに。
ところで、「父母は教師である」って、いったい何を言ってるんでしょう?
お役所の前を通りかかったら「あなたは役人である」と言われたり、警察の前を通りかかったら「あなたは警察官である」と言われているようなものです。
ですが、まあ、そんなことを言わずに、看板の作者の意を汲むと、
「両親には、子供の心の成長を助ける能力があります。その能力は教師よりも高いのです。」
「そして心の成長を助ける場所は、学校ではなく家庭なのです。」
ということでしょうか。
そんなこと、あたりまえじゃないですか。
今時、子供の心の成長を教師や学校に託す親がいますかね。
もちろん、私の娘たちが優れた教師に恵まれ、成長させていただいたことへの感謝の気持はあります。
しかし、優れた教師に出会えることは、いわば偶然で、確率はかなり低いと実感しています。
優れた教師は、教師としての能力が高いだけではなく、そもそも魅力的な人格を備えています。
平均的、あるいはそれ以下の能力の教師に、子供の心の成長を促す働きを期待しても、それは無理でしょう。
教師の役割は、この看板を製作した団体名にあるように、児童の学力向上を促すことです。
それ以上のことは、できる教師もいれば、できない教師もいます。
この看板からは、ずいぶん昔「先生、先生」と奉られて、村の名士の扱いを受けていたころの空気が感じ取れます。
壇上から、親を見下ろしている感覚があります。
まだ、そんな所にいるんですか?と言いたくなります。
教師の能力がどの程度のものか、みんな、とっくにわかってるんです。
もう、そんなに構えなくていいんです。
「子供の心の成長を促すには、ご家族の協力が必要です。子供たちのために、連携してやっていきましょう。」
こう言えばいいじゃないですか。
まさかとは思いますが、子供が問題を起こした時の責任逃れで、こんな看板出したわけではありませんよね。