軽便鉄道の枕木(楚辺)

0
    JUGEMテーマ:地域/ローカル

    沖縄県営鉄道(軽便)の遺構は、書籍やメディアで取り上げられ、どこに何があるかが、ほとんどわかっています。て言うか、ほとんど残っていないのです。

    ところが今年、楚辺と国場で線路の枕木が見つかり、ニュースになりました。


    沖縄戦で壊滅的な被害を受けた軽便鉄道は、戦後復活することはありませんでした。そして、線路跡に残された線路や枕木が、合法に、あるいは非合法に転用されたのですね。


    古波蔵交差点を壺川方面に国道を進むと、壺川東信号の手前右側に「ママのリフォーム」の店舗と駐車場があります。その駐車場脇を細い道が登っていて、道端に大きな岩があります。



    近寄るとこんな岩でした。



    これは明らかにノッチ。仲島の大石と同じく、この場所が漫湖の湖岸だったことを示しています。

    念のため、確認してみましょう。



    1947年の空撮です。

    奥武山が島の形を保っていますね。北明治橋を渡って右手が、戦前の那覇駅、現在の那覇バスターミナルです。

    そこから、古波蔵、国場方向に現在の国道330号線が延びています。軽便鉄道は道路の丘側を平行に走っていました。

    那覇駅を出た列車は市街地を走り、古波蔵交差点で漫湖に出ています。写真の岩はその少し手前ですから、湖の入り江になっていたのかもしれません。

    軽便鉄道はこの岩の丘側スレスレを通過し、古波蔵駅に到着したようです。あるいは、この岩は駅構内にあったのかもしれません。


    岩の写真の右側に、バイクが写っていますが、そのスージを入っていくと、一本の枕木がありました。(写真奥に先ほどのバイク)



    腐敗防止のため、軽便鉄道の枕木はコンクリート製です。



    この枕木を剥がして、ここまで運んだようですが、用途はよくわかりません。

    親愛の情を示すべく、ナデナデしておきましたが、正直なところ「さすがコンクリートは頑丈だなぁ。」と思うほか、特に感想はありません。

    軽便鉄道跡は道路になったり、住宅になったりしていますが、再利用できる線路は回収され、枕木は邪魔者扱いされたはず。重機で壊されたり、地中に埋められたりして「好きに持ってけ」状態だったのでしょう。

    そして、この重い枕木を運んだ人のおかげで、今まで残ったってことです。


    さらに一ヶ所で枕木が発見されていますが、その場所はなんと、私が住んでいる国場です。いや、まったく知りませんでした。

    ところが、その場所がわかりません。沖縄タイムスに記事が載ったようですが、ウェブサイトの掲載期限が過ぎていました。

    手がかりはこの写真。



    写真中央の女性は、沖縄国際大学の先生で、軽便遺構ツアーのガイド役をしているところです。

    彼女の赤い靴のつま先に、枕木が数本、埋まっています。こちらは用途が明快で、地面を舗装する際、コンクリートを節約するために枕木を埋めたんですね。


    さて、ここはどこなのか。

    ヒントは写真の左上に写っている店舗ですが、名前が読み取れません。町内を走るたびに、こんな店を探すしかありませんね。


    大学の先生がツアーを企画したり、私のような軽便ファンが探したりして、枕木もさぞ喜んでいることでしょう。

    軽便に興味の無い方にとっては、何が嬉しいのか理解できないかもしれませんが、これは亡くなった方の形見と同じ。人によってその価値が異なるのは当然のことです。


    農連市場に無料駐車場はございません

    0
      JUGEMテーマ:地域/ローカル

      先日投稿したこの写真には、二ヶ所の駐車場が写っています。



      市場で買い物される方にとっては、大変便利な場所にありますが、左右とも契約駐車場なので駐車はできません。

      コインパーキングが写真正面の湧田食品の右横にあり、市場周辺にも数ヶ所ありますから、面倒でもそちらをご利用下さい。


      某青果店は4台の車を使っていて、4台とも写真の駐車場と契約しています。1台分の駐車スペースが店先にありますが、代わる代わる車を停めて商品の積み下ろしをするので、面倒でも、用事の終わった車は駐車場へ廻します。


      さて、朝の配達を終えた私は、オンボロワゴンを駐車場に停めようとしましたが、私の駐車スペースに車が停まってるじゃないですか。

      まあ、よくあることです。ちょっとした用事で数分停めるのはかまいません。「しゃあないな。」と思いながら、10分待ちました。

      たいてい、車の持ち主が現れ「うわっ、ごめん、ごめん。」とか、「あっ、すいません〜。すぐ動かしますぅ。」で終わりです。

      ところが、一向に車の持ち主は現れず、やむなく、オンボロワゴンを再度店先へ戻すことにしました。用の無い車は仕事の邪魔になるんですよ。


      市場の中をバイクで走りながら、駐車場に寄ってみるものの、30分経ち、1時間を過ぎても車はそのままです。

      ここが契約駐車場であることと、私の携帯番号を紙に記し、その車のワイパーに挟んでおきました。


      そして90分後、駐車場を通りかかると、車がいません。

      「やれやれ、やっと動いたか。」

      と思ったら、その車がパン屋の前で信号待ちをしていました。


      C(私)「おい、いいかげんにしろよ。」

      客「なっ、なんですか。」

      C「あそこの駐車場に停めていただろ。人の迷惑も考えろ。」

      客「いや、誰が停めてもいいと思ってました。」


      嘘をついてはいけません。

      車の持ち主は買い物客で、あれこれ買い物してるうちに90分が経ったそうです。

      駐車スペースには番号が振ってあるだろ。それは何のための番号なのかわかるよな。

      そこにどんな車が停まっているかを見ただろ。魚屋の車、肉屋の車、働く車ばかりだったろ。

      だれでも停めれる駐車場があるのなら、コインパーキングは必要無いよね。

      周囲を見渡せば、少なくとも「契約駐車場かな?。」くらいは思っただろ。それなら、最初の買い物先で、停めていいかどうかを尋ねなさい。

      万一、本当に誰が停めても良いと思ったのなら、私が書いた紙を見た後、私に勘違いを詫び、車を出したことを知らせなさい。それが何で知らん顔して信号待ちしているの。


      生活する上で、人様に迷惑をかけないことは基本中の基本でしょう。

      今、自分は誰かに迷惑をかけてはいまいか。ビクビクするほど用心しても、周囲の人から見れば、それで程よい加減です。

      「誰が停めてもいいと思いました。」なんて、見つかった時の言い訳を用意しただけのことです。


      たいていの契約駐車場には看板が設置してあり、「違法駐車は2万円」などと馬鹿なことが書いてあります。

      まったく支払う義務はありません。強制的に支払いを命じることができるのは、裁判所だけですからね。ところが、そうでも書かないと、停める車が後を絶たないんでしょう。

      そうして、どんどんお互いの常識レベルが下がっていくのですよ。


      周囲の迷惑を考えない客に、

      「農連市場も無くなってしまうんだよね。」

      「残念ね。今のうちにゆっくり買い物しなくちゃね。」

      間違っても、そんなことを言ってほしくありませんよ。

      ったく!!


      糸満市与座の散歩(4) 上与座集落

      0
        JUGEMテーマ:地域/ローカル

        下与座の高嶺製糖工場跡と軽便高嶺駅跡を歩いた後、上与座に向かいました。

        上与座と下与座の位置関係はこうです。



        写真右下が与座岳山頂で、白い建造物がガメラレーダーです。そして、写真上部で蛇行している川が報得川。つまり、与座は写真の下から上に向かう傾斜地です。

        そして、与座岳に近い集落を上与座、報得川に近い集落を下与座と呼びます。


        本来、与座集落は上与座にありましたが、戦後、米軍に占領されたため、住民が高嶺製糖工場跡地に移り住み、下与座を形成しました。そして、上与座が返還された後、一部の住民がそこへ戻ったのです。

        集落で最初に住んだ人の家、もしくは場所を「根家(ニーヤ)」と呼びますが、与座集落の根家は上与座にあります。


        次の写真は与座の馬場跡。左手の建物は与座コミュニティセンター(公民館)です。



        コミュニティセンターの敷地に村獅子がいました。



        正面からアップにすると、



        なかなかいい表情です。人が良さそうな獅子ですね。

        報得川対岸の座波集落への返し(ケーシ)が彼の役割だそうですが、この表情ではねぇ。川を挟むと仲が悪いってのは沖縄全域で不変の法則のようです。


        与座馬場を進むと、突き当たりのやや手前右手に、アカチチグスクがありました。



        アカチチは「暁(あかつき)」。グスクは御嶽を意味することがあります。

        上与座には多くの御嶽がありますが、石組みがある御嶽は、アカチチグスクと与座ヌ御嶽。

        ところが、与座ヌ御嶽がみつかりません。

        事前に写真で見た与座ヌ御嶽がこちら。



        この大木を目印に集落内を探しましたが、どこにも見当たりません。

        仕方なく、コミュニティセンターに戻りました。応対してくれた女性職員が、前方の赤瓦の建物を指し、その近くだと教えてくれましたが、



        さっき、ここには来たんですよねぇ。

        彼女はこの建物を「殿内(ドゥンチ)」と呼びましたから、御嶽を管理するノロが、この場所に住んでいたんでしょう。

        だとすれば、やはり、御嶽があるはずです。

        ありました。



        ありましたが、写真で見た大木がありません。だから、気づかなかったんですね。


        御嶽の石組みは、御嶽の祠(ほこら)にすぎません。アカチチグスクは背後の森が、与座ヌ御嶽は大木が、神が宿る場所(すなわち御嶽)のはず。

        その大木が無くなったら、拝みができませんね。

        どうするんでしょう。

        コミュニティセンターに戻り、そこんとこをどう考えるのか聞こうとしましたが、「そんな事を聞いてどうするんや。」と言われそうなのでやめておきました。

        そのかわりに、御嶽が見つかったお礼を言うと、先ほどは無愛想、いや、緊張していたかに見えた女性が、とても嬉しそうにニコニコしてくれてなによりでした。


        最後に、与座ガーを久しぶりに訪ねました。



        相変わらずの水量で、ガーは元気です。

        この湧き水は今でも農業用水として使われていますが、戦前は、製糖工場で使われ、軽便の機関車への給水にも使われました。

        それから、写真と同じ形状の水車が製糖工場に設置され、サトウキビから糖液を絞る動力となっていたようです。

        昔も今も、集落にはなくてはならない湧き水です。


        ところで、最近の水質検査の結果、ガーの水が飲み水としては不適となったそうです。与座岳にできたゴルフ場がアヤシイってことになっていますが、因果関係は不明です。

        (終わり)


        糸満市与座の散歩(3) 軽便高嶺駅跡

        0
          JUGEMテーマ:地域/ローカル

          高嶺製糖工場跡の貯水槽から、県道52号線を挟んだ向かいに、こんな空地があります。



          軽便糸満線高嶺駅のあった場所です。


          軽便糸満線は、始発の那覇駅を出て東へ向かいます。古波蔵で嘉手納線と、国場で与那原線と、それぞれ分岐しても更に東へ向かい、南風原でやっと南下を始めます。その後、東風平を過ぎて西へ向かい、高嶺駅まで来れば糸満駅まで3駅です。

          糸満は那覇の真南ですが、軽便糸満線は最短距離を走らず、わざわざ「コ」の字を描いていました。

          戦前の沖縄で、主要産業と言えばサトウキビを原料とする製糖業。本島南部のサトウキビ畑を軽便鉄道が走り、各地の製糖工場から、砂糖を運んでいたわけです。高嶺駅にも高嶺製糖工場への引き込み線がありました。


          ところで。フフフ(笑)。

          この空地が駅の跡なら、その先に線路跡があるはず。

          まず、東へ向かいます。



          うわぁ、いいですねぇ。

          道路がゆるやかに左へカーブしています。このカーブの具合がまさに線路跡。

          なんだか、ワクワクします。

          そして、



          女性なら「キャー!!。」と大声をあげるところですが、私はオッサンなので「うわっ。」と軽くつぶやきました。

          サトウキビ畑を一直線に貫く線路跡。できるものなら、このまま那覇まで続いてほしい。

          線路跡が途切れる場所まで走り、再び高嶺駅跡まで引き返しました。


          東へ向かった後は西にも行かないと。

          軽便糸満線は、与座集落を抜けた後、報得川(むくえがわ)の河岸を西に向かうはずです。



          うわ、もういきなりですね。

          そして、



          も〜、このまま糸満まで続いてほしい(笑)。

          線路跡は糸満消防署の脇で県道77号線と合流し、消えてしまいます。


          私は軽便鉄道の跡を見ることができて大変嬉しいのですが、戦後70年も経って、線路跡が残っていることが更に嬉しい。

          本土の汽車の「ガッタンゴットン」に対して、沖縄の軽便は「シッタンガラガラ」。汽笛の「ポー!!」に対して「アフィー!!」。



          この景色の中を走ってたんですねぇ。

          いやぁ、嬉しい、嬉しい。

          (続く)


          糸満市与座の散歩(2) 高嶺製糖工場跡

          0
            JUGEMテーマ:地域/ローカル

            さて、与座集落は上与座と下与座に分かれています。次の地図は下与座です。



            県道77号線の南、52号線の西が集落の中心です。

            この一帯には、高嶺製糖の工場がありました。工場は沖縄戦で失われ、その跡地に集落ができたのです。



            県道52号線から、県道77号線へショートカットするスージがありますが、そのスージと県道77号線に交わる場所が製糖工場の正門で、今も門柱が残っています。



            このスージは、製糖工場の構内道路だったのですね。




            スージを県道52号線と交わる場所まで歩くと、こんな貯水槽があります。貯水槽から溢れた湧き水が排水溝に流れ出ていました。



            そして、貯水槽の壁には数多くの銃弾の跡が残っていました。



            高嶺製糖工場が操業していた間、この貯水槽には糖蜜が保管されていたとのこと。サトウキビから製造した原料糖液から不純物を取り除いたものが糖蜜。糖蜜を結晶させると砂糖になります。


            高嶺製糖工場は、沖縄戦が始まった後も操業を続けていたそうです。日本軍に提供する黒糖酒を造っていたとか。

            日本軍はお酒を飲む余裕なんてあったんかいなと思いますが、どうやら「切り込み」を決行する前に飲むお酒だったようです。

            夜中に「うわー!!」と叫びながら、敵陣営に突入する戦術が「切り込み」。

            一種の奇襲攻撃ですが、相手が油断しているからこその奇襲。最初のうちは良かったでしょうが、相手が待ち構えるようになってからは、ほとんど成果は無かったようです。

            圧倒的な米軍の物量に、ジリジリと追い詰められ、対抗できる術も無く「うわー!!」と叫ぶしかなかったということなんでしょうね。

            (続く)


            糸満市与座の散歩(1) ガメラレーダー

            0
              JUGEMテーマ:地域/ローカル

              沖縄本島の南部に、与座岳という山(て言うか丘)があります。

              沖縄戦末期。首里を放棄した日本軍が、与座岳と八重瀬岳を結ぶ防御ラインを設定したため、与座岳麓の集落(現在の糸満市与座)は激戦区となり、壊滅的な被害を被ることになりました。


              現在の与座岳山頂には、航空自衛隊の基地があり、一昨年、このようなレーダーが設置されました。



              円形のレーダー部分が亀の甲に似ていることから「ガメラレーダー」と呼ばれています。ミサイルや航空機を監視するための高性能レーダーで、日本全国に4基が設置されています。


              去年、与座の「与座ガー」を訪ねましたが、その水量には驚きました。



              すぐ近くの大里集落にある「嘉手志川」と共に、本島屈指の湧き水と言えるでしょう。

              20130527001939_0.jpg

              いずれの湧き水も、その水源は与座岳にあります。自衛隊基地には賛否がありそうですが、宅地開発などを防ぐ意味では効果絶大です。今後もこの一帯の湧き水が枯れることはないでしょう。

              (続く)


              農連市場の風景

              0
                JUGEMテーマ:地域/ローカル

                今日の那覇は晴れ。気温は27度まで上昇しました。私は半袖のシャツで、車のエアコンを効かせつつ、午後の配達に向かっています。


                さて、先ほどの昼休み。私はマルキン海産のお母さんにお願いし、店舗の屋上へ上らせていただきました。

                店舗脇のこの階段。一階の店舗、二階の倉庫をスルーし、一気に三階の居住区に到達します。

                20130315114426_0.jpg

                お母さんちの玄関前を通り、次の階段を上ると、



                おお!!。想像以上の眺めがそこに。

                市場の屋根が、(良く言えば)空港のボーディングブリッジのようです。

                右端の茶色い屋根の先っぽには、「ようこそ農連市場へ」の看板と二匹のシーサーがいます。その右はガーブ川です。

                真ん中の広い屋根の上には黒い物がたくさん置いてありますが、これはタイヤ。もちろん、屋根を飛ばさないことが、その役目です。そして、屋根の先にある白い四階建ては湧田食品店。

                駐車場が左右にありまして、右側が元からの駐車場。左側は、一昨年の台風で屋根が飛び、そのまま駐車場になりました。

                飛んだ屋根の下で商売をしてたオバぁ達は、真ん中の屋根の下に「寄せ寄せ」されています。


                では、別の角度でもう一枚。開南本通り方向です。



                このアジアな風景を拡大してみます。



                同じような間口の建物が四軒ならんでいますね。右から順に、舞踊教室、謎の自動販売機、食堂メモリー、漆器店です。

                私はついさっき、メモリーでカツ丼を食べたばかりですが、メモリーが三階建てだったなんて、今、初めて知りました。


                ところで、この屋上には給水塔があり、ハシゴで登れます。そうすると、給水塔のせいで270度しか得られない視界が、ど〜んと360度になるはず。

                そこへ登って、360度の景色をクルクル回りながら見てみたいものです。

                が、しかし。

                私のいる場所はここ。



                このテッペンで、おっさんがクルクルするのはいかがなものかと考え、大人の私は、それを自重したのでありました。


                不発弾の恐怖

                0
                  JUGEMテーマ:地域/ローカル

                  沖縄戦で地中に残された不発弾は、推定1万トン。これまでに7千5百トンが処理済みです。

                  一方、最近の不発弾処理量は、毎年、20〜30トン。処理量が年々減ると考えれば、不発弾を一掃するには、あと百年かかる計算です。



                  これまで、最も多くの犠牲者が生じた事故は昭和49年に起きました。小禄の幼稚園前で下水道工事中の重機が、地雷に接触し爆発。作業員3名と幼児1名が死亡し、34名が重軽傷を負ったものです。

                  新聞に掲載された事故現場の写真がありました。





                  事故当日、幼稚園ではひな祭りのお遊戯会が行われており、幸いにも、園児達は園舎の中にいました。

                  ところが、お遊戯会に出席した父兄が、入園前の幼児を連れて来ており、そのうち二人が園庭で遊んでいたのです。一人は砂場で、一人はブランコで。

                  地雷が爆発し、その爆風で二人は吹き飛ばされ、飛んできた土砂で生き埋めになりました。一人は亡くなり、一人は意識不明の重体となりましたが、懸命な治療により、奇跡的に回復しました。


                  ところで、不発弾の除去に投入されている費用は、こんな実績です。



                  2009年まで、ず〜っと4億円弱。その後は25億円弱まで、費用が増加しています。

                  増加に転じた要因は、工事前の不発弾探査費用を、従来は公共事業に限り国が負担していたものを、民間事業にも適用範囲を広げたことによります。

                  ところが、それでは費用分担が変わっただけで、不発弾の処理量は変化しません。

                  第一、25億円なんて少な過ぎませんか。

                  海外の紛争地区で、機雷や地雷を除去するために、日本が支出している額と比べれば、1桁、いや2桁少ない印象です。

                  「沖縄県内の道路、空き地、畑など、今すぐ調査できる場所は、国の責任でさっさと済ませなさい。」。

                  「米軍は、自分たちでばら撒いた爆弾は、基地に持って帰りなさい。」

                  と言いたい。


                  今年の夏、ちょといい話が新聞に掲載されました。



                  手前の女性は、ブランコで遊んでいた女の子。男性は、彼女の命を救った医師で、与儀にある沖縄セントラル病院の理事長、大仲良一さんです。

                  事故以来、40年ぶりの再会。女性は看護師だそうです。


                  せっかくのいい話に水をさすようですが、多くの不発弾が残っている現状を考えれば、良かったで話は終わりません。

                  むしろ、不発弾に対する警戒心が弱くなりつつあるのではと心配になります。


                  さて、私は小禄の某所に立っています。

                  先ほどの写真と見比べると、










                  古い二枚の写真は、逆方向から撮ったものですが、いずれも、奥の方に三階建ての建物が見えます。

                  そのいずれもが、今も残っているので、場所の特定が簡単でした。つまり、私の足元で、地雷が爆発したということ。


                  さあ、日本政府も米軍も、「もうこれ以上見つかりません。」ってなるまで、不発弾を探しなさい。

                  ドッカーンとなった後で反省しても、何にもなりませんからね。


                  来月の総選挙

                  0
                    JUGEMテーマ:地域/ローカル

                    衆議院が解散し、来月14日投票の日程となりました。

                    普天間飛行場の県外移設を公約しながら、後に撤回した自民党議員4名は、いずれも立候補の予定です。

                    1区国場幸之助(41)
                    2区宮崎政久(49)比例
                    3区比嘉奈津美(56)
                    4区西銘恒三郎(60)

                    沖縄県知事選で県外移設派の翁長さんが圧勝しましたので、自民党候補者は苦戦が予想されます。


                    県知事選の前に、国場さん、比嘉さん、西銘さんは辺野古を容認するとし、宮崎さんは容認、反対のどちらとも言えないとしました。

                    さて、県知事選が終わり、国場さんが、再度スタンスを変えたようです。

                    県外移設で当選し、自民党本部の恫喝で容認に転じ、県知事選でも仲井真さんを支持しました。そして、今度はどちらとも言えないそうです(笑)。


                    沖縄第一区の予想候補者は以下の通りです。(青色が現職)

                    国場幸之助(41)自民
                    赤嶺政賢(66)共産比例

                    下地幹郎(53)そうぞう
                    喜納昌吉(66)無所属

                    県知事選で健闘した下地さんが当選し、赤嶺さんは比例復活って結果になりそうです。


                    農連市場の解体始まる

                    0
                      JUGEMテーマ:地域/ローカル


                      開南本通り(仏壇通り)の拡張に伴う建物の解体が進む中、ついに、農連市場でも始まってしまいました。

                      ここは、市場の開南本通り側入口です。



                      古い建物が三軒並び、両端は空き家。真ん中のモヤシ屋は先月で営業を終えました。

                      簡単なもんです。ショベルカーで数回叩けば、



                      この通り。



                      古い空き家を順に更地にし、本格的な解体工事の際に、資材置場などに使うのだと思います。


                      農連市場の開場は1953年。それ以来、ここで働いてる人はたくさんいます。

                      当時15歳なら、今は76歳。

                      建物の大半は開場時のままです。

                      私は市場に来てわずか2年ですが、それでも、建物を壊されると胸が痛みます。60年も働いてる人達は、どんな気持ちなんでしょう。


                      マルキン海産のお母さんに「モヤシ屋が壊された。」と伝えると、驚いた顔になり、

                      「このあたりがキューっとするさ。」

                      と胸のあたりを掴んでいました。


                      ウチナーグチで「カナサン」は、悲しいではなく、可愛い。

                      悲しいは「ナチカサン」です。

                      「ナチカシク ナティ ナダヌ ウティタン。」

                      などと使います。
                       


                      calendar
                            1
                      2345678
                      9101112131415
                      16171819202122
                      23242526272829
                      30      
                      << November 2014 >>
                      プロフィール
                      profilephoto


                      念願の沖縄生活を始めて14年になりました。
                      沖縄の生活、文化、風土、音楽、政治などの話題を投稿しています。 (y_mizoguchi@yahoo.ne.jp)
                      Twitter
                      お勧めの本と映画
                      selected entries
                      categories
                      archives
                      recent comment
                      recent trackback
                      profile
                      search this site.
                      others
                      mobile
                      qrcode
                      powered
                      無料ブログ作成サービス JUGEM