羽地朝秀(1617-1676)の改革は「羽地仕置(はねじしおき)」に表現されています。それは、薩摩に支配されてしまった、琉球国のありかたを示したものでした。
「羽地仕置」
1.王家をはじめ庶民にいたるまで贅沢を禁じ、倹約を奨励する
2.遊女あそびを厳禁し、風紀の粛正をおこなう
3.神女や女官の政治的影響力を排除し、伝統的な宗教上の慣例を改める
4.役人の不正を取り締まり、疲弊した農村の復興をはかるため農民にも開墾を奨励する
5.士(サムレー)階層に諸芸を学ばせ、薩摩と交渉するには教養が必要であることを説く「羽地仕置」の第3項は政教分離。
聞得大君を頂点とする神女組織を政治から遠ざけると同時に、不要と思われる祭礼を廃止しました。また、経費削減の観点から、国王の久高参拝などの行事も廃止しました。
羽地の狙いは「神の国」から「近代国家」への変革。当然、守旧派からの抵抗がありましたが、それを抑え込むために羽地が持ち出したのが日琉同祖論でした。
つまり、
「ヤマトと琉球の祖先は同じ。琉球独自の伝統にこだわることはない。」
と言うもの。
羽地自身には、日琉同祖に対するこだわりは無かったと思いますが、従来の慣習を破壊し、国の制度を変える上で、都合が良かったのでしょう。
話は少しそれますが、羽地の改革は一見、琉球の伝統破壊に見えますが、例えば、私達がイメージする琉球の伝統芸能は、そのほとんどが羽地以降のものです。
例えば、組踊。
玉城朝薫(1684-1734)は、1718年に踊奉行に任命され、中国からの冊封使をもてなすために、組踊を創作しました。「二童敵討」など、朝薫の五番はあまりにも有名です。
また、組踊の始まりは、組踊を構成する古典舞踊や古典音楽の始まりでもありました。
古典音楽の始祖と言われているのは、湛水流の幸地賢忠(1623-1684)。首里節、諸鈍節、作田節、揚作田節などは幸地の作で、野村流、安富祖流などは湛水流の分派にあたります。
次に、エイサー。
エイサーの原型に最も近い形式を継承しているのが
平敷屋エイサーで、300年の歴史を有します。その300年前と言えば、丁度この時期にあたりますね。
「羽地仕置」の第5項にある、士族が身につけるべき教養とは、ヤマトの教養を意味しています。
これは、積極的にヤマトの文化を取り入れようとするもの。朝薫の組踊はヤマトの歌舞伎や能から強い影響を受けていますが、それは朝薫の嗜好だけではなく、琉球国の方針でもあったわけです。
朝秀の改革は伝統破壊ではなく、リビルド。国の立場に合った伝統を新たに構築したと言えるでしょう。
朝秀は「士族」の身分を再定義しています。それまでの士族が、自分の部下を勝手に士族に任命したことなどから、士族と平民の区別が曖昧になっていたのです。
朝秀は全ての士族に系図を求め、琉球王府がその系図を認めた者を士族としました。つまり、琉球王府に仕えるのは個人ではなく家ということ。
沖縄の門中制度はこの時に始まったもので、ウチナーンチュが系図を大切にする所以でもあります。
軍事力ではまったく歯が立たないヤマトに統治された琉球国が、その国のありかたを考える時、日琉同祖論を持ち出し、ヤマトの伝統を積極的に取り入れ、一見、ヤマトに対する迎合とも見える姿勢をとるしかありませんでした。
話は飛躍しますが、その行き着く先が、琉球併合や沖縄戦とするならば、あまりにも不条理と言うほかありません。
(続く)