桜坂ホテル建設中

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    これは桜坂周辺の地図です。



    桜坂劇場の南側に広い空き地があり、これまで駐車場として使われていました。そこに、地上18階、地下1階の桜坂ホテルが建設されています。




    歓楽街が松山に移り、寂れる一方だった桜坂は、場末の雰囲気を漂わせていました。ところが、文化の発信拠点として桜坂劇場が開場し、最近は、隠れ家的なバーやレストランが増えています。桜坂は「落ち着いた大人の街」として再生途上にあったのです。


    ホテルができれば、人が集まることにはなるでしょう。ところがこのホテル。桜坂がホテルの裏口になるようです。

    桜坂と聞くと、私は平和通りから桜坂劇場に向かう坂道を思い浮かべます。少し急ですが、品の良い坂道です。

    あの坂道の右側が、どうなってしまうのか。周辺の雰囲気と一体感のあるホテルであってほしいものです。

    もし、ホテルの裏が18階建ての断崖絶壁になるようだと、桜坂の情緒はだいなしです。


    なあ。

    桜坂を名乗ってるんだから。

    そのあたりは、ちゃーんと考えてるよな。

    なっ。

    なっ!!


    浮島通りの散歩(おまけ)

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      浮島通りの記事が意外に好評で、沢山のアクセスとコメントをいただきました。こんなことで喜んでいただけるならと、おまけです。


      (1)太陽雨

      浮島通りは一方通行ですから、常に、この街路樹からスタートです。



      日曜日の朝8時。太陽雨(てぃだあみ)で路面が濡れています。雨はまだ降っていますが、気持ちの良い細かな雨です。


      (2)ベジタリアン御用達

      浮島通りに入ったら、最初のスージを右に入って下さい。

      平和通りの手前に、精進料理の金壺食堂があります。



      精進料理バイキングが500円です。ベースは台湾料理で、魚や肉が一切使われていません。一見、お肉に見える料理も湯葉などを工夫して、それらしく見えるように作られています。


      (3)シャッター

      浮島通りに戻ります。

      ガーブ川商店街の一部を形成しているのが新天地市場です。



      日曜の朝ですから、シャッターは閉じていて当たり前ですね。だけど、平日の朝来ても、雰囲気は似ています。

      シャッターと言えば、この建物が有名です。4階建ての1,3,4階の同じ位置にシャッターがあります。



      1階のシャッターが開いた場合、何が出て来ても驚きません。だけど、3,4階のシャッターが開いたら、何が出て来ても驚きますよね。さて、何が出て来るんでしょう。


      (4)仲良し

      ガーブ川(暗渠)を越えてすぐ右手に、こんなビルがあります。



      お隣さん同志、たいへん仲が良いらしく、向かい合わせのベランダがシュールです。

      上の階も、同じです(笑)。



      お向かいさんと同時にベランダに出た時はどうするんでしょう。何か恥ずかしいでしょうね。


      (5)赤瓦

      浮島通りを更に進みます。

      OAS航空の営業所は赤瓦です。可愛いです。




      (6)元弁当屋、現てんぷら屋

      先日投稿した、弁当の木村屋。玄関はこんな感じです。



      北京在さんがのれんをくぐったのは、この入口だったんでしょう。

      木村屋の入口から、公設市場に向かって少し進むと、呉屋てんぷら屋があります。



      日曜の朝から営業中。やはり、気合の入ってる店は違います。

      どの天ぷらも美味。強いてお勧めを言えばモズクの天ぷら。無難なところでサーターアンダギーでしょうか。


      (7)隠れ家

      木村屋からすぐ、浮島通り左側、一段下がった所に、この居酒屋があります。

      沖縄料理の「コトノハ」。



      私はまだ入ってませんが、来てみたいと思いますね。

      夜はこんな感じ。



      周囲を覆い隠す夜のとばり。その場所を照らす灯り。素晴らしい。


      (8)格安宿

      しもちゃんが常宿にしていた、浮島通り新金一旅館は、浮島タウンズ旅館、国際タウンズインと、経営者が代わりました。



      一方、同じ建物内の柏青荘はずっと経営者が代わりません。

      何でか?(知りませんが)

      どちらも、ワンルームマンションタイプの部屋だと、料金はビジネスホテルより安いようです。


      (9)啓蒙看板

      宜野湾市真栄原を発信源とする、このムーブメント。あちこちに展開中ですね。



      まあ、悪いデキとは言わんが、俺なら名前は書かんな。しろまえいご君。

      (お終い)


      浮島通りの散歩(4)

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        先へ進みます。

        テキスタイルのMIMURIを右に入ると、マンションの一階を貫通する道があり、その先はにぎわい広場(旧第二公設市場)です。



        更に先に進み、次の辻を左に曲がると、松尾公園の脇を抜けて開南交差点へ戻る道。右へ曲がると、少し遠回りしてにぎわい広場に至ります。



        この辻までが、旧千歳橋通り。ここから先、国際通りまでの150メートルほどが旧浮島通りです。ファッションストリートと呼べるのは、旧浮島通りの区間、もしくは、先ほどのMIMURIまでの区間でしょう。

        旧浮島通りの入口に居酒屋がありました。店の名は「うきしま」。




        さて、私は浮島ホテルの跡地に到着しました。今、そこにはライオンズマンションが建っています。



        かつて、この場所にこんなホテルが建っていたんです。





        通りの名前になったくらいですから、もっと豪華なホテルと思っていたら、上品な、いい雰囲気のホテルです。

        浮島ホテルの玄関は、私の計算ではこの位置です。




        ライオンズマンションのはす向かいには、オリジナルTシャツの琉球ピラスがあります。



        ここまで来ると、国際通りはすぐそこです。




        浮島通りの散歩(3)

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          次の辻の手前に南島(なんとう)製菓があります。



          創業1935年。沖縄の伝統菓子の老舗です。

          年忌法要などの盛菓子(むいぐわぁし)ならココだそうで、ご主人のアドバイスに従って、白い落雁、こんぺん、焼菓子、饅頭、かるかん、おもちなどを揃えます。

          その隣は、弁当の木村屋。もう営業していません。かつての浮島通り一帯は、このような木造家屋が並んでいたのかもしれませんね。



          そして、木村屋の横の辻を入ると、公設市場の北側の道に繋がります。



          浮島通りの辻はどこで曲がっても公設市場に繋がっています。つまり、市場の外周道路なんですね。

          ところで、浮島通りは那覇のファッションストリートと呼ばれています。

          どこがやねん。と思いますね。どう見ても市場の端ですからね。

          それから、通りの名前の由来となった「浮島ホテル」の跡地が、まだ現れません。

          そこにはちょっとした経緯があります。

          神原大通りからここまで、既に400メートル近くを歩きましたが、450メートルあたりまでは、千歳橋通りと呼ばれていたんです。そして、その先、国際通りまでの150メートルほどが、浮島通りだったんです。

          そして、ある日、二つの通りは合併(?)し、浮島通りの名前が残りました。

          浮島ホテルは、当然、旧浮島通りにありました。そして、ファッションストリートと呼ばれているのも、ほぼ、旧浮島通りのことです。

          (続く)


          浮島通りの散歩(2)

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            さて、浮島通りに入って、最初の辻にやってきました。サンライズなは通りを横切ります。



            左へ曲がると開南交差点。右へ曲がると平和通りへ繋がります。えびす通りは、公設市場への近道です。




            二番目の辻は、水上店舗。つまり、ガーブ川商店街です。



            左へ曲がると大平通りを経て、農連市場。

            右へ曲がると、市場中央通りで、公設市場の東側に繋がります。



            今、私はガーブ川を渡りましたが、暗渠になっていて、そのことには気付きません。

            かつては、この場所に橋が架っていて、千歳橋と呼びました。古い写真には橋が写っていますね。



            横断幕に千歳橋連絡所と記されていますが、何だかわかりません。


            三番目の辻がこちら。公設市場の西側へ繋がる道です。右手にある金城商事と上原食品は業務用の食材を扱っていて、某青果店は、卵、バター、いなりの皮などを仕入れています。



            (続く)


            浮島通りの散歩(1)

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              私は、拡張工事が終わった神原大通りの端にいます。ここからは桜坂中通りとなりまして、300メートルほどで、てんぶす那覇の横に出ます。



              こちらは浮島通りの入口。こちらも600メートル先で国際通りに交わります。壺屋うふ(大)シーサーの後姿が見えますが、こいつはあまり好きじゃないのでほっておきましょう。




              浮島通りに入りました。街路樹がありますが、すぐに途絶えます。けち臭くて申し訳ないです。



              浮島は那覇が島だった頃の島の名前。由緒正しいのです。戦後、その名前を借りた「浮島ホテル」が開業し、その前の通りを浮島通りと呼ぶようになりました。

              これから、浮島ホテルの跡地まで歩きます。

              (続く)


              NIMBYって何?

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                JUGEMテーマ:地域/ローカル

                「ニンビー」と読みます。

                Not In My Back Yardの略で、直訳すれば「うちの裏庭に来ないで」。

                つまり、NIMBYとは「迷惑施設」のことです。その必要性は認めるが、近所に来てもらっては困る施設。原発、米軍基地、ゴミ処理場、火葬場などが該当するでしょう。


                1960年代に米国の駐日大使を務めたライシャワー氏は、知日派、親日派の大使として知られています。

                ライシャワー氏は駐日大使に着任した年(1961年)に、ホワイトハウスに対して、沖縄返還を進言したそうです。日米同盟を維持するために、それが必要だと考えたのですね。


                ライシャワー氏の特別補佐官を務めたのは、ジョージ・パッカード氏でした。パッカード氏の証言によれば、沖縄返還前に沖縄を統治していたキャラウェイ高等弁務官は、沖縄返還に強く反対したそうです。

                その理由は、「本土で米軍駐留が拒否される場合に備えて、沖縄は必要だ。」というもの。


                キャラウェイ氏は、確かにそう言ったのだと思います。発言が、胸にストンと落ちますからね。

                沖縄に米軍基地が集中している理由が、そこにあります。北朝鮮がどうした、台湾海峡がどうした、尖閣がどうしたなんて関係ありません。

                日本の世論を敵に回さないため。たったそれだけの理由で、米軍専用施設の74%が沖縄にあるんですよ。


                カテーラムイと田原公園の様子(2)

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                  JUGEMテーマ:地域/ローカル

                  続いて、こちらは田原(タバル)公園です。



                  この場所を公園とし、隣接するカテーラムイを保全したことは、那覇市のヒットでした。

                  それは認めますが、この公園はいただけません。

                  湧き水か上水かは不明ですが、公園の中央を水路が貫き、親水公園となっています。



                  水路があり、噴水があり、池があり、子供達が水遊びをするのに最適です。

                  ところが、水が出ないのですよ。

                  湧き水が枯れたか、ポンプが故障したか、理由は知りませんが、水が出ません。

                  水源の位置にあるドラゴンは、朽ちる一歩手前のようです。



                  これは、那覇市に限らず、沖縄の公園の傾向なのですが、公園をオープンし、市長や市議会議員がテープカットした日が、その公園のピークなんです。

                  公園を保守するつもりも、予算も無いので、後は朽ちる一方です。例えば、湧き水が枯れたら、それでおしまい。ポンプが故障したらそれでおしまいです。

                  そんなことなら、最初から芝生だけの公園にして、そのスペースの利用法を地域の住民に委ねるほうが、よほどマシでしょう。

                  使われない野外ステージ。壊れたままの排水口の装飾。水の流れない水路。今や、何の役にもたちません。

                  住民が使えば使うほど愛着がわき、時間が経てば経つほど味わいがでてくる公園。そんな公園、沖縄にはほとんどありません。

                  ほったらかしにされ、誰も近寄らなくなった公園なら、10や20、直ちに名前をあげることができますけどね。

                  県民は貧乏だけど、行政はリッチなんだよな。結局。


                  カテーラムイと田原公園の様子(1)

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                    JUGEMテーマ:地域/ローカル

                    旧海軍壕のあるカテーラムイ(森)、および隣接する田原公園を紹介します。

                    次の写真は、カテーラムイの丘に登る階段です。石垣が築かれ、グスク風のたたずまいです。



                    丘の上には野外ステージがありました。



                    ここが、米軍が馬乗り攻撃を行った現場です。カテーラムイの丘は予想外に低く、壕に穴を貫通させることは簡単に思えました。ガソリンを流すのですから、管のような太さで良いのです。

                    この丘の下に、千人もの人がいたんですね。入口の印象では、かなり堅牢な壕に見えましたが、こうして上に乗ってみると、脆弱そのものです。


                    ところで、これは何でしょう。カテーラムイの石垣に無数にある排水口です。



                    排水口の周りに、正方形に組み込まれたものがあります。よく見ると、これはシーサーの顔です。それが全て、壊れてしまったか、壊されたか、一つとしてまともなものがありません。

                    こだわってしまうんですよ、わたくし。こんなのに。

                    那覇市当局に言いたい。たかだか排水口に、わざわざシーサーをくっつけたんでしょ。だったら、壊れたにせよ、壊されたにせよ、元に戻しなさい。ほったらかしにするくらいなら、最初から、シーサーなんて付けなさんな。


                    と考え始めると、先ほど、一度は見逃しましたが、なんでカテーラムイの上が野外ステージなのか。意味わかりません。

                    周囲は住宅地やのに。

                    あの場所でライブをやることを、付近の住民は了解してるんでしょうか。


                    (続く)


                    カテーラムイ(森)の旧海軍壕

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                      JUGEMテーマ:地域/ローカル

                      モノレール小禄駅近くの住宅地に田原(タバル)公園がありまして、その隣の小さな丘はカテーラムイ(森)と呼ばれています。

                      そして、その地下には沖縄戦で使用された旧海軍壕が残っています。



                      この人工壕は旧海軍小禄飛行場を防衛するための施設で、総延長350メートル。ピーク時には軍民合わせて約千人が壕内にいたそうです。1メートルに3人の計算ですから、大変な数です。



                      壕内には入れませんので、扉の隙間から中をのぞくしかありません。




                      この壕の入口付近は、左右の壁が交互に突き出ていて、手榴弾を投げ込めないように、また、火炎放射器の炎が壕内に届かない仕掛けになっています。

                      また、敵の侵入に備えて、壕が垂直に掘られたり、その途中から横に抜けたりと、色々な工夫が施されています。

                      まあ、しかし、どんなに強固な壕であっても、敵に囲まれてしまえば、文字通り、袋のねずみです。

                      米軍の攻撃法は「馬乗り攻撃」と呼ばれていました。壕のある丘の上から真下に穴を掘り、穴が壕に到達したらガソリンを流し込み、火をつけるというもの。

                      強固な壕ほど、そこへの攻撃は残忍な方法になります。


                      勝利の可能性が無くなった後、壕内に残された人達は何を考えていたのでしょう。

                      暗闇の中で、弾薬も無く、食糧も無く、米軍が穴を掘る音を聞きながら、死を待つか、自ら命を絶つか。


                      自殺の方法は、手榴弾を抱えて爆発させることが多かったようです。しかし、狭い壕内でのこと、それでは周囲の人が巻き添えになります。そのため、自殺を決意した者は、これから自殺する旨を周囲に伝えるルールになっていたそうです。そして、自殺者の周囲に空間ができるのですね。

                      通常、手榴弾はお腹のあたりで爆発させますから、自殺者の内臓が飛び散ります。周囲の者は、それに反応することなく、事が終われば元の位置に戻り、再び、じっと暗闇を見つめるのでした。


                      田原公園、カテーラ森一帯は米軍からの返還地です。返還後、マンション建設の計画があったようですが、その計画は中止となりました。そして、公園が整備され、カテーラ森は残りました。

                      マンションに入居した後になって「実は地面の下で、こんなことがありました。」と言われても困りますものね。


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