ペリーの野営地

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    黒船で沖縄に現れたペリー提督は、時間をかけて沖縄本島の各地を視察しています。

    視察のルートは、大雑把に言えば、首里から西原に出て東海岸を北上し、宜野座あたりで折り返し、西海岸を南下するというもの。沖縄本島の地形、石炭の有無、食料の状況など、東アジアの拠点として琉球を評価したかったようです。


    視察隊には画家のウイリアム・ハイネが同行しており、各地の風景をスケッチしています。

    その一枚がこちら。



    対岸に見えるのは知念半島。小高い丘の松の下で、視察隊がテントを設営中です。左手のワラバーは数羽の鶏を持ち、右手のニィニィは薪木を抱えています。テントの前のニィニィは、鍋で何かを煮ているようです。


    この場所は、西原町小橋川の上ヌ松尾(イーヌマーチュー)だろうと言われています。

    まっ、当然、私は今そこに。



    小橋川公民館の裏手にある上ヌ松尾は、階段状に三つの広場があります。丘全体が御嶽で、下から順に、下ヌ御嶽、上ヌ御嶽、上森ヌ御嶽。

    上の写真は上森ヌ御嶽(上段)から撮ったものです。

    上ヌ御嶽(中段)に最近こんな石碑ができました。



    ペリーの視察隊がここで野営したことが、ウイリアム・ハイネのスケッチと共に記されています。彼らは、小橋川集落で鶏4羽、卵40個、薪木2束を調達し、この場所を「キャンプ・ペリー」と名付けたようです。


    泊港に黒船が現れ、首里や那覇は大騒ぎになりました。その視察隊が、西原の小さな集落に現れたのですから、住民はさぞ驚いたことでしょう。集落始まって以来の大事件だったかもしれません。

    その大事件から約160年。沖縄の長い歴史からみれば、つい最近のことです。集落の伝承が充分に信用できる期間と言えます。

    最後に、上ヌ御嶽(中段)から上森ヌ御嶽(上段)を見上げました。



    ここで、ペリーの視察隊が野営したんですねぇ。

    それにしても「キャンプ・ペリー」って。160年前から、そんなことを言ってたんですねぇ、この人達は(笑)。

     


    佐敷手登根のフッチャー石

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      前日紹介した「佐敷のテラス」ことアカバンタ。



      アカバンタから北へ下れば手登根集落です。

      そこに、こんな石が突き刺さっています。



      フッチャー石と呼ぶそうで、尚巴志の弟が福建省から持ち帰り、アカバンタから放り投げたら、ここに突き刺さったと(笑)


      福建の中国語読みはフージエン。訛ってフッチャーか?

      尚巴志に弟がいたなんて知りませんでしたが、彼はアカバンタから放り投げるために、わざわざこの石を持ち帰ったのか?

      で、突き刺さったからオッケー!!(笑)


      あそこからね。




      まっ、しょうゆ〜こと(笑)


      佐敷のテラス

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        南城市佐敷に絶景ポイントがありました。その場所に立ち、思い付いた言葉が「Terrace」。ホテルの名前みたいですが、そこはまさに、テラスと呼ぶに相応しい場所でした。

        Google earthで見た南城市。



        知念半島が、グッと中城湾に突き出ていますから、半島の見晴らしのきく場所であれば、写真の範囲の海が一望できるのです。

        その場所の一つがここ。



        北側が佐敷平野。南側が丘陵地で樹木帯が斜面です。その丘陵地の北端に丸い広場が小さく見えてますね。

        そこが「Terrace」。

        パノラマ写真を撮りました。



        しょ、ショボッ!!

        なんですかねぇ、これは(泣)。

        あの素晴らしい眺めが、なんでこんなことに。

        カメラがショボいと言うよりは、人間の眼の性能がいいんだはず。信州を旅行し、美しいアルプスをパチパチ撮影し、それをプリントした時の絶望感に似ています。

        では、左手から4枚の写真に分けてみましょう。

        与那原



        中城



        北中城



        勝連



        あかんわぁ。て言うか、もう写真はエエわっ!!


        道順を説明しますから、だまされたと思って行ってみて下さい。

        県道86号線をニライカナイ橋に向かって走ります。右手に沖縄刑務所が見えたら、ややスピードダウンして下さい。

        県道が大きく右にカーブします。その先を右折したら「カフェくるくま」です。くるくまに入る道の少し手前に左に下りる道があります。



        そこを佐敷に下りるとみせかけて、左斜めに入ります。つまり、風力発電の風車に向かうのです。

        こんな道を進みます。



        すると広場に着き、こんなテーブルが設置されています。



        お待たせしました。このテーブルの向こう側が「Terrace」です。


        ここは手登根の「アカバンタ」。

        ウチナーンチュでも、この場所を知ってる人はごく僅かでしょう。

        かつては知念から佐敷に向かう近道として往来があったそうですが、交通が便利になるにつれ放置され、つい最近まで草木が茂り、人が入れなかったようです。

        それを手登根集落の皆さんが、かつての絶景ポイントを復活させようと、整備されたとのこと。


        ううっ。

        だっ、誰か連れて行って、この感動を共有したい。

        「あら、いい景色ね。じゃあ、くるくまに行きましょ。」

        って言われたらショックだけど(笑)


        首里の古地図

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          このブログで時々使用している首里の古地図は、こちらのサイトにあります。

          沖縄県立図書館「貴重資料デジタル書庫」



          1700年代の首里の地図をデジタル化したもので、重要箇所を拡大表示することができます。

          例えば、首里汀良町付近を見れば、



          9の枠が聞得大君御殿と記されていて、さらに拡大すると建屋の配置までわかります。



          縮尺が正確で、首里の中心部は現在の地図とピタリと重なります。(周辺部はややラフ)

          地図の作者や製作時期は不明ですが、琉球王府が実際に使用していた地図に間違いありません。


          この地図の優れている点が、もう一つあります。それは、数十年程度の幅で、意図的に地図情報を交錯させていること。

          例えば、現在の那覇の地図を300年後の人が見るとしましょう。そして、その地図に国際通りの沖縄三越と若狭の龍柱が記されていたとします。

          正確に言うと、沖縄三越はハピナハと記すべきで、若狭の龍柱はまだ完成していません。しかし、300年後の人は、ハピナハよりは沖縄三越の場所を知りたいでしょうし、若狭の龍柱があった場所も知りたいはず。

          だから、矛盾を承知の上で、沖縄三越も若狭の龍柱も記してあるのです。


          「あのね。龍柱が完成した時には三越は無かったの。両方が書いてあるなんて、この地図は間違いよっ!!キッ!!」

          などと言う人は、そのありがたみが理解できない「バ〜ロ〜」です。


          いやぁ、見れば見るほど上等地図ですよ、これは。


          その後の惣菜通り

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            1ヶ月ほど前、惣菜通りの店舗が大屋根の下に移ったので、惣菜通りとは呼べなくなったと投稿しました。
            →こちらから

            がらんとした空間の前に、一台の車が停まっています。



            これは豆腐屋のヨシエさんの車です。ただでさえ狭い惣菜通りに車を停めたら、たいへん迷惑です。

            ところがです。来る日も来る日も同じ場所に車が停まっていたら、もはやそれは風景の一部となり、誰も文句を言わなくなるから不思議です。

            つまり、ヨシエさんの車は石敢當のようなもの。避けて通れば何も問題ありません。

            こういうのを実効支配と言うんでしょうね(笑)


            店舗が移り終わったので、一昨日から取り壊しが始まりました。

            朝はこんなで、



            お昼になるとこんな。



            写真右端にヨシエさんの車が停まっているのを見ておいて下さい。

            メモリーでカツ丼を食べ終わると、ヨシエさんの車が1mほど右に移動していました。




            前日、ヨシエさんが金曜日まで休むと言うので、そらまた何で?と尋ねると、

            「ちょっと遠くまで、行ってこよ〜ね。ウフフ。」

            と言うてました。

            車の主が遠くに行ってウフフ。キーも無い。工事の人達が総がかりで車を持ち上げ、移動させたのです。

            それで、今日もこんな。



            おかげで惣菜通りは縦横通行止めです。


            何にも知らないヨシエさんは、明日の朝、市場に現れ、3日間の出来事を知ることになりますが、

            「アハハ、そうだった?」

            で、話は終わるでしょう。

            だって、たいした問題じゃないでしょ(笑)


            そして、惣菜通りの一角は更地になりました。



            カマボコ屋のトモコオバぁは、

            「(市場が壊されるのを)見てられないさ。」

            と、店を早じまいし、もう市場にはいません。


            儀保交差点から太平橋(4) 西森御嶽

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              ここは西森御嶽の入口です。



              拝所入口の石碑がありますが、上半分が飛んでます。おそらく「西森御嶽拝所入口」と記されていたんでしょう。

              石畳道が、



              森の中に続きます。



              石段の上に最初の拝所がありました。



              森の中には多くの拝所があり、それを石畳道が繋いでいます。ちょっとした森の中の散歩道ですが、御嶽で散歩ってどうなんでしょ。ねぇ(笑)



              広場に出て、



              その奥に、大きな拝所。




              首里の古地図を見ましょう。



              右端の道はシムミチ。儀保ビラや御待所に向かいます。現在の儀保交番のあたりから西に道が分岐して、西森御嶽に入ります。

              西森の中に円形の施設が記されていますので、そこを拡大しましょう。



              これは1657年に造られた西森拝殿(ニシムイフェーデン)です。さすがは儀保大阿母志良礼が直轄する御嶽ですね。

              円形の石積みと内側の空間への入口。首里城の首里森御嶽に似ています。



              もっとも、西森拝殿は沖縄戦で消失しています。

              地図と照合すると、先ほどの広場と奥の拝所のあたりが拝殿跡のような気がしますが、よくわかりません。


              さて、御嶽の散歩が続きます。



              西森御嶽は、その眺望の良さから首里八景の一つとされています。

              こちらは、末吉の森。右手の山頂に末吉宮が見えます。



              末吉公園の滝見橋はホタルの名所として有名ですが、あの滝の上あたりに、私は立っているようです。

              もう一ヶ所。



              抜群の眺望でした。

              左端に新都心のツインタワーが見えますね。慶良間も良く見えました。

              この眺望は西森御嶽の石畳道を最後まで歩くと得られます。と言ってもすぐです。

              「この投稿を見て、石畳道を最後まで歩いたが、木立が邪魔をして、ど〜も写真のようには見えないな。」

              と思った方。そんな時は一歩前に出る心がけが大切です。

              一歩前に出るとどうなるか。それは現地で確かめて下さい。むやみに真似をしないようにお願いします。


              儀保交差点を北に入り、儀保交番を左折すると公園の駐車場があります。

              西森御嶽の入口のすぐそばで、県道を渡った所が儀保ビラ。太平橋の遺構も歩いてすぐです。

              (終わり)


              儀保交差点から太平橋(3) 儀保大阿母志良礼

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                儀保(ジーブ)ビラから県道を挟んだ向こう側に見えた森は西森(ニシムイ)。



                首里から見て、北(ニシ)の森の意味ですが、西森と漢字を当てられています。本来は北森と書くべきですが、それではキタモリと呼ばれてしまいます。

                名を取れば北森で、実を取れば西森。悩ましいところです。西原町も同じ悩みを抱えてますが、いまさら北原町にはできませんよねぇ。


                琉球王国の神女組織は聞得大君を頂点に、三人の大阿母志良礼(オオアムシラレ)が国を三分割し、それぞれの地域のノロを統治していました。

                その一人が儀保大阿母志良礼(他に、首里、真壁)。西森は儀保大阿母志良礼が直轄した御嶽でした。


                儀保大阿母志良礼が住む儀保殿内は、現在の首里汀良町にありました。聞得大君御殿(現在の首里中学)のすぐ近くです。

                儀保殿内を訪問するノロは、儀保御待所に入り、訪問許可が下りるまで待機しました。つまり、儀保御待所は「儀保殿内ヌ御待所」だったのです。


                御待所は赤田にもありました。管轄していたのは首里大阿母志良礼。したがって、赤田御待所は「首里殿内ヌ御待所」になります。そして、首里殿内はミーミンメーの赤田首里殿内です。

                話がわからなくなった方は、あきらめて下さい。これ以上、丁寧に説明できません(笑)

                (続く)


                儀保交差点から太平橋(2) 儀保ビラ

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                  再び、首里の古地図です。



                  太平橋の南で二つに分かれる宿道は、右がイーミチ、左がシムミチ。二つの道に挟まれて儀保御待所(4の枠)がありました。

                  御待所の近くに横長の小さな森が記されています。この森は丘陵地で、太平橋から首里に向かうには急な坂道を登り、そして下る必要がありました。

                  そのため、イーミチは森の東側(右)を、シムミチは西側(左)を抜け、少しでも坂道がなだらかになるような工夫をしています。


                  Google earthで付近の航空写真を見ましょう。



                  かなり細めになりましたが、横長の小さな森は健在です。その北側をイーミチが抜けています。

                  で、シムミチはどうなったか?

                  広い県道が開通して、シムミチは飲み込まれてしまいました。この県道は、更に拡張される予定で、その工事の過程で太平橋の遺構が見つかったのです。


                  あえて、シムミチの痕跡を辿るとすれば、この階段です。



                  この場所にあった坂道は儀保ビラ(ジーブビラ)と呼ばれていました。県道の開通により丘陵地が(ビラも)削り取られ、その急斜面に階段を造ったということ。



                  儀保ビラは頂上付近で切り通しとなっていて、儀保くびりと呼ばれていましたが、その形跡は見当たりません。


                  沖縄では切り通しをワイトゥイ(割り取り)と呼びます。

                  首里近辺では玉陵坂のワイトゥイが、その原型を保っています。



                  重機の無い時代に、岩にクサビを打ち込み、文字通り割り取って開通させた道です。岩肌に残るクサビの跡を触ると、結構、ジーンときたりします(笑)

                  儀保くびりは、地形から考えて、玉陵坂のワイトゥイほど深くはなかったと思いますが、雰囲気は似ていたでしょう。写真も見あたらず残念です。


                  さて、儀保ビラの跡にできた階段を上ってみましょう。

                  眼下には拡張工事中の県道があり、道路の向こう側に西森(ニシムイ)が見えます。儀保の御嶽がある神聖な森です。



                  私が立っている丘陵地と西森は、そもそも繋がっていて、そこに県道を切り通したのです。

                  私としては、この切り通しをワイトゥイと呼びたくはありませんね。重機を使って道を通したのですから、それはインチキというもの(笑)

                  ワイトゥイの仲間には入れてあげません(笑)

                  (続く)


                  儀保交差点から太平橋(1) 儀保御待所

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                    首里平良町で太平橋の遺構が発見されたので、先日、その発掘現場を見てきました。

                    残念ながら、石橋のアーチ部分は沖縄戦で失われていて、発掘中の遺構は橋の取付道路の擁壁です。



                    それにしても、見事な石積みです。太平橋が首里の北玄関にふさわしい橋だったことがよくわかります。


                    首里の古地図を見ましょう。



                    5の枠が太平橋。

                    南に下って4の枠で宿道が二つに分かれます。右が「上道(ウィミチ)」、左が「下道(シムミチ)」。いずれも首里城へ向かいます。

                    その分岐を拡大すると。



                    御待所(ウマチドゥクル)と記されています。

                    この建物は儀保(ジーブ)御待所。国王が北部へ行幸(ぎょうこう)した帰路、家臣らがここで出迎えました。

                    あるいは、王府直轄の祭祀の際、各地のノロがここに集合し、揃って首里城へ向かいました。


                    以前、聞得大君の御新下りに関連して、赤田御待所を紹介しました。

                    赤田御待所は現在の大角座歩道橋の近くにあり、首里の東玄関でした。

                    御待所で出迎えることを坂迎え(サカンケー)、あるいは境迎えと言います。儀保も赤田も、首里と他界との境だったのですね。


                    北から首里城に向かう人は、太平橋を渡り儀保御待所に入りました。そこで暫し休憩し、身支度を整えたのです。

                    まあ、こう言っちゃあナンですが、汚れた格好のまま、儀保御待所前を素通りしたのは、1609年の島津軍と1945年の米軍でした。

                    礼儀を知らない「バ〜ロ〜」は、これだから困ります。

                    (続く)


                    与儀のパンク修理屋

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                      農連市場の近くを通る国道330号線の、与儀十字路から古波蔵十字路までを与儀本通りと呼びます。

                      その通り沿いにあるのが、こちらのパンク修理屋。夕陽に映えるたたずまいが素敵です。




                      沖縄の道路は灼熱地獄。ある日突然、車のハンドルがガクガク揺れ始めます。タイヤの接地面が道路の熱で変形するのですねぇ。恐ろしいことです。加えて、強い陽射しがタイヤの側面を劣化させるため、いとも簡単にパンクしてしまいます。

                      某青果店では目先の出費を抑えることが「良し」とされているので、交換するタイヤは常に中古。その寿命は1、2年です。

                      そんなことで、頻繁に修理屋の客となる私は、オヤジとすっかり仲良くなりました(笑)


                      修理屋の店内は新旧のタイヤで埋め尽くされています。そこにオヤジが休憩する椅子がありまして、私はそこに座って、オヤジがくれた缶コーヒーを飲んでます。



                      で、オヤジは私のバイクの前輪を交換中。


                      このところ前輪のタイヤがまったく地面をグリップしなくなりました。曲がりたい方向の反対側にフニャ〜となる感じです。

                      オヤジが「新品は5千円。中古なら2千円だよぅ。」と言うので、目先の出費を抑えることを「良し」とする私は、迷わず2千円を選択したのでした。


                      オ「バルブも取り替えたほうがいいよぅ。」

                      C「じゃあ、サービスしておきなさい。」

                      オ「車と違って、バイクのタイヤ交換は手間がかかるんだよぅ。」

                      C「あっ、工賃ね。サービスしておきなさい。」

                      オ「まあ、Cさんはよく来てくれるから、それでいいよぅ。」

                      C「しょ〜ゆ〜こと(笑)」

                      そのうち後輪もダメになるでしょうが、それまでに、店の車のタイヤを何度か交換するでしょうから、儲けるのはそっちでお願いします。


                      タイヤ交換が済んだ私のバイクは、古波蔵十字路へ向かう坂道を気持ち良く下り、キュッキュッとタイヤを鳴らして、国場方面に走り去ったのでありました。


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