今日で仕事納め

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    農連市場の仕事納めは大晦日。お正月用の買い出し客が集まるので、どの店も書き入れ時です。

    今朝は、トモコオバぁのカマボコ屋にも佐辺昆布店にも、お客様の行列が出来てました。


    某青果店では、長男が病院や介護施設に朝の配達をし、相棒のAが惣菜屋へバイクで大根を届ければ今年の仕事が終わります。

    保育園はとっくに休みで、私の仕事はありません。市場を一巡して暮れの挨拶を済ませました。


    そして朝の8時半。惣菜屋から帰って来た相棒のAが店の奥でキャベツの皮を剥いてます。

    C「あら、おまえ何してる」

    A「新年の準備さ」

    C「新年の準備は昨日で終わったじゃん」

    A「一応ね」

    C「一応って何だ。何もすることは無いはずだろ」

    A「その先さ」

    C「そんな所のキャベツの皮剥いても傷むだけじゃん」

    A「いや、オカぁがよ。3時半に惣菜屋へ行けって言うんらよね。」

    C「惣菜屋は今行っただろ」

    A「いや、おせちをよ。注文してるわけさ」

    C「誰の」

    A「そりゃ、オカぁのさ」

    C「それを引き受けたのかっ!!」

    A「仕方ないさ」

    C「仕方なくないっ!!、某青果店には子供も孫もひ孫もいる。何でおまえが仕方ないのよ。」

    A「ひ孫は二才らけろ(笑)」

    C「ふざけんな。俺がお父さんに言うてやる。おまえは仕事をすんな。ゴソゴソやってるとやり残してるみたいだからな。」

    A「じゃあ、キャベツは一箱だけ」

    C「動くなって言ってるだろ。はい、気をつけっ!!」

    孫「そんな話になってんスか。俺が行きますよ」

    C「おっ、そうか。ありがとう。ひ孫じゃ無理だからな(笑)」

    ほんまこのお人好しには呆れます。


    そして私とAは、お餅代のようなお年玉のような小遣いをお父さんからニコニコと受け取り、9時に店を出たのでした。

    保育園は新年4日から。私は3日の午後から店に出て、その準備をします。


    今年一年、私のブログ「沖縄の風景」にお越しくださり、誠にありがとうございました。

    皆様も良いお年を。




    首里城から延びる道(8) 国頭・中頭方東海道4

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      県道82号線を渡った私は、首里中学校の西側を歩いています。つまり、右手が首里中学校。



      かつて、首里中学校の敷地には聞得大君御殿がありました。



      「いつかまた豊かな王国を造ろうぞ」
      聞得大君になるために生まれ、聞得大君として生きるために生涯を費やした真牛は、王朝歴代最高の聞得大君になった。放物線を描いて大地に落ちていく肉体から離れた魂は自由に空を舞う。
      「祖神アマミクが創造したこの国、祝福されたこの大地、その全てを包んで今、私は風になる」


      (泣)

      ドラマ「テンペスト」から3年になるんですねぇ。


      さて、御殿の西側にはウサンシチと呼ばれた場所がありました。那覇港がよく見え、御殿の神女が港を出る船にティサージ(手拭い)を振り、航海の安全を祈ったそうです。今は住宅地となり、その場所はわかりません。


      宿道がアジマァに出ました。



      ここを直進するとあやぐ食堂の横に出ます。

      20110527113052_0.jpg


      宿道は左折です。少し歩くと崖地に出ました。



      これで、ウサンシチからの眺望がわかります。もっとも、左手のマンションや右手のニセ首里城が視界を遮るので、視界はイマイチ。左手のマンションの向こうが泊港です。

      この崖地にアムトゥ嶽という御嶽があったそうで、ウチナーグチ辞書を引くとアムトゥは土手でした。急斜面ということになるんでしょう。

      こんな文例がありました。

      シュリチューガッコーヌ イリンカイ(首里中学校の西に) アムトゥダキンチ アンドー(アムトゥ嶽があるよ)

      あらまあ。ここのことじゃないですか。辞書に載るくらいだから、有名な御嶽だったんでしょう。しかしアムトゥ嶽もまた、宅地開発により消滅しています。


      宿道は、崖地の急坂は下りずに右折です。



      少しづつ下り坂が急になり、久場川ビラ(坂)に出て、



      坂を下った所に久場川ガー(跡)がありました。



      かつては水量豊かな湧水でした。井戸の周囲はターンム(田芋)畑が広がり、トゥーンナジャー(田鰻)が捕れたそうです。今は高層住宅が建ち並び、湧水も枯れています。


      だんだんと、気が重くなってきましたが、首里の端っこまで歩きましょう。

      宿道は、久場川ガーの脇にある駐車場を横切り、



      その先の住宅地に入ります。



      小さなアップダウンがあり、



      見覚えのある道に出ました。




      おお、のー饅頭じゃないですか。



      その味は「まるでお日様に干したやわらかい布団のようななつかしさ(平松洋子さん)」。

      CIMG4202s.jpg


      のー饅頭のおかげで、なんとなく区切りがつきました。国頭・中頭方東海道の紹介はここで終わりです。

      首里から中城に向かう道は三本ありました。

      (1)クンディムイ橋から久場川ビラに抜ける、今歩いたルート

      (2)首里中学校の東側から、クシヌミチ、立川ビラを抜けるルート

      (3)継世門を出て、弁が岳へ抜けるルート

      三本のルートは現在の城東小学校のあたりで合流し、その先で、再度分岐します。

      このブログでは、一応、(1)を国頭・中頭方東海道とし、(3)をハンタ道としましたが、正しいかどうかは不明です。

      もっとも私には、それほどのこだわりは無く、道が三本あれば、歩く楽しみが三通りになり嬉しいってこと(笑)

      間違いがあっても、ご容赦のホド。

      (国頭・中頭方東海道は終わり)


      首里城から延びる道(7) 国頭・中頭方東海道3

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        クンディムイ橋を渡り、首里当蔵町から首里汀良町に入りました。

        橋のたもと右手の空間がアスイ御嶽です。



        そこにベンチがあり、その横の看板には「このベンチで腰を伸ばせ」と書いてありました。

        う〜む。御嶽で腰伸ばし(笑)


        この岩の前と、



        ガジュマルの前が拝所のようです。



        石畳道があり、



        その先にあるのが、汀志良次ヌ新井戸(ティシラジヌミーガー)。



        手前のブロックは事故防止のために、後に積まれたもので、元は開口した造りだったようです。

        水質が良く、豆腐水(トーフミジ)として人気がありました。野菜を洗ったり、洗濯をしたり、多くの村人が集まる場所だったようです。


        井戸の横にこんな坂があり(写真は坂上から)、



        そこを上った所に首里汀良町ふれあい館(公民館)がありました。



        この場所が橋の名前になっていたクンディ森(ムイ)。八月十五夜には、ここで獅子舞が行われるそうです。



        その獅子舞はシーシケェラセーと呼ばれ、凄みのある勇猛な舞とのこと。来年はぜひ観に来ましょう。


        公民館の前で、オジぃが日向ぼっこをしてました。クンディ森にはそのオジぃと私の二人だけ。

        「え〜、何してる。拝みね。」

        おお、拝みに来たように見えるのか?

        てことは、私が豊見城グスクに潜入する日も近いのか?(笑)

        先ほどの井戸を、上から写真に撮っていると、



        「え〜、何してる」

        「いや、ちょっと井戸の写真を」

        「井戸ならいくらでもあるさ。教えよ〜ね。」

        集落の古老は、問われたことに静かに答えるもの。言いたがりのオジぃの言うことは、概ね、たいしたことはありません。

        「あなたは下の御嶽で腰を伸ばしていなさい」

        と、心で思ったのでした。


        さて、クンディ森を後にした私は、県道82号線に出ました。モノレールが走る坂道で、右手に行くと首里駅です。



        (続く)


        首里城から延びる道(6) 国頭・中頭方東海道2

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          龍潭通りを渡り、パナソニックの横のスージを、



          川に向かって下ります。




          この川は、安里川上流の嶺間川(ミーマガーラ)。



          「ミーマガーラ」

          ウチナーグチで呼ぶと、なんでこうも美しい響きになるんでしょうねぇ。大和口ではミネマガワ。あらそうって感じです。

          そこに架かる橋がクンディムイ橋。近くのクンディ森(ムイ)にちなんだ名前です。


          首里の古地図を見ましょう。



          龍潭通りに面した天王寺と、その裏手に石橋のクンディムイ橋が記されています。

          橋の下流で川が湾曲していますが、そこで川蝦(タナガー)、鮒(ターイユ)、川蟹(ガニ)などが捕れたそうです。

          ミーマガーラは今では生活排水路ですが、かつては清流だったんですねぇ。

          ウチナーグチ辞書で「ガニ」を引いてみるとこんな文例がありました。

          「ティーイービ(手の指を)クーラチ(食わせて)ガニ トゥティ アッチャン(蟹を捕ってやった)」

          川遊びをする子供の様子が目に浮かびます。これはもはや桃源郷です(笑)


          さて、現実に戻りましょう。

          ミーマガーラは護岸工事でコンクリートの川となり、橋の下流の湾曲も見あたりません。



          残念ですが、度々氾濫した川だそうですから、護岸工事で良いこともあったってことにしておきましょう。


          クンディムイ橋のたもとに高い石垣がありました。



          これはかなりの年代物です。戦前ってことは間違いなく、琉球王朝時代のものだとすれば、いったい何処の石垣なんでしょう。

          ありゃ!!

          天王寺かっ!?

          龍潭通りに引き返しました。

          天王寺跡は以前訪ねたことがあります。石垣が残っていて、敷地は首里教会になってたはず。(→詳しくはこちらから)

          20120327191842_0.jpg

          表と裏が繋がっているのか確かめてみると、どうやら繋がっているようです。先ほどの石垣は天王寺のもので間違い無いでしょう。

          天王寺の石垣が裏側にも残っていることは、あまり知られてないと思います。敷地内が民家なので、積極的にPRしていないってことでしょうか。


          この投稿のテーマは国頭・中頭方東海道なんですが、どんどん首里の散歩みたいになっていますね(笑)

          まっ、一応、宿道に沿って進んではいますので、ご了承のホド。

          (続く)


          首里城から延びる道(5) 国頭・中頭方東海道1

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            首里城を起点とする五本の宿道を歩く。二本目は国頭・中頭方東海道です。

            (国頭・中頭方東海道)
            歓会門、円覚寺南側、天王寺東側、読谷山御殿西側、久場川ビラ


            スタートは歓会門。首里城のウェルカムゲートです。



            対に配置された獅子が城を護ります。

            向かって右手に、口を開けた阿形と、



            左手に口を閉じた・・



            ありゃ、おまえ。何してんの?

            口を閉じなさい。

            「何で?」と問われたら、返す言葉は無いんやけど。なら、まあええか(笑)


            歓会門を出て、園比屋武御嶽で道中の安全を拝み、ハンタン山の坂を下ります。



            坂の途中に大アカギがあるはずが、そこにあるのはガジュマル。



            アカギは戦火で枯れてしまいましたが、その幹は硬くて丈夫。それにガジュマルが巻きついたんです。→詳しくはこちら


            左手に円覚寺を見ながら、城壁に沿って歩きます。



            再び、坂本万七写真集「沖縄・昭和10年代」を見ましょう。



            さすがは琉球王朝の菩提寺。その風格にため息が出ます。いつになったら復興されるものやら。御内原が終わったら、是非、着手いただきたい。


            城壁に沿った石畳道になりました。



            ところが、この石畳道は歩かずに、左手のコンクリートを歩きなさいってことになっています。

            何のために石畳道を復興したんやっ!!

            ちゅうことですわ。

            そして、最近造った石畳道は歩いてよろしいと。はいはい。




            坂を下りた所に、建善寺の入口跡がありました。



            第二尚氏の時代、円覚寺、天界寺、天王寺は三大廟と呼ばれていました。建善寺は天王寺の末寺。つまり、本山である天王寺の支配下にあったということ。

            本山と末寺。それが、本末転倒の言葉の由来です。

            建善寺には広い庭園があったそうで、今も当時の井戸が残っているそうです。ところがそこは民家の庭。

            「ちょっと井戸を見ましょうね」とは言いにくいのよね。


            この辺りは寺院が集まっていた場所で、言わば首里の寺町でした。このスージを抜けると龍潭通りです。



            (続く)


            首里城から延びる道(4) 真珠道3

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              真珠道について2本の投稿をしながら、まだ私は首里城の中。この調子では真珠道だけで年が明けてしまいます。

              私は随分前に真珠道のマップを作成し、投稿しました。



              そして、真珠道を幾つかのパートに分けて紹介しています。沖縄に来て間もない時期で内容の薄さは否めませんが、真珠道の基礎コースにはなっているでしょう。

              真珠道を歩く(1) 金城橋〜識名坂
              20110224162652_0.jpg

              真珠道を歩く(2) 真玉橋〜石火矢橋
              20110226124856_0.jpg

              真珠道を歩く(3) 識名坂上〜識名宮
              20110303183437_0.jpg

              真珠道を歩く(4) 山下南〜小禄
              20110310193124_0.jpg

              真珠道を歩く(5) 首里城〜赤マルソー通り
              20110807161127_0.jpg


              その後、冒頭のマップを読者から求められ、拡大版を投稿しています。

              真珠道マップをどうぞ

              このマップは、石火矢橋から小禄までのルートが欠落していますが、後にわかりましたので、ここで追記します。



              石火矢橋を渡った真珠道は、豊見城グスクを迂回するルートと城内を抜けるルートに分かれていたんですね。

              当時の豊見城グスクは機能していて、必要があれば城内に入り、屋良座森グスクに直行する場合は迂回したようです。


              それにしても豊見城グスクは立派なグスクだったようです。広い敷地と三層の城壁。城門は北と南に2ヶ所と、城内に一つ。次の写真は城内の門だそうです(今は無い)。



              城壁の一部は残っているそうですが、私有地のため城内には入れません。

              いや、入れます(笑)

              城内の御嶽で拝みをする人は出入りできるそうですからね。

              だから私が、

              「拝んできましょ〜ね」

              と言えればいいわけです。

              最近、「あんたもウチナーンチュみたいな顔つきになってきたね」と言われることが増えましたが、半分はお愛想。

              私の「拝んできましょ〜ね」は通用しないのですよ。たぶん。

              (真珠道は終わり)


              首里城から延びる道(3) 真珠道2

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                坂本万七写真集「沖縄・昭和10年代」に収録されている守礼門です。



                坂本万七さんは戦前の「沖縄の風景」を数多くの写真に収めています。

                真玉橋(まだんばし)

                __.JPG

                石火矢橋(いしびゃーし)

                20110226124912_0.jpg

                いずれも真珠道の通る橋です。


                先ほどの守礼門の写真に戻ります。

                守礼門の先の右手に見える石造物を石門(いしじょう)と呼びました。今はありません。



                そこが真珠道の起点です。


                今朝の守礼門です。



                緑色のカバーが施された正方形のスペースに、戦前まで、真珠湊碑文がありました。



                碑文は石室の中にあり、石室の開口部は右を向いていました。その左手に2メートルほどの間を空けて同じような石室があり、そこに国王頌徳碑文がありました。その石室の開口部は左。

                すると、二つの石室の壁が並ぶことになり、それが石門のように見えたんですね。

                真珠道は二つの石室の間に挟まれた石段を上ることで始まったのでした。


                次の写真は綾門大道(あやじょううふみち)の発掘調査を行っているところ。二枚上の写真と同じアングルで、奥に守礼門が見えます。



                真珠湊碑文のあった場所(左上)で男性が作業しています。

                守礼門に向かう綾門大道と排水溝がわかりますね。その排水溝を跨いで左手に向かう石畳道が1メートルほど露出しています。

                嗚呼、おいたわしや。真珠道の起点です。

                「もっと左手に掘り進みなさい!!」と言いたい(笑)

                やはり、本物の首里城は地中に埋まっているんですねぇ。


                真珠道(地中ですが)を少し進むと、島添ビラ(シマシービラ)の入口があります。



                今は、この場所が真珠道の起点と思われていますね。

                そこから守礼門方向を振り返ります。



                この車道の歩道部分が、概ね、真珠道と重なっていると考えて良いでしょう。


                話は変わりますが、この車道は守礼門の後ろや円覚寺の前を抜けて、龍潭通りに繋がっています。以前は車で通り抜けることができました。

                首里城を車から見える場所は案外少なく、龍潭の脇から数秒見える程度です。首里城をゆっくり歩く時間が無い観光客にとって、先ほどの車道は便利でした。夜は首里城のライトアップが美しく「まあ素敵」と喜んでいただけたものです。

                ところが、数年前から通行止めになってしまいました。そもそも首里城に無かった車道を造っておきながら、今度はそれを通行止めにする。

                「何しとんねんっ!!」

                と言いたい。

                通行止めにした理由は知りませんが、交通整理が面倒くさくなったのではないかと思います。そんなことなら、最初から造らなけりゃあいいのに。

                「真珠道を元どおりに戻せ!!」

                と言いたい。


                真珠湊碑文と国王頌徳碑文のレプリカを本来の位置に戻す予定があるそうですから、その時は車道を無くして、真珠道を掘り返していただきたい。

                ボロクソに言っておきながらではありますが、何卒、よろしくお願い致します。m(__)m


                首里城から延びる道(2) 真珠道1

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                  首里城を起点とする五本の宿道を歩く。最初は真珠道です。

                  (真珠道)
                  真珠湊碑文、島添ビラ、金城町石畳、金城橋


                  真珠道の起点は真珠湊碑文(まだまみなとひもん)。沖縄戦で失われましたが、首里城の首里杜館(すいむいかん)前の公園にレプリカがあります。



                  左手が国王頌徳碑文(こくおうしょうとくひもん)。

                  「首里おきやかもいかなしの御代に、ミやこよりち金丸ミこしミ玉のわたり申候時にたて申候ひのもん」

                  第二尚氏王統の第三代国王尚真の神名が於義也嘉茂慧(おぎやかもい)。加那志(かなし)は様ですね。宮古島から(宝剣)治金丸と真珠が献上された際に建てられた碑文とあります。

                  そこには、尚真王が立派な王だということが記してあります。

                  何が立派かと言うと、それまでの王は、自分が死んだ時に家臣を同道させていたが、尚真王はそれを禁止させたと。

                  同道って、グソー(あの世)に同道させるってことです。

                  うぇ〜!!

                  無茶苦茶しますねぇ。

                  尚真王はそれを「非道の義」と見なしたと。

                  そりゃそうでしょ。

                  ところで、同道させる家臣はどうやって選ばれたのか。

                  王の言うことを良く聞いて、真面目に仕事をした家臣が選ばれたのか。王の言うことをまったく聞かず、「こいつは生かしておいても役に立たんな」と思われた家臣が選ばれたのか。

                  真面目にやってもやらなくても殺されたってことじゃないですか。_| ̄|◯

                  それは非道と言うより、極悪非道。よくもまあと思ったら、この碑文には「男女とも競いすすんで同道し、その数二、三十人に及ぶ」と記されています。

                  「本当かっ!!」と言いたい。


                  呆れかえりますが、気を取り直して真珠湊碑文に進みましょう。





                  「首里の王、おきやかもいかなし天のみ御ミ事に、ま玉ミなとのミちつくり、はしわたし申候時のひのもん」

                  尚真様のご命令により、真玉湊の道をつくり、橋を渡した時の碑文とあります。

                  有事の際はこの道を通り那覇港を守れと。


                  さて、国王頌徳碑文と真珠湊碑文のレプリカは首里杜館(つまり駐車場の上)前の芝地にありますが、そこが真珠道の起点のはずがありません。

                  真珠道の起点を守礼門の近くで見つけました。

                  (続く)


                  首里城から延びる道(1) 琉球惣絵図

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                    琉球惣絵図は18世紀後半に作成された、沖縄本島ならびに周辺離島の地図です。



                    各間切が色分けされている上、主要な集落、建築物、河川、井泉などの名称が書き込まれています。

                    また、道路が白く塗られているため、首里城を起点とした宿道のネットワークが一目でわかります。

                    も〜、いつまでも眺めていたい(笑)


                    こうした宿道は18世紀初頭には整備されていたと思われ、18世紀前半の蔡温による検地(乾隆検地)で精密に測量されています。

                    琉球惣絵図は乾隆検地の情報に新たな情報を加えて色付けをしたもので、琉球王朝を知る上で第一級の資料と言えます。


                    琉球惣絵図は幾つかの間切をまとめて描かれていて、全部で25枚あったと推定されています。そのうち現存するものは、わずかに6枚。2001年に米国で見つかりました。

                    残る19枚も米国の何処かにあるんじゃないかと思いますね。

                    「早く返せ!!」と言いたい。

                    て言うか、

                    「勝手に持ってくな!!」と言いたい。


                    現存する6枚に描かれている間切は以下の通りで、冒頭の写真が(1)です。

                    (1)首里、那覇、真和志、小禄、南風原、豊見城

                    (2)兼城、高嶺、真壁、喜屋武、摩文仁、東風平、具志頭

                    (3)大里、佐敷、知念、玉城

                    (4)浦添、宜野湾、西原、中城

                    (5)北谷、越来

                    (6)国頭西半分


                    琉球惣絵図によると、首里城から各方面に延びる宿道は次の5本です。主要な経由地を書きましたが、全部は書ききれないので、首里近辺に限りました。宿道はその先も続いています。

                    (1)真珠道
                    真珠湊碑文、島添ビラ、金城町石畳、金城橋、識名坂

                    (2)島尻方西海道
                    久慶門、守礼門、綾門大道、中山門、茶湯崎橋、安里橋、長虹堤

                    (3)島尻方東海道
                    継世門、崎山馬場、下川原橋、ウフジョービラ

                    (4)国頭・中頭方西海道
                    久慶門、龍淵橋、松崎馬場、当蔵カジマヤー、安谷川御嶽、平良橋

                    (5)国頭・中頭方東海道
                    歓会門、円覚寺南側、天王寺東側、読谷山御殿西側、久場川ビラ


                    宿道ではないものの、魅力的な古道がもう一本あります。それはハンタ道。首里城から弁ヶ岳を抜け、中城グスクに延びています。


                    「5本+1。全部歩くつもりか?」と問われれば、その通り。ただし、首里を出るあたりまでね(笑)

                    もちろん、新しい道路や宅地により、宿道はあちこちで寸断されています。道を辿れない時は、現代の都市開発に憎しみを覚えます。

                    一方で、新しい道路や宅地をマスキングと考えれば、宿道の経路を推測する楽しみが生まれます。途中で途絶えた宿道が離れた場所で復活し、それを発見した時のヨロコビ。

                    どうなんですかね。この屈折した、憎しみとヨロコビの調和(笑)


                    駐車禁止の道路にパトカーが・・

                    0
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                      青果店前の道路は、ひめゆり通りに向かう一方通行です。道幅が狭いため駐車禁止になっています。もちろん、荷物の積み下ろし等の停車はオッケー。



                      ついさっき、そこへパトカーがやって来ました。

                      「那覇市警察署です。この道路は駐車禁止です。駐車している車はすぐに移動しなさい」


                      偶然、某青果店前には車は無く、駐車中は左手の菓子屋に一台、右手の弁当屋に一台。

                      その時、菓子屋のオヤジが悠然と出て来て、車の荷台の扉をピッと開けました。

                      セ〜フ!!(笑)

                      弁当屋のネェネェは慌てて飛び出して来て、ペコペコしました。

                      アウトゥ〜(笑)


                      パトカーは弁当屋まで移動し、

                      「先ほど110番がありました。この道路は駐車禁止です。万一の時、消防車、救急車、パトカーが通れず大変なことになります」

                      とお説教をしています。

                      相手はオロオロしている弁当屋のネェネェ一人。窓を開ければ話せるのに、何もスピーカーでお説教しなくても。ねぇ。

                      弁当屋のネェネェは車を何処かへ移動し、パトカーも去ったのでした。

                      で、車の荷台の扉をピッと閉める菓子屋のオヤジ。

                      これはもう、人生経験の差としか言いようがありません(笑)

                      これで、弁当屋のネェネェが一周して元の位置に駐車すれば、何も無かったことになりますが、正直者のネェネェは何処かへ車を停めて、雨の中、歩いて帰ってきたのでした。


                      市場で働く人が警察に通報するはずがなく、通報者は一方通行を通った一般の人でしょう。

                      この一方通行はひめゆり通りへの抜け道になっていて、開南本通の渋滞を回避でき、信号も無し。そのため、用も無いのに入って来る車が多いのです。

                      それでそいつが、駐車中の車が邪魔だと110番したということ。


                      小さい。

                      人として小さ過ぎる。_| ̄|◯

                      広い道路を通らず、わざわざ狭い道路に入って来て、

                      「狭い!!」

                      って当たり前じゃないか。

                      「お仕事中すみません。ちょっと通りましょうね。」

                      と言いなさい。
                       


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                      念願の沖縄生活を始めて14年になりました。
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