初代南極観測船の宗谷です。
1956年11月、第一次南極観測隊を乗せて日本を立ち、翌年1月に日本の観測船としては初めて、南極大陸に接岸しました。
以降、宗谷は毎年、南極大陸への航海を続け、1961年に第六次観測隊を南極に運び、その役目を終えています。
過酷を極めたのは1957年の第二次観測隊でした。悪天候に見舞われ、第一次観測隊の収容には成功したもの、第二次観測隊の南極上陸は断念せざるを得ませんでした。
その時、南極に取り残され、厳しい冬を生き抜いたカラフト犬のタロとジロはあまりにも有名です。
タロとジロが発見された年の翌年、1959年10月のこと。第四次観測隊を乗せた宗谷の甲板長は、津堅島出身の嘉保博道(かほひろみち)さん。宗谷の乗組員、観測隊員を通して唯一のウチナーンチュでした。
嘉保さんは立派なヒゲの持ち主で「ヒゲのボースン」と呼ばれていたそうです。(ボースンは甲板長の意味)
嘉保さんが乗船した宗谷の最初の寄港地はシンガポール。つまり、宗谷が津堅島の沖を通ります。
その日の朝、津堅島の子供達は丘に登り、港から出た多くの船が、宗谷に伴走しました。
嘉保さんを激励する島の人たちと、甲板からそれに応える嘉保さん。見送る側の誇らしい気持と、見送られる側の喜び。
米国統治下の沖縄ですから、宗谷が伊豆大島の沖を通るのとは、訳が違います。
私はその光景を思い浮かべ、早くもウルウルモードですが、話は続きます。
宗谷は南極に第四次観測隊を無事に送り届け、日本への帰路、那覇に寄港したのです。1960年4月16日のことでした。
その時の古い写真がありました。
那覇に到着した宗谷は大歓迎を受けました。5万人が泊港に押し寄せたそうです。日の丸の小旗が振られ、万歳の声が止みませんでした。
宗谷が那覇に滞在したのは、わずか2泊3日。嘉保さんは迎えに来た兄弟達と共に、一晩だけ津堅島に帰り、それが26年ぶりの帰省となりました。
嘉保さんが帰って来ると知り、島は沸き返りました。嘉保さんの小さな実家に島民が集まり、同級生達は「歓迎嘉保博道君」と書いた幟を立てました。
両親の仏前で手を合わせ、涙を流す嘉保さん。そこへ「これでクンチグワー(栄養)をつけなさい。」と刺身を持って来た近所のオバぁ(笑)。風邪で寝込んでいたはずの嘉保さんの叔母が現れ、手拍子に合わせてカチャーシーを始めました。
当時の津堅島には公民館が無かったのか、嘉保さんの歓迎会は御嶽の原っぱで行われたようです。
夜遅くまで続いた歓迎会で、嘉保さんが披露したのは沖縄民謡「浜千鳥」でした。
旅や浜宿り 草の葉の枕
寝ても忘ららぬ 我親の御側
千鳥や浜居てチュイナチュイナ
(旅は浜に宿り、草の葉を枕に寝ているが、寝ても忘れられないのは、親の側で暮らした日々のこと)
この曲を選んだ嘉保さんは素晴らしいけれど、その日の状況にピタッとくる曲を用意できる沖縄民謡の厚みが凄い。
これから先、浜千鳥(ちじゅやー)を聞く度に、私は津堅島の御嶽を思い浮かべるでしょう。
さて、短い滞在を終え、宗谷は那覇を後にしましたが、その夜、宗谷から一通の電報が沖縄の新聞社に送られて来ました。
そこに記されていたのは、嘉保さん自作の琉歌でした。
天からがやゆら神からがやゆら
志情きぬ雨に濡りてうれしや
(天が降らせたのか、神が降らせたのか。人情の雨に濡れてどんなに嬉しかったことか)
嘉保さん、やりますねぇ。
津堅島の暮らし、オバぁのウチナーグチ、叔母さんのカチャーシー、御嶽の歓迎会、沖縄民謡・・・。
この素晴らしい琉歌を沖縄の文化や伝統が、しみじみと下支えしていますよねぇ。