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十日ほど前の夕方、自宅の台所でこの島豆腐520gを「どうやって食べたろか。」と考えているうちに、頭が、かなり昔にフラッシュバックしてしまいました。(大丈夫です)
かつて、緒形拳さん主演で「豆腐屋の四季」ってドラマがありました。調べてみると1969年の放送で、私は12歳でした。緒形拳さんが出来上がった豆腐を水槽から取り出し、その出来ばえに喜んでいるシーンが記憶にあります。そして、後に本屋で見つけた原作を読みました。
1960年代、母親の死と自らの病気のため、進学を諦めた松下さんは、家業の豆腐屋を継ぐことになりました。老いた父親と妻の3人で細々と生計をたてている零細豆腐屋でした。松下さんは、毎日夜中の2時3時に起き出して、どんなに体調の悪い日でも豆腐を手作りし、どんなに天候の悪い日でも朝の配達に出かけていきました。
その頃の毎日を松下さんはこんなふうに記しています。
(ここから)
朝の作業中に、足がすべり、水槽の角で肋をしたたかに打った。紫色の腫れが広がる胸をひたすら冷やしながら、あぶらげを揚げ続け、豆腐の配達に走り回った。
その夜のこと。疼きが激しくなった。こんな状態では、とても明朝働けないのではないか?
そのことの不安が重くのしかかる。身重の妻は、今では豆腐作業に全く役立たぬ。老父のみがたよりだ。その父も、三日ほど前、暑気に当てられたのか頭痛を訴え、激しく嘔吐したばかりなのだ。
こんなとき、豆腐屋という職をこの上なくみじめに思う。どんなに苦しくても休むわけにはいかぬ商売なのだ。
夜明け前には、必ず遅れることなく店々に豆腐を配って、この十余年の間、休むことはなかったのだ。そんな揺るぎのない信頼のきずなで、しっかりと松下豆腐店と十余軒の食料品店は結ばれてきているのだ。おろそかにできぬことだ。
私は、冬になるとよく風邪をひいたが、どんなに熱が高くても決して働くことはやめなかった。よろよろと倒れそうな状態でも、気力のみで働いてきた。サラリーマンの世界とは違って、おのれに代わって働いてくれる者はいない家業なのだ。
五体健全に働いている日々には、つい忘れているのだが、こうして不測のけがで身体が動けなくなると、いまさら愕然として気づくのだ。私の生活が、日々、いかに不安な基盤の上にいとなまれているかを。全く、おのが健康が唯一のたよりの日々なのだ。
(ここまで)
こんな毎日を過ごしながら、松下さんは、朝日新聞の歌壇に投稿を続けていました。
ボイラーに供えし盃の御神酒乾し豆腐しぞめの真夜の火点じぬ
雪ごもる作業場したし豆乳の湯気におぼろの妻と働く
豆乳の湯気が包めば真夜ながら豆腐する我が裸体汗噴く
ひと釜の豆乳煮あげて仰ぐとき月にひそかに暈(かさ)は生れいつ
老い父と手順同じき我が造る豆腐の肌理のなぜにか粗き
切り分くる豆腐五十の肌ぬくくほのかにしたし冷ゆる未明は
我がつくる豆腐も歌も我が愛もつたなかりされど真剣なり
眠りとの闘いのごとあぶらげを揚げ継ぐ深夜幾度よろめく
ひと夜経しあぶらげの肌冷えびえと商う我に秋は来にけり
泥のごとできそこないし豆腐投げ怒れる夜のまだ明けざらん
豆腐いたく出来そこないておろおろと迎うる夜明けを雪降りしきる
睫毛まで今朝は濡れつつ豆腐売るつつじ咲く頃霧多き街
豆腐五十ぶちまけ倒れし暁闇を茫然と雪にまみれて帰る
豆腐を作り続ける毎日から生み出された歌は、松下さんの心の支えであり、自らの歌に励まし続けられていたのだと思います。
1968年に、松下さんが歌集を自費出版したところ、朝日新聞の歌壇で生まれた松下ファンから注文が相次ぎ、やがて、歌集は出版社から販売されることになりました。歌集はさらに多くの人達の支持を得て、当時売り出し中の緒形拳さん主演のドラマになったのです。
ちょうどそのころ、豆腐の製造工場が各地で稼働し、価格競争力を失った松下豆腐店は廃業することになりました。松下さんは豆腐作りをやめ、後に、小説家、歌人として、多くの作品を発表することになります。
そのころの、松下さんのコメントです。
(ここから)
今、私は三十歳。妻は十九歳。青春である。私は二十代の後半まで、自らの青春を圧殺して、ただ黙々と働き耐えるのみだった。その頃の日々を青春とは呼ばぬ。今、やっと遅い青春が、ひそかな賛歌で私をくるもうとしている。これからの一年、どんな悲しみが書きこまれようとも、「豆腐屋の四季」は、まさしく私と妻の「青春の書」である。生涯でただ一冊しか書けない「青春の書」である。
(ここまで)
言葉がありませんねぇ。何を言われても、まったくその通りでございます。
なお、先ほどの島豆腐はチャンプルーとなり、私のお腹の中におさまりました。ごちそうさまでした。